パンデミックによる決定的な社会システムの変容が引き起こされはじめていた、2020年2月。編集長・宇野常寛によるマニフェスト的な主著『遅いインターネット』(幻冬舎, 2020)が刊行されました。
それから約3年。疫病と戦争の時代を経た人類は、ますます「速く」なったインターネットに翻弄され続けています。なぜ人々は、プラットフォーム上の相互評価のゲームに抗えないのか? 『遅いインターネット』文庫化のこのタイミングで、パンデミックから3年間の情報環境の変化を踏まえた中間報告と、これからの対抗戦略を宇野が書きました。
端的に言うとね。
より「速く」なったインターネットに抗って
「いま必要なのはもっと〈遅い〉インターネットだ」と啖呵を切ったのが5年前、このウェブマガジンをはじめて、「書く」「読む」技術を共有するワークショップを始めたのが3年(と少し)前のことだ。前後して発売された僕のマニフェスト的な本(『遅いインターネット』)が、発売から3年のタイミングで文庫に収録される。僕もちょうど一連の活動を見直してアップデートしようと考えていたところでもあって、この「遅いインターネット」計画にかかわるいろいろな物事が「だいたい3年」で節目を迎えているように思える。なので、今回はこのタイミングで僕なりの中間総括というか、これまでのことを踏まえてこれからのことを考えてみたい。
疫病と戦争の時代に
この3年とは、端的に述べれば疫病と戦争の3年間だった。とくに疫病はこのインターネットをより「速く」することに大きく貢献した。今回のパンデミックはインフォデミックによって下支えされていることにその特徴があったことは間違いない。人間たちは、未知のウイルスとの時間をかけた試行錯誤のコミュニケーションに耐えられず、それを既知のものとして扱う言説(デマや陰謀論)に飛びついた。それはただのカゼである、中国の細菌兵器である、ワクチンはビル・ゲイツの人類改造計画である……。人々は、Googleで検索しても答えのない問題に、耐えきれなくなっていたのだと。そして、このパンデミックの恐怖が、アテンション・エコノミーに駆動された相互評価のゲームと化して久しい今日のSNSのプラットフォームを中心としたインターネットをより「速く」したように思える。
プラットフォーム上の相互評価のゲーム
このSNSのプラットフォームによって常態化したアテンション・エコノミーはインターネット全体を相互評価のゲームに変貌させた。このゲームにおいては既に多くの人々が話題にしていることに言及し、かつ支配的な意見に強く、扇情的な表現で肯定か否定をする戦略が有効になる。少なくとも即時的な承認の交換(共感)を目的とした場合、この戦略(という程のものでもないのだが)の有効性を否定するのは難しい。
いま、世界に対して何も残すことのできていない人間がとりあえず承認を獲得したければ、政治的な発言をすればよい。それもなるべく分断の強い問題を選択し、強い言葉で「敵」を攻撃すれば良いだろう。僕は軽蔑しか感じないが、少なくとも即時的な承認を「共感」した人々から獲得できるだろうし、売れない物書きや政治活動家も成り上がることができるかもしれない。なぜならば、このゲームのルールを利用して、経済的、政治的な動員を行うことまでもが既に常態化して久しいからだ(トランプは再選への望みをかけて、大統領に戻れなくともアメリカ最大のインフルエンサーであり続けるために、陰謀論を利用したのだ)。
この構造については昨年秋に出版した『砂漠と異人たち』で、詳細に分析しているのでぜひ参考にしてもらいたい。
「敵」が求められる時代
僕は「オンラインイベント症候群」と呼んでいるが、動画の生配信などで話者と観客の共犯関係が生まれ、そこがデマや陰謀論の温床になりがちなのも、同じ構造の現象だろう。話者は観客に受けたくて、強い主張を行う。そのとき「敵」を貶めると、話者と観客の間に一体感が生まれて盛り上がる。観客も話者に取り上げてほしくて、媚びたコメントをつける。こうして、歯止めがかからなくなり排除と差別の快楽とメンバーシップの確認の安心を得るためにそのその「場」には歯止めがかからなくなる。気がつけば、そこは「敵」に対しては何を言ってもいい「場」になっていくのだ。
3年目からの対抗戦略
このようにとても残念なことだけれど、この3年間でよりインターネットは「速く」なった。では、どうするか、ということをここでは考えてみたい。これまで通り「遅いインターネット」計画は進めていくのだけれど、やっぱり状況の変化に合わせて新しい戦略は必要だと思っている。
僕の考えていることは3つある。
まず1つ目は、もう少し回路を増やすことだ。FacebookやTwitterといった文字ベースのSNSの相互評価のゲームに、YouTubeなどの動画プラットフォームが連動して並走する、という状況に閉塞感を覚えている人は多いだろう。
僕もその一人だ。とりあえず今の僕は、実際の場所や空間を用いたアプローチ(「飲まない東京」プロジェクトなど)や音声メディアなど、これまでは中途半端にしか用いてこなかった回路に腰を落ち着けてアプローチしたいと思っている。ここについては、この4月からおいおい発表していくことになると思う。
2つ目は、僕ではない人ーーできれば若い人ーーの本を新しい仕組みで、しっかり出していくことだ。
僕のかかわっている出版の世界でも「速い」インターネットの影響はとても大きくて、たとえばいま「意識の高いビジネスマン」や「マイルドヤンキー」など、文化系の人々が苦手な人達を貶める本が目立ち始めている。彼らは教養がない、文化的ではないと実質的にバカにして(表面上そう見えないようにアリバイはつくってあるが、実際にその差別の快楽を提供して)支持を集めるのだ。このタイプの本を出すことがある程度の数字を残し、物書きや編集者の出世コースになることは、とてもこの国の社会の知的な世界を貧しくすると思う。
そこにあるのは、物事そのものに向き合うのではなく、その物事にかかわる人間関係にコミットして承認を獲得することを目的にした行為だ。しかし僕はこの3年間、人間たちはさんざんウイルスではなく人間に、物事そのものではなくそれに付随する人間間のコミュニケーションの中に閉じこもってきたのだから、このあたりでもう少し物事そのものにコミットすることを考えたほうがいいはずだ。物事をつくること、直接論じることよりもそれにかかわる人々の相互評価のほうが前面化することは、確実に世界を貧しくする。
そこでこうした相互評価のゲームに埋没した卑しい本ではなく、きちんと事物そのものにアプローチした本が、正当に評価されるための運動を、僕はこれからはじめようと思っている。それは、ダメな本や書き手を批判すると言ったことではなくて、自分たちはこういうものが良いと思う、という肯定する運動にするつもりだ。相互評価のゲームとしては、否定の言葉のほうが有利なのだけれど、そこは知恵を絞ってうまくカバーしていきたい。
具体的にはきちんと物事そのものを論じ、批評する本の出版を少し大掛かりに進めてみたいと考えている。これまでのように、僕が自分の事務所から誰かの本を出版するというだけではなくて、他の人や団体の力も借りてアテンション・エコノミーにおいては不利だけれども、良質なものの出版を助成し、その読者も同時に育てるような運動だ。これはまだアイデアの段階で、幾人かと構想を共有しているにすぎない。しかし、本が売れない、ダイエットと自己啓発とヘイトスピーチしか売れないと、愚痴っていても仕方ない。新しい仕組みと、新しい読者の両方を、時間をかけてつくるしかない。そのための仲間集めからはじめているところだ。時間がかかると思うけれど、コツコツやっていくので応援してほしい。
もし、この試みがそれなりに形になれば少しでも売れるために、注目を集めるために卑しい仕事に手を染める書き手や編集者が、多少はその選択をしないで済むケースを増やしていけると思う。
また個人的にはサブカルチャーの世界では業界やファンコミュニティが大切にしたい作品を「みんな」で応援する言葉が主流になり、創作物を通じて物事を考える広がりのある思考(批評)は忌み嫌われるようになっていることをとても残念に感じている。
批評の言葉はあるタイプの人たちには憧れとコンプレックスを刺激する。この作用は批評という行為そのものへの憎悪を掻き立てる。しかし、人間がある表現に接して、そこから広がる思考を抑圧するという行為はとても愚かなことだ。そして、この「同じ神輿を担ぐ」言葉以外は受け入れない態度は、「敵」をつくることで効率よく承認を交換する態度とコインの裏表の関係にあるもので、基本的に同じものだ。ここについては、優れた批評の出版を応援するだけではなく、自分がしっかりした批評を書き続けることで応答したい。
3つ目は「庭プロジェクト」という計画で、これは実はこの4月から活動を開始する。「遅いインターネット計画」とは、人間に対するアプローチだ。プラットフォームの与える速度に抗う力を、人間の側がどう養うかというところに焦点を当てている。対して、この「庭プロジェクト」は環境の側へのアプローチ、つまりプラットフォームの支配から自由になれる場所を、僕たちの暮らしの中に埋め込むためのプロジェクトだ。(ボードメンバーも既に確定し、研究会は4月からスタートする。詳細は『群像』の連載「庭の話」)を参照して欲しい。)
具体的には、これからの公共空間、コモンズを考えるプロジェクトだ。そしてその範囲は実空間とサイバースペースの双方に及ぶ。2010年代は、プラットフォームが実空間に対する動員力を発揮した10年間だった。「アラブの春」から、ライブアイドルの「現場」までーー人々はプラットフォームとハッシュタグに動員され、実空間に足を運び続けた。そして、どこで何と出会っても、ハッシュタグのついたもの以外目と耳に入らなくなった。
しかしプラットフォームの支配(影響)下にあるこの世界は貧しい、と唱えているだけでは何も始まらない。なので、実空間の側がもっとタフにならないといけない、というのが僕の考えだ。
だから僕はここで、まずは僕たちの暮らす街づくりの側面からプラットフォームのもたらす相互評価のゲームから相対的に自由になれる場所を考えてみたいと思っている。要するに、プラットフォームの力に対抗できる実空間をつくるプロジェクトだ。
ちなみに断っておくけれど、たとえばオーナーや管理職だけが楽しい「飲み会」のようなものが職場に復権することを、僕はプラットフォームに対抗することだとは思わない。そこで行われているのは、僕がこの文章で「オンラインイベント症候群」と名付けたものとほぼ同じ、同調圧力で人間を思考停止させるコミュニケーションだ。(SNSのプラットフォームはインターネットを「飲み会」化したのだ)。
そうではなくて、その場所を訪れることで人間間の相互評価ではなく、承認の交換ではなく、物事そのものにしっかり関心が向けられる場所をどう設計し、都市に埋め込んでいくのか、それを考えるつもりだ。
要するに公共施設を、ストリートを交通を、どのように設計すればプラットフォームのもたらす下からの全体主義を回避できるのか、という問題に取り組むプロジェクトだ。それは同時に文化的な生成力の高い都市空間の条件という古くて新しい問題にも、現代的な解答を与えるものになるはずだ。こちらは、このウェブマガジンでも定期的に報告をしていこうと思う。
そして、この「庭プロジェクト」は、僕たちが7年前に手がけたあの「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」のリベンジでもある。あの頃、僕たちは象徴的な非日常の一大イベントに建設的な批判を加えることで問題敵を試みた。そして、失敗した。
あれから時間が経って、今の僕たちはどちらかと言えば日常の、暮らしの現場から考えようとしている。食べること、働くこと、遊ぶこと、そしてその現場としての街づくりーーこれらは、いまSNSのプラットフォームが担っている承認を交換するかという問題系の(「家」の問題系)の「なかば」外側にある(隣接している)「庭」の問題系ともいうべきものだ。非日常から日常へ、「家」から「庭」へ。そして「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」から(「遅いインターネット」計画)を経ての「庭プロジェクト」へ。ゆっくり、コツコツ積み上げていくので、優しく見守っていて欲しい。