21世紀以降の高級レストランでみられるようになった「現代料理」は、食材の生態系や採取地の文化を料理によって伝えるものとされています。今回は「現代料理」のフィールドワーク研究をおこなう文化人類学者・藤田周さんが、「食」を批評的にとらえるための足がかりについて論じました。
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端的に言うとね。
はじめに——二項対立としての食の思想
久保明教の『家庭料理という戦場』[2020]は戦後日本の家庭料理史、特に家庭料理を構成する概念の変遷を、著名な料理研究家によるレシピの読解を通して描く著作である。例えば高度経済成長期に、土井勝は、「手抜き」に対置されるものとしての「手作り」という家庭料理の理想を掲げた。久保によればそうした区別が可能になるのは、ガスコンロやインスタント食品といった食を支えるインフラのためである。そもそも戦前の地方の暮らしのように、自ら食材となるものを育て、火を起こすところから料理を始める他ないならば、「手作り」と「手抜き」という対立は立てようがなかった。そうした技術的環境を背景としつつ、家庭外で稼いでくる夫に対する、妻の自らの存在意義をかけた「贈与」として、「手作り」は「手抜き」から差異化されていく。
このように「手作り」を称揚する家庭料理像に対して、1980年代に、小林カツ代は、その理想を温存しつつも、その手間を大幅に削減するような「美味しい時短」を実現する料理を提唱した。その背景にあるのは、働く女性たちの増加であり、料理に従来のような手間をかけられないという状況である。カツ代は、「手抜き」であるようでいながら「手作り」でもあるような工夫されたレシピによって、その二項対立を言わば無化し、働く女性たちを励ましたとされる。
対して1990年代、栗原はるみは、急速に進展した消費社会下で家族が外食を通してそれぞれに食の好みを育てつつある状況に即して、外で食べる味を家庭で再現するようなレシピを提案し、定番の家庭料理と、家族の共同性の基盤とされる「わが家の味」への志向を「お店の味」に向けて半ば解体した。
久保による戦後日本の家庭料理史の分析が示すのは、食についての思想や実践を、二項対立的な思考、あるいは先行する二項対立を無化したりずらしたりする思考に近似できる、ということである。これは、人々が必ずしもそうした二項対立を明示しているわけではない以上、分析者が生み出すフィクションでもある。しかし食の批評が、対象とする人々の思考の複雑性のすべてを保持することは原理的に不可能であることを踏まえれば、それを二項対立とその展開において提示することに意義はあるだろう。
さて、本稿が論じるのは「現代料理」という料理のスタイルである。その料理人は、フランス料理などの高級料理をもとにしつつもその枠を越え、レストランの位置する場所の自然と文化の前衛的な「解釈」を試みている。例えばペルーの現代料理レストラン、セントラルでは、2019年の中頃、「極限の高地」(図1)という名の料理が提供されていた。これが客のもとに運ばれるときには、以下のように説明される。
「これはアンデスのクスコ県の一地域、ピサックを「解釈」した料理です。そこでは色とりどりのとうもろこしの在来種が栽培されていますが、そのうち、4種類を、様々な形と食感にしてお出しします。白とうもろこしのチョクロで団子を、紫とうもろこしで泡を、赤いとうもろこしでチップスを作り、とうもろこしの伝統的な発酵飲料を使ったソースを添えています。アンデスの山に囲まれた、色とりどりのトウモロコシが実った畑を想像しながら召し上がってください」
この料理の基調をなすのは、白いとうもろこしの団子の濃厚な甘さと、発酵飲料を使ったソースの、甘さと発酵由来のまろやかな酸味が織りなす調和である。また、4種類のとうもろこしを様々なかたちに調理することで、とうもろこしがもたらしうる風味の幅を最大限に引き出している。食感について言えば、団子のねっとり感、泡の滑らかな舌触り、チップスの硬さ、キウィチャのつぶつぶした感じのもたらす差異によって、料理のどこを食べても同じにならない。極めておいしい料理であると言える。同時に、その説明に表れているのは、セントラルにおいて料理が、ある生態系のイメージを解釈するものとして作られていることである。その説明で言われるように、セントラルの料理はひとつの生態系において育つ食材を組み合わせることで作られている。色合いにおいても、料理は収穫期のアンデスの畑のようなくすんだグラデーションを示している。実際は高度な技術が用いられた料理であるにもかかわらず、無秩序に要素が積み重ねられたかのような盛り付けをすることによって、生態系をそのまま料理に持ち込んだかのような印象がもたらされている。セントラルの料理は、おいしさと、ローカルなものの解釈という二つの方向性を同時に追求するものとなっている。
筆者は、セントラルを中心に、ペルー各地のレストランで計約2年間の人類学的フィールドワークを実施してきた。すなわち、ひとりの料理人としてキッチンで働くことを通して、料理人の考え方を学んできた。それにより明らかになったのは、現代料理レストランという料理の一つの最先端の現場の料理人の思考もまた、複雑な二項対立の組み合わせとみなすことができるという事態である。本論の狙いは、セントラルの思考を二項対立というフィクションを通して示すことで、批評として食を描く指針を得ることである。
現代料理とは何か
現代料理について大まかな理解を得るために、ノーマというデンマークのレストランを紹介しよう。ノーマとは世界ベストレストラン50という、料理人や批評家による相互投票によるレストランランキングで世界一位を5度獲得したレストランである。ノーマのコンセプトを端的に表す料理のひとつが「ハーブのブーケ、アリを散りばめたクリームフレッシュ」である。これは名前の通り、アリを乗せたクリームとともにハーブを食べる料理である。なぜアリを使うのか。それは、ノーマが北欧の自然と文化に徹底的にこだわり、それを料理において伝えるためである。ノーマの料理人は、食材の生産者、採集者の協力を仰いだり、伝統的な食文化を調査したりすることで、フランス料理的な発想では食材とされなくても食材となりうるものを料理に取り入れようとする。北欧という場所にしかない食材の風味を通して、その土地の経験をもたらそうとしているのである[レゼピ2015]。
セントラルは、こうした現代料理の潮流のただ中に位置づけられる。セントラルの特徴は、まず、冒頭で紹介した「極限の高地」のように、ある特定の生態系で育つ食材同士を組み合わせ、同時に提供される一皿から数皿の料理である「時」を作ることである。そして、コースとして提供される十数の「時」を通して、海から砂漠、アンデス、アマゾンまでを含むペルーの多様な生態系全体を示している。こうした独特なコンセプトと、独特な素材、それに基づく斬新な料理が評価され、セントラルは例えば2022年度のベストレストラン50では二位を獲得している。
すなわち、多様なかたちでローカルな自然と文化の表現を追い求めるのが現代料理であるが、そのもっとも重要な背景が「モダニスト料理」である。これは1990年代中頃に、それまで西洋の高級料理を席巻していたフランス料理の背景を持つ料理人によって、世界で同時多発的に始められた。モダニスト料理を牽引したレストラン「エル・ブリ」を代表する料理の一つが、生ハムメロンの「脱構築」である。これはメロンの果汁を、人工イクラなどに用いられる物質であるアルギン酸と炭酸カルシウムによって、球状に凝固させ、それを生ハムのコンソメに浮かべたカクテルである。見た目はキャビアのような球体が浮かんだ不思議なカクテルだが、その味はよく知る生ハムメロンのものであり、客はそのギャップに驚かされることになる。ここに現れるモダニスト料理の特徴は、以下の二点である。すなわち、(1)新たな調理技術の開発やレストランで使われていなかった技術の応用と、(2)おいしさだけでなく、驚きや困惑などの感情や、従来の料理の慣習などについての思考を喚起するという意味での「経験」をもたらす料理の提供を目指すことである[Jouary and Adria 2013;Raviv 2018]。
ノーマやセントラルのシェフを含む現代料理レストランのシェフの多くは、モダニスト料理のレストランで学び、自身のレストランでもその技術や体験への志向の一部を引き継いでいる。その点で現代料理を含めてモダニスト料理と称するようなこともある。だが、セントラルの料理人は、モダニスト料理が科学的・技術的な要素を強調し、土地の自然と文化の表現が中心に置かれていないとみなし、それと対比するようにして、セントラルのような自然と文化の表現を試みるレストランを現代料理と呼んでいる。
ローカルとグローバルの対立
セントラルの料理を実現する思想は、ローカルとグローバルの対立と、おいしさと「解釈」の対立という、二つの二項対立によって近似することができる。まずは前者の対立について考えよう。
まずセントラルにおいて、最も一般的には、ローカルとグローバルは鋭く対立させられている。その関係づけは例えば、シェフによるフランス料理についての発言に見ることができる。セントラルのシェフ、ヴィルヒリオ・マルティネスは、フランス料理の体系化に大きく寄与したオーギュスト・エスコフィエと、ノーマに代表される新北欧料理に言及して、以下のように述べている。
「新北欧料理は重要な動向だった。これまでのガストロノミーを作り直して、料理人が新たに出発できるようにした。それはフランス料理の間違いを正した。これまでの料理は誰が作ったのか? エスコフィエだ。彼がソースやキッチンの仕組みを作った。料理人はこれまでその伝統の中にいた。私自身はそういう世代から来た。まだ私はそこから抜け出そうとしている」
シェフはフランス料理が間違いであると述べ、自身がフランス料理から離れる途上にあるとする。彼はまた新北欧料理を評価し、それと自身が方向性を共有するとみなしている。ここではフランス料理と新北欧料理・セントラルが対比されている。
ではそれぞれにどのような位置づけが与えられているのか。前節で確認したのは、ノーマがフランス料理、すなわち料理の世界での覇権を握っていたスタイルから離反し、レストランが置かれた土地の自然と文化の解釈を始めようとしたということであった。すなわち、上のシェフの発言においては、フランス料理に代表されるグローバル性と、新北欧料理やセントラルが目指すローカル性が対置されているとみなすことができる。
またセントラルは、新北欧料理と自らを対置しつつ、自身にローカル性を割り振ることがある。チップスや粉末という、モダニスト料理において洗練され、新北欧料理でも多用される調理技術について、キッチンで重要な位置にある料理人は以下のように述べる。
「現在のセントラルにおいて、料理は世界を見るための窓のようなものになった。だから簡単で、きれいで、透明であればいい。以前やチップスや粉末をもっと使っていたけれど、最近はあまり多くの要素を置かない。私たちは誰もが何を食べているかわかるような料理であるべきだと思っている。以前はセントラルも、もっと技術や完璧を追い求めていたけれど、今の料理は田舎風に近づいてきている。完璧な形のパイがほしいなら数万ドルの機械が必要かもしれないけれど、私たちには必要ない。むしろ、(シェフの)ヴィルヒリオは完璧でないものが自然なものだ、と言っていた。完璧じゃないのがいい」
田舎風である=ローカルであるためには単純な調理技術を用いる必要があり、それはモダニズム料理や新北欧料理の調理技術の使用とは対比される。ここでは新北欧料理にグローバル性が割り振られるとともに、再びローカルとグローバルが対置されている。
グローバルなものによるローカルなものの実現
ではセントラルによるローカルなものの追求はどのように可能になっているのか。それは、セントラルが現代料理の発想と方法を採っていて、また世界的に評価を得ている、グローバルなアクターであることによるとされる。
例えばシェフは、アンデスやアマゾンで従来の食が失われてしまっていることを嘆き、次のように言う。
「いま、人々は昔からの食材があるのに全然食べようとしない。 でも本当は、アンデスにはキヌアがあり、在来種のじゃがいもがあり、ウチュクタ(アンデスで食べられるソース)があって、ジャーキーがあって、薬草があって。アマゾンにもたくさんのフルーツがあって、たくさんの魚がいる。本当はそういうのこそ贅沢だよね」
しかしそもそも、ペルーでそうした食材や食文化は、ペルーを政治経済的に支配してきたクレオール系の人々には知られず、評価されてこなかった。むしろ、ペルー性に関係づけられるような食べ物、特にアンデスやアマゾンという、クレオール系より先住民系の人々が多い地域に由来するような食材や料理は「食べ物でない」、あるいは貧しい人の食べ物とみなされてきた。それに対して、セントラルのようなレストランは従来評価されてこなかったローカルな食材の価値を認めようとするが、それを可能にしているのが現代料理的な発想である。
そしてその発想のもと、セントラルは世界各地の調理法を用いてペルーの食材を調理しようとしている。あるシェフと私のあいだで以下のようなやりとりがあった。
私がオフィスで書き物をしていると、シェフがやってきて私に「最近は何をしているのか」と聞く。私は、麹を作っている、なぜならキヌア(アンデスの穀物)で「日本酒」を造れるかもしれないからと答える。するとシェフは以下のように述べた。「カニワ(アンデスの穀物)のほうがいい。セントラルのやるべきことは、「日本酒」のようなグローバルな技法をペルーの食材に応用してその可能性を表現することだから、ぜひ進めてほしい。ただ、大麦でできるとしても、それよりキヌアのほうがいいし、キヌアはもう他の国でも手に入るからカニワのほうがもっといい。
ここで述べられているように、ペルーのイメージではない技法だとしても、発酵はペルーの食材の性質をあらわにするために有用なものであるからこそ、セントラルで用いられているのである。グローバルな技法によってこそローカルな食材の可能性を引き出すことができる。そのため、セントラルの料理人は常に世界各国の料理法を学ぼうとしている。
またセントラルは、ローカルな食材の評価に加え、その生産者を支援したり生態系の維持に対する意識啓発を行おうとしたりしているが、こうした活動を続けられるのは、セントラルが世界的な成功を収めていること、それにより経済的に安定していることによるとされる。「革命」という語でセントラルの活動を端緒にもたらされるような社会変容について示唆しつつ、そうした活動の背景について、シェフは以下のように言う。
「今の世界は、食に関わる世界のすべては、まったくひどい。でも、現状を革命するためには、その中に入らなければならない。僕たちがベスト50[世界ベストレストラン50]のシステムに入らなければ、革命することはできない。僕がやりたい革命というのは、幸福をもたらすことで、経済のことではない。 ただ、ここに矛盾がある。今のガストロノミーではそれが日々との仕事、その背後にある経済的な関係を通してなされるということだ。客が入らなければ革命はできない」
ここに現れているのは、セントラルがローカルなものを明らかにし、それに貢献する活動を続けられるのは、それがグローバルなシステムの中で経済的な成功を収めているためである、という考えである。ローカルな食材の評価と、その生産者の支援や生態系の維持につながる活動が、セントラルというグローバルな発想をもち、グローバルに評価されるアクターによって可能になると考えられている。
ローカルでもグローバルでもなく
これまで見てきたように、セントラルではローカルなものの追求がグローバルなものによってなされてきた。しかし、先にも見たようにローカルとグローバルは対立するカテゴリーである。そうした食い違いはときに微妙な実践を生む。それが見える事象の一つが、例えば発酵についての見解である。
調査当時、発酵は現代料理において頻繁に用いられる、特徴的な調理法の一つであった。現代料理では近年、日本や北欧など、料理人によれば発酵の伝統のイメージがあるとされる地域以外の現代料理レストランにおいても、発酵が使われることが多い。セントラルでも発酵は使われるが、それは先に見たように、発酵は食材の性質をあらわにするために有用なものであるとされるためである。グローバルな技法によってローカルな食材の可能性を引き出すことができるという考えがある。
しかし、やはり、発酵はグローバルな技法であり、あまりペルー的ではないゆえに、それを使うのは推奨されないというような考え方も見られる。シェフは次のように述べる。
「発酵より、ペルーの生物多様性のほうが重要であることを忘れないでほしい。発酵を追いかけているうちにアイデンティティを見失ってはならない、まずはいろんな食材について試してみること」
とはいえ、セントラルでこのような発酵に対する二重の評価が論争などに発展する様子は見られなかった。実際には、食材の性質を引き出したいが、使いすぎたり目立ちすぎたりしてはいけない、という二つの要請を満たすようなかたちで、セントラルではほんの一部の皿において発酵が用いられていた。
セントラルでは発酵以外にもローカルなものとグローバルなものが衝突しかねない事象があり、それぞれにおいて微妙な態度が示されていた。そうした微妙さは、例えば、モダニスト料理に由来するようなエスプーマなどの調理法、あるいはフランス料理に由来するソースなどの調理法について現れる。これらはセントラルでも食感のバリエーションや見た目の美しさによってそれぞれの料理のイメージを伝えるために必要なものとされている。しかし、こうした技術を使っていることについては、客に対してはっきりと示すべきではないとされる。客に料理を説明するときの文言をめぐる、二人の料理人の会話を見てみよう。
ある料理人いわく「シェフはクレマ(クリーム)やエスプーマと言った言葉をできるかぎり避けるように言っている」。それに対して比較的新しく入った料理人が、「なぜ? そうした単語は技術的だから?」と聞く。「いいや、そうした言葉は国際的なものを連想させるから。できれば田舎風の言葉を使うようにシェフは言っていた。たとえばクレマよりはソースのほうがいいし、タルタルとするよりは冷たい和え物としたほうがいい。」
ここでは、そうした技術の使用が前提とされる一方で、それについては明言するべきではない、という微妙な判断をしていることが見て取れる。
以上のようにセントラルにおいて、ローカルなものの追求と、その手段がグローバルなものであることは潜在的には対立し、料理人はそれを認識しつつも、その相反を調停するような実践を行っている。
料理がおいしくなくていい?
セントラルの料理の背景にあるもうひとつの二項対立は、おいしさとローカルなものの解釈の対立である。
最初に指摘すべきは、驚くべきことに、セントラルでは「料理はそんなにおいしくなくてもよい」と言われることがあるという点である。創造担当シェフのSは「薬草ペアリング」という、薬草を使った飲み物のコースのアイデアについて検討する場で、次のように述べた。
「薬草ペアリングのアイデアはとても好きだ。ただ、このペアリングでは、薬草などの食材の味をパイナップルやレモンなど他の味で覆わないようにしたい。説明がなくてもその食材が感じ取れるような感じにしたい。ちょっとくらいおいしくなくても構わない。吐き出しそうになるのは困るけど、でも苦いのも渋いのもペルーの食材の経験の一部だから。ここで提供しているのは薬草なわけだから」
ここで前提とされているのは、まず、パイナップルやレモンのような、ペルーらしいわけではないがペルーにも分布している食材を使えば、薬草のような癖が強い食材を使っても、おいしい飲み物を作ることが簡単だと考えられているということである。だがSは、それよりも客が薬草というメッセージ性の強い食材の味を感じ取ることを優先させ、「吐き出しそうになるのは困る」にせよ、「ちょっとくらいおいしくなくても構わない」と言うのである。食材というローカルなものの提示を追求することが、おいしさより優先されているのである。
そして実際、ある種のおいしさは、食材を感じにくくするものとして、避けられる傾向さえある。上に見たパイナップルやレモンもそのようなおいしさをもたらすものの一つだが、食材の表現に相反するおいしさという点で最もよく言及されるのは「アデレソ」である。
一般的にペルー料理として知られているクリオージャ料理では、炒めた紫玉ねぎとにんにくが味のベースとして大量に使われる。これがアデレソと呼ばれ、クリオージャ料理を特徴づけるものの一つである。あるペルー人は以下のように述べている。
(調査者:「クリオージャ料理の特徴は?」)「たくさんのアデレソを使っていること、つまり、おいしいこと。アデレソがないペルー料理はありえない。」
これは誇張であり、実際には一般にアデレソが使われないペルー料理もある。だがそういう事態を無視せしめるほどペルー料理にとってアデレソは特徴的なのである。そして「アデレソを使っていること」と「おいしいこと」を「つまり」で繋いでしまえるほど、それはおいしさにも強く結びついている。
だが、このようにペルーの人々にとってアデレソはおいしさと強く結び付けられているにもかかわらず、リマのガストロノミーレストラン「マラバル」のシェフは自らのレストランの料理について次のように言う。
「私たちはほとんどアデレソを使っていない。私たちがやりたいのは、畑の食材を使って、その味と品質と味を表現することだ。食材を尊敬するというのは、その味を机に置くことだ。そうすると、アデレソを使うのは、たくさんの強い味を置くことで、主役の食材が見えなくなる。それは悪い取り扱い方だ。そうではなくて、私達は食材を示すようなことがしたい」
すなわち、アデレソは食材の表現にとっての障害であり、忌避すべきものとされるのである。同様に、セントラルでもアデレソはあまり使われていない。シェフいわく、「アデレソはやっぱりペルー料理の味なんだよね。それをたっぷり入れるのが基本」でありながらも、食材の味を覆い隠してしまいかねないアデレソの量は常に減らそうと試みてきたという。
おいしさより「解釈」を優先するような見方は、現代料理レストランに頻繁に通う「フーディー」と呼ばれる人々にも共有されている。あるフーディーは、セントラルの姉妹店、ミルについて、その感想を以下のように述べている。
「ミルの見慣れない料理を食べて、世界にはまだまだ自分の知らない食の世界が広がっているということについて、その片鱗に触れて実感することができる。しょせん料理なんだから難しいことは抜きにして、楽しくおいしく食べられればそれで良い、という考え方は尊重したい。ただ同時に国、地域、地方、環境、文化、歴史、生態その他もろもろとの関連性において食を位置づける、そうしたアプローチもまた刺激的で食の可能性を拡大するもののような気がする」
ここでは、料理においしさを求めること、風土や文化の表現を求めることが対比されるのに加え、料理を味以外のものとの関係に位置づける姿勢を「刺激的で食の可能性を拡大する」ものとして、暗に食においしさのみを見出すことより優位に置いていることである。別のフーディーはまた、「ガストロノミーには基本的には驚きを求めている。おいしいものを食べたいだけなら日本から出る必要はない」とさえも述べた。
しかし、実際には、セントラルの料理はおいしい。セントラルで食事をした人に話しかけると、その多くが、コンセプトだけでなくその料理のおいしさにも心を打たれている。
ではなぜ、料理はおいしくなくていいとしつつも、おいしい料理を作っているのか。それは、第一に、セントラルの世界的評価がその表現的な側面に結び付けられているにせよ、その評価はおいしさにも強く依拠しているからだ。シェフと私の間で以下のような会話があった。
「今のミルは、アンデスの食材を現代的に解釈している。でもこれは現代アート的で、世界の流行に乗ったもので、その流行りが廃れれば忘れられてしまうかもしれないものだ。だから、もう数年したら本当の料理を提供したい。オカ[アンデスの塊根]やそら豆をただ茹でただけ、みたいな。そのあたりで農民が食べているみたいな。必ずしもおいしい必要はなくて、それよりも本当のものを」
(調査者:「どうしてまだそういう料理を提供してないのですか?」)
「3年前にやったことがあった。でも客にはすごく不評だった。「セントラルはおいしくなくなった」と言われた。批評家にも酷評された」
おいしさから外れたような料理を求めていようとも、セントラルは客からの評判を考慮しておいしさにも訴えるような料理を作らざるをえないのである。
おいしさの追求を通したローカルなものの解釈
しかし、おいしさは食材の解釈にとって否定的な制約として働くだけではない。むしろ基本的には、おいしさの追求においてローカルなものの解釈が可能であると考えられている。
そもそも、おいしさとは何か。もっとも簡単な例からあげよう。おそらく、苦味が酸味や甘み、クリームで和らげられるというのは日々食べる中で誰でも経験的に知っているだろう。あるいは、魚の生臭いにおいを隠すために、ハーブなど爽やかな香りを組み合わせるような料理を知っている人は多いはずである。こうした味覚の組み合わせが成立している状態が、おいしさの最も基本的なあり方の例である。すなわち、セントラルにおいて「おいしい」とは、料理に関して使われる場合について言えば、よいとされている味や香り、食感の組み合わせによって可能になるバランスが同時に数多く成立している場合を指す。
あるデザートを例に、それを部分的に分析してみれば、アマゾンレモンの酸味や苦味と、ガナッシュに使われるカカオの苦味がうまく調和しており、アマゾンレモンの柑橘の香りと、アマゾンコリアンダーのコリアンダーの香りはよく合う組み合わせで、アマゾンコリアンダーと、アマゾンのナッツであるマカンボの香りは共通性が多くてうまくつながり、滑らかな食感のガナッシュ、カリッとした「岩」、ざくっとした食感のビスコッティがあって……といった具合である。このように、ある料理において、よいとされる味や香り、食感のバランスが、無数の水準で一気に達成されている場合、その料理は「おいしい」と言われる。
では、いくつものバランスの調和としてのおいしさをもった料理は、どのように作られるのか。ごく簡単に述べれば、それは、一方で食材の性質について考え、他方でそうした食材の性質についての経験則を適用することによる。たとえば、かぼちゃの皮を乾燥させたものについて、抹茶のような風味を感じ取り、そこから抹茶とクリームがよく合う組み合わせであることを想起して、クリーム系のものを組み合わせたものを試作する、といった具合である。
さて、おいしさについて違う角度から考えてみよう。料理人にとって、ある料理がおいしいときには、その料理において良いかたちで食材の性質が引き出され、適切なかたちで組み合わされていることが多い。あるデザートがおいしく、そこに酸味と苦味のよいバランスが含まれているときには、アマゾンレモンの「あの」酸味とカカオの「あの」苦味がうまく引き出され、それらがいい塩梅で組み合わされているといった具合である。確かに、料理がおいしいとき常に食材の性質が引き出されているわけではない。多量のアデレソの使用によるおいしさは食材の味を覆い隠してしまうし、おいしいながらもなぜか使われている食材の良さが際立たないような場合もある。しかし基本的に、おいしい料理はその食材の性質を引き出すものであると理解されている。あるいは、料理人が躊躇いなく、異口同音においしいという場合にはしばしば「〜(という食材)の味が際立っている」とも言われることから、真においしい料理は食材の味を引き出すものだと考えられているようでもある。よいとされるバランスの重なりがおいしさであり、バランスが食材や調理法の組み合わせによって作られるのだとすれば、それは基本的に食材の性質を示すことと矛盾しておらず、むしろ料理人は、実現されたおいしさに食材の解釈を読み込むのである。
さらにいえば、料理の試作は常に食材の新しい解釈に結びついている。ある飲み物の試作をめぐる料理人のDとI、私のやりとりを見てみよう。
乾燥した海藻を戻した水と、トゥナ[海岸のフルーツ]の果肉を混ぜた飲み物をDとIが作った。先に試していた、海藻と青りんごの組み合わせより、私にとってもう少し調和したように感じられた。IとDも、絶賛という雰囲気ではないにせよ、「いいね」と言いながらうなずく。この方向で少し続けようということになる。そこで、海藻を戻した水とツナに、さらに何か別の食材を組み合わせられないか考えることになる。Dが「酸味が欲しくないか」と言う。Iと私も同意し、Iが「レモンを入れよう」と提案する。レモンを絞る。酸味に対して甘さでバランスを取るべく、アルガロボ[砂漠地域の樹木]のシロップも加える。「レモン入り紅茶みたいな味になったね」と誰かが言い、うなずきあう。
ここで強調すべきは、そうした試作において現れる性質が、調理や、偶然その日使った食材に固有なものとして理解されるというより、それぞれの食材に固有だったが気づかれていなかったものとして理解されるということである。「紅茶のような香りはもとからトゥナやアルガロボにあったのだが、その試作が実現されるまでは感じられなかったものだ」と料理人には考えられている。すなわち試作では食材の未知の性質が現れることがあると想定されている。確かに常に料理人にとって未知の性質が現れるわけではないが、ペルーという土地の新たな解釈を求めて、料理人は食材の既知の性質よりも未知の性質が現れることを積極的に期待しつつ、試作に取り組んでいる。とはいえ料理人は、新規性そのものを狙って試作を行うわけではない。重要なのは、セントラルの試作は基本的に、あくまでおいしさを求めてなされるということである。
以上のように、アデレソなど素材の味を覆い隠してしまいかねないようなおいしさ以外であれば、おいしさの追求は料理において食材を解釈することにつながっている。つまり限定されたおいしさのあり方によって、「解釈」として料理を受け取ることが促されているのである。
もちろん、ペルーの食材の味が存分に感じられるならば、それがおいしくないものであろうと、当然、ペルー性を解釈したことにはなるはずである。だが、ここまで見てきたように、セントラルの料理人はおいしさを手放すことはない。それは客の受容の問題もあるが、おいしさが人々の心に強く訴えかけるものである以上、おいしい食材だと感じられるほうがペルーという場所について明確に肯定的な印象を与えることができるためであろう。
おわりに——すれ違わないように語る
本論が見たのは、セントラルがグローバルではないものとしてのローカルを追求しながらも、それをグローバルなものによって可能にしているという事態であり、またおいしさの追求はそうしたローカルの解釈と相反することもありながら、同時にそれを可能にするものとも考えられているということである。現代料理の思考を特徴づけるのは、こうした複雑な二項対立の組み合わせである。
言うまでもないことだが、こうした思考のイメージは、「手作り」や「手抜き」といった、戦後日本の家庭料理を形作る二項対立とは大きく異なる。それは、技術的インフラや社会関係をはじめ、それぞれが応答している問いに大きな差異があるためである。そうである以上、ある食の思想や実践から別の食のそれを批判することは、不可避にすれ違いを伴う。
例えば、現代の料理研究家、リュウジは、具がない調味料だけのポテトサラダである「虚無ポテサラ」に代表される「虚無レシピ」によって知られるが、そこで前提とされるのは極小の一人暮らし用のキッチンであり、疲れ切った労働者である。彼のレシピ動画に映るのは料理しながらジョッキで酒を煽るリュウジの姿であり、明らかに彼は自らを「丁寧な暮らし」という理念に対置されるものとして位置づけている。そうした料理は、スローフードの擁護者からすれば、伝統的でなく、長大な流通システムに支えられた環境負荷の高い食としてしか位置づけられないであろう。この批判はまったく的外れというわけではないし、リュウジが誇張して示すような現代の家庭料理のありようを確かに示すものではある。しかし、セントラルの料理人がリュウジの料理を「グローバルである」と批判することには意味があるのだろうか?
そうした批判が食の批評としては不適格であることは明らかである。もちろん私たちは、リュウジやスローフードの賛同者ほど明確でないにせよ、何らかの問いに応答するものとしての食を前提に何かを語らざるを得ないのだから、先のようなすれ違いとも無縁ではない。また、最初に述べたように、他者の思考を二項対立として提示することはある種のフィクションである。筆者によるセントラルについての議論も、料理人ではなく文化人類学者であるに過ぎないことの勘違いや、ある種の単純化は免れない。だが、そのような不可能性を踏まえつつも、他者の思想や実践をそれが背景とする思考を明らかにすることが食の批評の基礎となるべきであり、そうした分析の可能性を開く上で二項対立を用いることは大きな意義を持つはずである。その有効性は、本論の短い記述からも明らかであろう。
食は確かに、それ自体としては思考ではない。だが食もまた一つの思考であるかのように扱い、それを二項対立のもとに捉えることは、食の現在地を抉出し、批評として食を論じる上で、意味のある出発点だろう。
参照文献
久保明教 2021『「家庭料理」 という戦場――暮らしはデザインできるか?』コトニ社
レゼピR. 2015『レネ・レゼピの日記』 清宮真理、平林祥訳 ファイドン.
Jouary, J.-P., & Adriá, F. 2013. Ferran Adriá and ElBulli: The Art, the Philosophy, the Gastronomy. Andre Deutsch.
Raviv, Y. 2018. Food and Art: Changing Perspectives on Food as a Creative Medium. In K. LeBesco & P. Naccarato (eds), The Bloomsbury Handbook of Food and Popular Culture. pp. 197-210. Bloomsbury.