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27 父性の軟着陸

『騎士団長殺し』の物語はこれまでの村上春樹の小説の主人公と同じような設定をもつ男性が、妻から離婚を告げられるところから幕を開ける。主人公は傷心を癒やすために、小田原の山中にあるアトリエに移り住む。画家である主人公はそこで絵画教室の講師の職につき、静かな生活を始めるが、やがて免色という五十代の男性と親しくなる。
 免色はセミリタイアした資産家で、主人公の暮らすアトリエの近くにある豪邸の主だ。免色は主人公にある依頼をする。それは、主人公が小田原で始めた絵画教室の生徒であるまりえという少女と、自分を引き合わせて欲しいというものだ。免色の調査によればまりえは彼の生き別れた実の娘である可能性が高く、彼は自分が父親かもしれないことを明かさずに、彼女と知り合いたいと考えているのだ。まりえは自分に向けられた免色の「父」的な所有の欲望を察知し、そこに悪しきものを感じて抵抗を試み、そのために行方不明になってしまう。
 主人公はまりえを救おうと、「壁抜け」的な超自然的な体験を経て、まりえを救出する。このとき彼は移り住んだアトリエで『騎士団長殺し』と題されたある高名な画家の私的な作品に触れる。この絵には、画家が青春時代に体験した第二次世界大戦中のナチスによるアンシュルス(オーストリア併合)と、日本軍による南京虐殺の記憶が間接的に込められている。一枚の絵に込められた歴史の記憶に「壁抜け」的に触れた主人公は、その後に絵の中に描かれた人物の姿をした「イデア」や「メタファー」と名乗る超自然的な存在に導かれ、それらの助力を得て闇の世界に紛れ込んだまりえを救出することに成功する。
 こうして主人公は(免色とは対照的に)まりえの寛容で、柔軟で、正しい父としての座を獲得する。それと同時に主人公は自分とは異なる男性の子供を妊娠している妻と復縁し、血のつながらない子供の父となることを受け入れる(そこでは、妻の妊娠日に自分が夢の中で彼女と性交し、夢精したというエピソードが挿入され、超自然的な力で主人公の子供を妻が妊娠したことが示唆される)。そして物語は、やがて主人公一家が東日本大震災を経験し、物語内の時間が現代に追いつこうとするかたちで幕を閉じる。
 この小説の中では、徹底して歴史に正しく対峙することが、あくまで「父」になるための条件としてのみ機能している。主人公は一枚の絵を通して、そしてその絵を媒介として出現した超自然的な現象を目の当たりにすることを通して、アンシュルスの、南京事件の記憶に触れる。そしてそのことで少女を救い、妻の妊娠する(生物学的には自分の遺伝子を引き継いでいない)子供の父親になることを引き受ける決意をする。歴史という共同体の記憶を引き受けることと、ステップファーザーであることを引き受けることが、ここでは重ね合わされているのだ。
 本来の「壁抜け」とは悪と対峙するためのものだった。しかし『騎士団長殺し』では、この構造は逆転している。ここでは主人公が(表面的には)現代的な父性を獲得して、妻を取り戻すこと――彼女が妊娠した他の男性との間の子供を受け入れて、家族を形成すること――のために、主人公は「壁抜け」を経てアンシュルスと南京虐殺の記憶に触れることを必要とされている。かつては歴史に対峙するために「父」であることが要求されていたはずが、この時点では完全に「父」であるために歴史への対峙が求められているのだ。
 こうして村上春樹の模索してきたあたらしいコミットメントは、最終的には悪との対峙――羊との、やみくろとの、みみずくんとの、リトル・ピープルとの対峙――を放棄してしまった。その放棄された部分を埋めたのは、作家の小説外での発言、つまり講演やインタビューでの発言だった。
 その一方で、村上春樹の小説内において主人公はようやく家族を形成し始めている。現実の社会に対して四半世紀ほど遅れて、現代的な柔軟で、寛容な父性の像が示されていく。オウム真理教のように、ドナルド・トランプのようにはならないために。このまっとうさを否定する必要はまったくない。多くの現役世代が当たり前のように備えている感性に、団塊世代の作家が努力を重ねて部分的にだが追いつき始めているのだと評価することもできる。それが小説という創作物として、想像力の冒険として十分な魅力のあるものかどうかは別として――。
 そして、社会的なコミットメントと男性性の確認が等号で結ばれた近年の村上春樹の小説において、男性性の後退とともにコミットメントもまた後退している。
 主人公のコミットメントの責任が妻(事実上の母)に転嫁される構造はコミットすべき悪の存在とともに消失し、主人公に身体を差し出していた少女は単に彼に共感と尊敬の眼差しを向けるだけにとどまるようになった。決して子供をもつことのなかった主人公とその妻の間には子供が育まれるようになった。主人公が自分の遺伝子を引き継がない子供を引き受けるというかたちで、現代的な拡張家族の肯定として提示されることになったそれは、たとえどれだけ凡庸なものであったとしてもマイナスをゼロに近づけるという意味において前進ではあり、正しいことでもあるはずだ。たしかに村上春樹の示す父性のモデルは、より穏当なものに変化した。しかし、その一方で性搾取の構造が後退することで、コミットメントも後退してしまう。そして現代的な悪の構造が見えなくなる。今日の村上春樹は「羊」の系譜に連なる新しい「悪」への対峙――高度資本主義のもたらす人間疎外への抵抗については半ば放棄しているのだ。
 忘却に抗い、歴史への意思を継承することで(村上春樹の属する団塊世代の日本人男性としては、相対的に)現代的で寛容な父性を獲得することができる――こういったTwitterの一四〇字の投稿でも十分に可能な政治的な正しさのアピールを長編小説の主題の中心に置くつまらなさを指摘することは、容易い。それは実際に世界中の才能の枯渇した、あるいは最初からもたない作家たちが、少しでも読者の耳目を集めるために毎日のようにせっせとFacebookやTwitterに投稿しているものだからだ。そしてこの凡庸な正しさこそが、ドナルド・トランプ的なものによって損なわれている現代においては恥ずかしがらずに主張されるべきだと考えるのも、正しい。僕もたとえばNHKの討論番組に出演しているときは、そう自分に言い聞かせ、凡庸な正しさを効果的に伝えるための知恵を絞ることもある。
 しかし、村上春樹の想像力がたどりついた相対的にその性搾取への依存を弱めた、そしてその分だけコミットメントの力の弱くなった想像力は、情報技術に支援されることでより肥大しつつあるリトル・ピープル的な悪に対抗できるのだろうか。もちろん、できるはずがない。村上春樹が、小説内で衰退するコミットメントをラジオや雑誌のインタビューなど小説外での発言で補うとき、僕たちは老舗の蕎麦屋が遠のいた客足を引き戻すために、何かの気の迷いで大しておいしくもない冷やし中華を始めてしまったのを目にしたときのような気まずさを感じないかというと嘘になる。では、どうすればよいのか。次の節では、少し時間をさかのぼり村上春樹の過去の作品に散りばめられた要素から、この問題の解決法を考えてみたい。

28 駅とインターネット

 村上春樹が二〇〇四年に発表した小説に『アフターダーク』という中編がある。これは「私たち」という「肉体を離れ、実体をあとに残し、質量を持たない観念的な」まるで街頭の監視カメラのような、あるいは当時はまだ存在しないグーグル・ストリートビューのようなそこに存在する事物に干渉できない存在の視点から、深夜の東京で起きた出来事が綴られている。実験色の強い作品だが、ここには村上春樹が自己を投影した男性主人公ではない視点の獲得を模索する中で、Google的なものに接近した一瞬があったことを証明している。
 Googleの経営理念は「世界中の情報を整理し、世界中の人がアクセスできて使えるようにすること」だ。その後、Googleはインターネット上のウェブサイトのページに限らず、実空間をも検索可能なものにしていった一方で、SNS的な機能を備えたブログサービス「グーグルプラス」に失敗し、僅か数年で撤退に追い込まれている。そう、Googleとは世界最大の情報産業の一つでありながら、現在のSNSを中心としたインターネットに半ば背を向けた(祝福されなかった)存在なのだ。少なくとも今世紀初頭のGoogleが今日のFacebookやTwitterが作り上げた閉じた相互評価のゲームとは異なるインターネットの可能性を体現していたことは間違いない。
 残念ながら今日のGoogleの人工知能が用いる検索結果の表示順位を決定するアルゴリズムは、全世界の広告業者によって常に解析され続け、どれだけアップデートが行われようと僕たちが検索を通じて出会えるものの大半は、広告の表示に最適化され、表示順位を上げるためだけにWikipediaなどからの引用で半ば機械的に生成されている事実上無内容なページだ。またGoogle傘下にあるYouTubeは動画の領域で、デマと陰謀論の温床として機能しており、その強力なリコメンドの機能によってユーザーの陥るフィルターバブルを深刻化している。しかし、それでもGoogleの活動領域の一部が確実にこの閉じた相互評価のネットワークの外部を志向していることは重要だ。なぜならばGoogleにはFacebookともTwitterとも異なり、人間の自意識とそこから生まれる承認の交換、つまり相互評価のゲームの外部をも検索可能にしてきた歴史があるからだ。少なくとも人間そのものではなく、人間の生みだした事物(ウェブサイト)を検索するところから出発した側面があることは間違いない。たしかにその他のページからより多くのリンクを張られているページを重視するアルゴリズムには、今日の人間間の相互評価のゲームに取り込まれたインターネットの萌芽があった。しかし、その一方でGoogleは、この二十年ほどの間にその検索の対象を商品や地理など、人間外のものへ徐々に拡張してもいるのだ。Google的なアプローチには、インターネットを人間の領域から、閉じた相互評価のゲームから解放するポテンシャルがあった。僕が「遅いインターネット」を提唱し、かつてのネットサーフィンの復権を訴える理由の一つがここにある。あのころ、僕たちは閉じた相互評価のネットワークで動員のゲームをプレイするのではなく、ただ事物を検索していたのだ。
『アフターダーク』の時点で村上春樹は結果的にGoogleに近い視点を獲得することで、自身の男性性への承認がコミットメントの条件と結びついている自身の世界観を解体する可能性を手にしていたと言える。Googleがこの数年後にストリートビューを導入することを考えたとき、二〇〇四年の時点で、村上春樹はGoogleに比肩するレベルの想像力を発揮していたとすら言えるだろう。しかし、実験的に導入されたこの視点は、村上春樹の小説の世界を解体することも、大きく変化させることもなかったのだ。
 この問題は、村上春樹が『1Q84』に続いて発表した長編『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(二〇一三年)に端的に表れている。主人公の多崎つくるは、村上春樹の描く主人公の類型として描かれる。東京に暮らす独身の中年男性で、文化的な雪かき(的であると本人が自嘲する)仕事についている。彼の目下の悩みは、恋人の木村沙羅との関係が進展しないことだ。多崎つくるはその原因を、自分の内面に求める。彼は高校時代に親しくしていた友人たちから絶交された経験があり、そのために他人とのかかわりを深めることができなくなっていると考える。そして、現在は名古屋とフィンランドに暮らす友人たちを一人ずつ訪ね、絶交の原因について探り始める。
 そして多崎つくるはその「巡礼」によって、自己回復を遂げていく。再会した友人たちは、口を揃えてかつて彼を遠ざけたことを謝罪する。友人たちが多崎つくるをグループから追放したのは、当時心を病んでいたメンバーの一人を守るためだった、と。被害妄想を膨らませて、「多崎つくる」に犯されたと主張する彼女の精神をつなぎとめておくために、苦渋の決断として彼を追放したのだ、と。友人たちは加えて、君(多崎つくる)は決して「色彩のない」存在ではない、しっかりと個性的であり、主張をもった存在だった、と告げる。さらに彼のことを好きな女性のメンバーもいたのだ、と。この再会は彼を勇気づける。「多崎つくる」は個性的な四人の友人(それぞれ「赤」「青」「白」「黒」と色を表す漢字を苗字に含む)に対して、その名の通り無色透明に近い、没個性的な存在であると考えていたからだ。しかし実際の彼は個性的な、主張を持った、つまり「色」のある存在だと周囲から認識されていて、彼の自意識とは裏腹に、その存在の持つ主張によってグループ内の人間関係を左右していたことも判明する。

〈「いや、おまえは空っぽなんかじゃないよ。誰もそんな風に思っちゃいない。おまえは、なんと言えばいいんだろう、他のみんなの心を落ち着けてくれていた」
「みんなの心を落ち着けていた?」とつくるは驚いて聞き返した。「エレベーターの中で鳴っている音楽みたいに?」
「いや、そういうんじゃない。説明しづらいんだが、でもおまえがそこにいるだけで、おれたちはうまく自然におれたちでいられるようなところがあったんだ。おまえは多くをしゃべらなかったが、地面にきちんと両足をつけて生きていたし、それがグループに静かな安定感みたいなものを与えていた。船の碇のように。おまえがいなくなって、そのことがあらためて実感できた。おれたちにはやはりおまえという存在がひとつ必要だったんだって。〉

 村上春樹が男性中心主義に基づいた性差別的な世界観のためにフェミニズム的な見地から度々批判を受けてきたことは周知の通りだ。しかし村上春樹は本作で、自らの性差別的なモチーフへの批判を「被害妄想」であると切り捨ててしまった。そしてそんな被害妄想をも受け止めてくれるタフな主体を獲得していることこそが、自分=「多崎つくる」であると女性の登場人物に述べさせている。

〈「でもね、私としてはまずユズを回復させなくちゃならなかった。それがその時点での、私にとっての最優先事項だった。あの子は命取りになりかねない重い問題を抱えていたし、私の助けを必要としていた。君にはなんとか一人で冷たい夜の海を泳ぎ切ってもらうしかなかったんだ。そして君にならそれはできるはずだと私は思った。君にはそれだけの強さが具わっていると」〉

 ここで村上春樹は批判者を矮小化することで論点をずらしてしまっている。それも自らを慰撫するかたちで。人間が論点をずらそうとするのは、本当にそこに触れて欲しくないときだ。おそらく村上春樹自身も気づいている。自身が掲げる「デタッチメントからコミットメントへ」を完全に成立させるためには、その性差別的な依存構造に基づいたナルシシズムを解体するしかない。しかし、村上にはそれがどうしてもできない。『1Q84』が〈BOOK3〉で後退し、以降の長編がほぼ同様の内容で堂々巡りを繰り返しているのはそのためだ。
 しかし、問題を突破するための手がかりのようなものは、作者の意図を超えたレベルで小説の中に存在する。同作で村上春樹はトートロジー的な自己弁護に終始する一方で、主人公の職業である「駅をつくる」こと(=「GoogleやFacebookのようなもの」)は、取るに足らないものとして扱われる。

〈しかしそれは鉄道会社に勤務し、主として駅舎の設計にあたっている多崎つくるが考慮すべき問題ではない。人々の人生は人々に任せておけばいい。それは彼らの人生であって、多崎つくるの人生ではない。我々が暮らしている社会がどの程度不幸であるのか、あるいは不幸ではないのか、人それぞれに判断すればいいことだ。彼が考えなくてはならないのは、そのようなすさまじい数の人々の流れをいかに適切に安全に導いていくかということだ。そこには省察は求められていない。求められているのは正しく検証された実効性だけだ。彼は思索家でも社会学者でもなく、一介のエンジニアに過ぎないのだ。〉

 かつての村上春樹はインターネット的なコミュニケーションの全面化を予見するかのような力を示していた。それが『ねじまき鳥クロニクル』の「壁抜け」であり、『アフターダーク』の監視カメラ的な視点だった。しかし、この時点の村上春樹は明らかに世界に対しての想像力を失い、ナルシシズムの中に引きこもっている。この「駅=インターネット」への過小評価こそが、村上春樹の陥った罠を示しているのだ。
 前述したように「壁抜け」は、インターネットのもたらすフィルターバブル的な全能感を誘発する。村上春樹は「駅」=「インターネット」=「壁抜け」の中に潜む罠に陥っている。それは言うなれば主体=ユーザーに幼児的な全能感をもたらす胎内に人間を閉じこめる回路だ。「壁抜け」とは、「駅」=「インターネット」のプラットフォームの代わりに「母」的な女性性に依存する性搾取的なシステムを用いた回路なのだ。村上春樹は「壁抜け」の性搾取を手放さない限り、そのインターネット的な危うさを克服することもできないのだ。

29 男のいない男たち

 もう少しだけ、村上春樹の話を続けよう。繰り返すがおそらく、村上は行き詰まりに自覚的だ。その迷いが端的に現れた作品が、二〇一四年に出版された短編集『女のいない男たち』だ。この短編集はタイトルにあるように、妻や恋人のいない、もしくはそうした女性に去られようとしている男性たちの物語を集めたものだ。しかし、僕は考える。この短編集に本当に相応しいタイトルは『男のいない男たち』だ。なぜならば、この短編集に収録された作品は唯一、初出時に別の雑誌に掲載された「シェエラザード」を除くすべてが、何らかの理由で魅力的な男友達と仲良くなるけれどうまくいかない、という物語だからだ。
 たとえば「ドライブ・マイ・カー」では妻を亡くした主人公の男が、妻の生前の浮気相手の男性に興味を持つ。主人公は、その男性に、ちょっとした復讐を企てて近づく。しかし、主人公もまた彼に惹かれる。彼は器量が良く、裏表もない好人物だが「たいしたやつじゃない」。しかしその凡庸さが主人公の内省を――主に亡き妻のことを話すことで――適切に促す。あるいは「イエスタデイ」「独立器官」には、それぞれの事情からエキセントリックな言動を見せる男性の友人が登場する。「イエスタデイ」には、幼馴染でもある恋人と大人になってから距離を測り直すことができず、そのために性的な関係を結ぶことのできない若者が登場し、「独立器官」にはある独身主義者のプレイボーイを気取る中年の紳士がある人妻に激しく心を奪われ、心身ともに衰弱していくさまが描かれる。彼らの逸脱的な言動は、これまでの村上春樹の主人公には不可能だ。それは、村上春樹の主人公がこうした逸脱を見せたとき、その男性的なナルシシズムは破壊されてしまうからだ。だからこそ、主人公の男性たちは自分の鏡として、このような男性の友人たちを必要としたのではないか。そう、村上春樹はここで自分の代わりにこれまで彼が築き上げてきたナルシシスティックで、男性的な規範から逸脱してくれる男の友人を求め始めているのだ。
 ここで村上春樹が、初期三部作――『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』――で「僕」とその友人「鼠」の対比で物語を展開していったことを思い出してもらいたい。村上春樹は、そもそも失敗していたかもしれないもう一人の自分の負の可能性を「友人」として側に置き、そして彼が失われることで主人公の選択が肯定されるという構造から出発した作家だった。
 三部作の続編である『ダンス・ダンス・ダンス』では「五反田君」が「鼠」と同じ役割で登場する。「鼠」が六〇年代の学生反乱の季節における亡霊だとするのなら、「五反田君」はバブル景気を背景にした、八〇年代の日本の消費社会の生んだ幻影のような存在だ。どちらも、時代に流され、そのことを後ろめたく思い、そしてそのためにせめてもの抵抗として自らその生命を絶つ。そのような時代と並走して生きた彼らの死を横目に、生き残った主人公は時代に対して中距離を保つ自分のスタンスを確認する。
 しかし『女のいない男たち』において「男友達」が、ここにきてもう一度重要なモチーフとして浮上している。村上春樹は再び、同性の友人を描き始めているのだ。
 村上春樹の作品において、女性は世界に対する蝶番として存在している。そこでは言うなれば女性が人間として扱われていない。村上春樹は無意識の象徴として扱われる女性という蝶番を用いることで、イデオロギーや宗教とは違う回路によって世界と繋がること(「壁抜け」)を繰り返し描いてきた。それが“女のいない男たち”となると、まさに「女がいない」ことで世界に対する蝶番が外れてしまっている状態になる。そうした世界で人はどうなるのかという実験が今作の隠れた主題であり、そこで浮上してくるのが同性の友人の存在だ。村上春樹の描く男性主人公の前に現れる男性の友人は、多くの場合は主人公より劣った人物として描かれる。あるいは、大きな歪みや、欠落を抱えた人物として描かれる。彼らは主人公に概して好意を抱いて接触する。主人公は「彼」の存在に、多かれ少なかれ救われる。しかし、主人公が彼を尊敬することはない。そして主人公は彼を遠ざけるか、彼らが主人公から遠ざかる。ここには、同性の友達に対する期待や憧れと、そこに自分は踏み込むことができないという諦めがない交ぜになった感情が描かれている。
 ただ実質的なこの短編集の最後の作品となる「木野」は少しだけ異なっている。そこには、主人公の経営するバーの常連としてカミタという男性が登場する。カミタはそれまでの村上春樹の小説世界では、女性がその役割を担ってきたもう一つの世界(異界)と現実の世界とを結ぶ蝶番的な存在だ。ここで「鏡」ではなく「蝶番」として、村上春樹は男友達を位置づけ直そうとしている。目の前にいる、敵でも味方でもなく、自分の身体を差し出して自己の強化を助けてくれることもない存在、つまり他者としての男性の友人、対等なプレイヤーとしての友人の象徴するあたらしい回路を通じて世界と繋がることを求め始めている。しかし、その試みはまだ確かな像を結んでいない。男と男はまだ、あたらしい関係を構築できていないのだ。
 この閉塞は作家としての村上春樹の行き詰まりとも重なっている。『騎士団長殺し』における免色の存在がその象徴だ。免色は主人公の画家としての才覚を見抜き、自身の肖像を自由に描かせることでその才能を開花させる。そして主人公とともに不思議な鈴の音を聴き、同作における「壁抜け」の場となる「穴」をともに発見する。『騎士団長殺し』の物語の前半は、主人公が「母」的に彼を庇護し、「娘」的に所有される「妻」の犠牲ではなく、男友達との対等な関係から「壁抜け」を可能にする条件が整えられていく展開を見せる。
 しかし、村上春樹は途中でまた引き返す。物語の後半はまりえという少女に物語の重心が移動する。物語の前半に主人公と並走していた免色は、後半ではこれまでと同じように主人公の男性の「鏡」となり、その矮小な父性が全面化していく。そこでそもそも少女の尊敬を自己確認として必要としてしまう、卑しい男性性への検討がなされることはなく、「壁抜け」は性搾取構造を幾分か緩和しながらも温存され、社会的なコミットメントは男性性の縮退した分だけ後景に退いていくという隘路に陥っていくのだ。
 だから僕は思う。もし主人公がまりえの尊敬を獲得することで、柔軟で、寛容で、現代的な父性を獲得することで妻を取り戻し子を得て満たされるのではなく、免色と並走を続けていたらそのコミットメントは縮退せずにまったく異なる展開を見せていたかもしれない、と。ロレンスがアリを直視できないように、『騎士団長殺し』の主人公もまた、免色を直視できない。そう、この敗北は既に百年前に始まっていたのだ。村上春樹の小説に登場する男性主人公たちは、「僕」は、失われた「直子」を求め続けていた。それは、無条件の承認を与えてくれる「母」のような「妻」の所有への欲望だ。しかし、彼が取り戻すべきは「直子」ではなく「鼠」ではなかったのか。鼠と、五反田君と、免色を自己の鏡としてではなく、対等な他者として認め、並走したときにこそ、少なくとも彼はこれまでとは異なる方法で、世界に、そして歴史に、あるいは悪に対しコミットメントできるはずなのだ。

(了)

この記事は、2022年10月刊行の宇野常寛『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)の一部を期間限定で全文公開したものです。2023年4月21日に公開しました。