チームラボの代表・猪子寿之さんの連載「連続するものすべては美しい」。今回は、東京・けやき坂下で開催中のアート×サウナ プロジェクト「チームラボ & TikTok, チームラボリコネクト:アートとサウナ」の体験をめぐる対話です。サウナで「ととのう」体験は、アートを鑑賞するという「かしこまった」行為に対して、どんな変化をもたらすのでしょうか。
端的に言うとね。
サウナ初心者でも「ととのう」が味わえる「TikTok チームラボリコネクト」
宇野 前回の対談で、2021年3月から六本木で展示されているアート×サウナのプロジェクト「チームラボ & TikTok, チームラボリコネクト:アートとサウナ」(以下、「TikTok チームラボリコネクト」)の構想について聞かせてもらったのだけど……この間ついに実際に体験してきました。そして、はっきり言ってものすごく良かった!
猪子 相当うれしい!
宇野 いや、去年猪子さんに御船山楽園のサウナ(「チームラボ 廃墟と遺跡:淋汗茶の湯」)に無理矢理連れ込まれたときはぶっちゃけ僕には合わないな……と思ったんだけど、今回の「TikTok チームラボリコネクト」で完全にサウナが好きになった。完全に思想的に転向した。この僕を転向させる人なんて、なかなかいないよ(笑)。
猪子 御船山楽園の「らかんの湯」はサウナシュランでも2年連続で1位に輝いていて、いま日本一のサウナと言われているんだけど、この「TikTok チームラボリコネクト」で宇野さんを転向させられたのは自慢になるね。
宇野 いまさらだけど、猪子さんっていつからサウナにハマったの?
猪子 御船山楽園の「らかんの湯」にサウナができた瞬間からだよ。2019年に御船山楽園のオーナーの小原嘉久さんが今のサウナ施設を作ったときに一緒に体験して、そこからコラボレーションに発展していったという流れ。
宇野 思い返すと、あの御船山のサウナは初心者にはちょっと本格的すぎてハードだったのだと思う。御船山で猪子さんに「超温冷交代浴で『ととのう』んだ」と力説されて一緒に水風呂に入らされたときは、ほとんど修行のように感じたからね。
猪子 確かに、もしはじめてなら、サウナマスターみたいな人が一緒にいて、ある種強制的に「オラ! 水に入れ! そして2分踏ん張れ!」とかされないと、なかなかどうしたらいいか難しいかもね。「TikTok チームラボリコネクト」のほうは、そうやって修行的に叩き込まれなくても、自然と能動的にちゃんとした超温冷交代浴を自主的に進んでいけるようなデザインを試みた。会期がオリンピック期間中でもあるから、ととのうなんて知らない世界中の人たちが体験することも意識してね。まあ、結果的には誰も東京には来ないかもしれないけど。それでもサウナで「ととのう」体験をしたことがない人に、自主的にその状態までいけるよう、けっこう入口に丁寧なガイダンスも作ったし。
宇野 サウナ室自体にも複数の種類が用意されていて、室温と湿度によって体験が全然違うんだということが、細かく設定されているとがわかる。その差異を体感すること自体がサウナの楽しみ方なのだと思った。この体験がどういう構成要素でできてるのかということに、どんどん鋭敏になっていくじゃない? その設計がすごく良かった。
猪子 重要なのは室温と湿度の関係なんだよね。人間の身体が得る熱量は、温度だけで判断できなくて、気温が60℃近くになるドライな場所と43℃ぐらいのお風呂に頭まで浸かった時を比べると、43℃ぐらいのお風呂のほうが身体が早く暖まるよね。
あと、京都とかに行ったら、寒い冬に縁側に赤い絨毯敷いたりするじゃない? あれって物理的な温度には意味ないんだけど、脳の錯覚によって本当にあったかい気持ちになるんだよね。それの反対で、シアンの光のサウナルームはロウリュ多めで、かなり熱量を高くしてあるのに、暑いのが苦手な人でも比較的じっくり居られるようにしてるんだ。
宇野 あとはアロマもそうだね。色や匂いと、温度・湿度の関係が、どの部屋もしっかりと考えられているなと思って。サウナって一口で言うけれど、一つひとつが全然異なった体験になっているので、それぞれ回るのが単純に楽しくなっていったんだ。
猪子 アロマを、空間の光の色や温度と湿度、そして音楽とのセットで考えているサウナはほとんどなくて。今回は、香料にもこだわっているんだけど、空間の光の色と音楽、温度・湿度と併せて、統合的な体験にしているんだよね。
音楽も全部作り込んでいて、サウナでは脳が圧迫されている状態だから、メロディとかに脳がちょっとでも持っていかれると、けっこう苦痛なの。とはいえ雑音だけもしんどいので、脳が持っていかれない音楽というのを追求している。基本的には音楽って、どれだけ脳を持っていくかという方向で作られるから、まったく真逆の考え方で作らなきゃいけなくて。だからできるだけ、メロディが際立たずに、かといって雑音にもならない自然の音に寄せていきながら、少し音楽的にしていくっていう作り方をしている。だからけっこう心地よかったでしょ?
宇野 心地よかった。これがすごくメロディアスだったり、物語性を感じさせるような音楽でありすぎると、ただでさえ強烈な体験をして圧迫されている中だから、けっこううざいと思うんだよね。
猪子 サウナの空間はいかに削ぎ落とすかなんだよ。実は音楽を入れたのも、足すっていうより音楽を入れることで、できるだけドアの音とかが気にならないようしたかったんだ。
宇野 サウナ後の冷水浴が、水風呂でなく冷水シャワーにしてあるのも、僕のようなビギナーには単純にやさしくてよかった。あれって考えたらまさに、「ととのう」までの過程にあるハードルを取り払って、日常との境界線を曖昧する仕掛けになっている。冷水シャワー自体を作品にするというアイデアがとにかく素晴らしい。水の霧でつくったインスタレーションの中に自分が入り込むことができるというだけで楽しいのだけど、そうやって霧の中にできた虹と戯れている間に、霧で身体を冷ますだけじゃ物足りなくなってシャワーを浴びてもいいんじゃないかと思えてくる。サウナ初心者にはとにかく、サウナを出た後の冷水浴がしんどいのだけど、そのハードルがこの作品に触れると自然に超えられてしまう。
猪子 そう、冷水エリアには『円相を通り抜けて』と『円相に迷い込んで』の2種類の作品があるんだけど、たとえば『円相に迷い込んで』の円相の中に入っていくと、光の平面に囲まれた四角い空洞の中に顔をつっこんでいるような別世界になる。
▲『円相に迷い込んで』
宇野 御船山にもあった作品のアップデート版だね。どこかにピントを合わせて具象的なものを見るという行為自体が、そこに意味を見出してるわけじゃない? そういったものがサウナでの体験と相まって、一回キャンセルされるということだよね。
猪子 この作品は、ミスト状の水でスクリーンを作りスクリーンの内側のミストをコントロールして堆積させることで、スクリーンの外側から見ると、通常の平面の映像作品で、そのスクリーン面に身体ごと没入すると、立体的な光の平面や線に囲まれる立体的な映像作品になっている。平面の映像と立体の映像を行き来する作品なんだ。
アート浴で体感する「生命的な場」
猪子 それで、サウナエリアでととのった合間に、前回も紹介した『空中浮揚 – 平面化する赤と青、曖昧な紫』をメインとする3つの作品を体験してもらうアート浴エリアで休憩してもらうという設計なんだけど、どうだった?
宇野 やっぱり『空中浮揚』の赤いボールの存在感が圧倒的だったね。謎の赤くて丸いものが中空に漂っていて、自分が異次元空間にいるような気分になる。
▲『空中浮揚』
猪子 前回も簡単に紹介したけど、この球体自体にはふつうに質量があって、ほっておくと地面に落ちているものなんだけど、場にエネルギーの秩序を作ることで、球体が浮き上がる。このエネルギーの秩序の量をコントロールすることで、球体は空中で、自然では絶対にありえない上下運動をする。動力のない物体が空間の中ほどで止まり、空中で上がったり下がったりするという現象はこれまで人間が接したことのないものだと思うんだ。
気球は火力によって空気が膨張し軽くなって上がる。そのため、膨張した空気が外に逃げる必要があるため、下の部分が開いていないといけない。飛行船は、実は、プロペラで浮上している。膨張もしないただの閉じた球体が、空中で上下に運動を繰り返すなんてことは、絶対に起こらない。
自分が知っている自然界の法則を超えた現象を対峙する中で、人々の認知そのものが変化するのではないかと考えていて、その認知の変化を模索したいと思っているんだ。もっと簡単に言うと、常識を超えた現象を体験することで、自分の脳が持っていかれるような感覚になり、その状態で世界を認知することに興味があるんだ。
宇野 いまの説明は、サウナと一緒だと思った。つまり気球とか飛行船というのは、自分の側がエネルギーを投入して無理やり変わろうとする行為なのだけど、これはそうではなく、場そのものを球体を浮かしうる状態に設計しているっていうことなわけでしょう?
猪子 これは『空中浮揚』の系列の前の作品にあたる『質量のない雲、彫刻と生命の間』での雲も同じ考え方なんだけど、いままで人間はものを物理的に削ったり、化学的な結合を利用したりして、閉じた系の平衡状態としてものを作ってきた。たとえば、この机の上にあるカップは閉じた系の平衡状態として、外部とは関係なく、ものとしての存在ができている。
それに対して、この作品では開いた系の定常状態として、ものを作ろうとしている。生命というものがまさに開いた系の定常状態として存在しているので、それと同じ考え方でものを作ろうとした結果、雲のような白い塊ができている。今回の球体も、生命と同じく開いた系の定常状態として、空中に留まる。
宇野 要するに、この空間自体が生命的な場になっていると。
猪子 そう。生命と同じ状態。われわれは、この環境の中のエネルギーを食い続けて、吐き出し続けて、その流れの中に生命はあるんだけど、ここには前々回にも話したエネルギーの秩序ができあがっている。それは、単にコンセプトとして表現するということではなくて、具体的な手法として散逸構造的なエネルギーの秩序を空間に実際に作ることで、白い塊を作ったり、球を空中で留めたりしている。こうすることで、常識的な自然界の法則からすると、あり得ない状況が起こる。
宇野 ただ、僕が見たときには、ふつうに球体が床に落ちて弾んでいて「あれ、ボールだってわかっちゃうじゃん?」って思う瞬間もあった。だから、もうちょっとずっと浮いててほしいなと思った。
猪子 確かにそこは難しくて。オープン前後の時は、まだ、全く安定していなかったんだ。ただ、地面にあるときは、わざと「ふつうのボールだ」ってより意識させるようにしている。色も球体であることを強調するような、紫の曖昧な色にしている。
宇野 それはどうしてなの?
猪子 浮いた瞬間がより引き立つように。ずっと浮かせていたいんだけど、やっぱり重力に逆らって、空中に安定的に留まる状態は長続きしなくて、だんだんと乱れいずれは落ちちゃうんだよね。それは生命とは不安定な状態とも言えるかもしれないし、生命がいつか死ぬのと一緒なのかもしれない。『質量のない雲、彫刻と生命の間』の白い塊も、やがては粉々になる。
でも今は前より空中に安定的に留まるようになっていて、最近撮った映像にもあるように、落ちてただのボールになってしまった後でも、人が触ってドッジボールするみたいに投げ合っていく中で、また中空で跳ねて秩序状態に戻っていくんだよ。しかも意図せずに。
宇野 (動画を観ながら)本当だ(笑)。これはいいね。
猪子 あと、浮いている時は、球体を平面化させていて。これは、豊洲のチームラボプラネッツの『意思を持ち変容する空間、広がる立体的存在 – 平面化する3色と曖昧な9色、自由浮遊』でもやっている空間や物体を平面化させる色なんだ。地面では球体であるものが、空中に浮遊すると平面の円になることで、より常識を超えた現象だと認知すると思うんだ。
「超主観空間」と「超主観時間」
猪子 他の2作品についても触れておくと、『生命は結晶化した儚い光』では、光と水の結晶のようなものが空中に大量に出現し、上に上がっていったり下に下っていったりし続ける。ガン見してほしいんだけど、この光と水の結晶は、色が3色とか5色とかにぱっきり分かれている。このいくつかの色のはっきり分かれた水は人類ではじめて見ることになったと思うんだ。液体や光がこのように色がぱっきり分かれることは絶対にないからこそ、余計に結晶のように固体に見える。
▲『生命は結晶化した儚い光』
あと、もうひとつの『降り注ぐ雨の中で増殖する無量の生命 – A Whole Year per Year』は、チームラボがずっと追求している「超主観空間」による作品。超主観空間って、視点が固定されないから、どこにでもフォーカスが当たる。一個だと思っていたものが、いつのまにか数万個になっていたりとか、何かを見ようと思ったら違う部分が中心となって変化することによって、視点が当て続けられない。映画みたいなものだとレンズによって視点が固定されて延々と進んでいくんだけど、視点がわざと固定されない状態が継続していく。だから視点が全体に広くなっていく。そうすると意識も全体に拡大していくと思うんだ。
それを今回のサウナによる展覧会に置いた意図は、固定され狭くなった視点が広がって、意識が全体に広がることが、認知の状態を変えるんじゃないかと思って。
▲『降り注ぐ雨の中で増殖する無量の生命 – A Whole Year per Year』
宇野 まあ、それが猪子さんの言う瞑想状態なのかどうかはわからないんだけど、僕はこのサウナで「ととのった」状態で作品を眺めてるときに、一番遠くに来たと思ったんだよ。本当は六本木なんて僕の自宅からせいぜい7、8キロメートルにある場所で、全然遠くはない。そんな近くの街にある、究極的に言えばただのプレハブ小屋の中なんだけど、サウナを数部屋通過して、冷水シャワーを浴びて、ほえーってしながら、赤のボールがふわふわしてるのを眺めていたときに、ここ数年で一番遠くまでやってきた気がした。
猪子 おもしろい。
宇野 その遠さってさ、時間的な外部にいるってことなのだと思った。空間的に遠くに行くのは、いまこのコロナ禍では難しいし、もはや体験としても大したことはない。移動のハードルはどんどん下がっていっているし、通信についてはもはやほんど何の制約もない。だから空間的な外部って、ガチの宇宙ぐらいしか世界にほぼ存在していないようなものなのだと思う。特に情報のネットワークのことを考えたとき、空間的な外部ってもう成立しないのだと思う。
猪子 時間的な外部って、どういう意味?
宇野 いま、僕たちは誰もが同期して、つまり同じ時間を生きてしまっている。もしどこかの国に隕石が落ちたら、世界中の人が一瞬でそのことを知って、話題にする。全人類が同じタイミングで同じことを気にしてる。新型コロナウイルスの問題がまさにそのことを証明している。だからいまは、自分の時間を持つのがけっこう難しくなっているんだと思う。
そこで、「TikTok チームラボリコネクト」が解放するのは、自分の主観的な時間なのだと思う。僕が感じた「遠くまで来ている」という感覚の正体はそれで、でもそのときに自分の内面に閉じこもってるかといえばそんなことはなくて、むしろ通常より周りの環境に開かれている。そこがおもしろいと思った。
猪子 そうだね。自分っていう存在は本来、頭と身体と環境が一体であるはずなのに、ニュースとかの情報ばかりで頭だけが自分になってしまう。頭だけの情報にあふれていると、身体とも分離し捨ててしまうし、身体と分離することを通して、結局自分の物理的な環境とも分離しちゃう。環境も含めて自分である、みたいなことすら、感じられなくなっちゃってるのかもしれないよね。
宇野 いまの僕らの世界というのは、他の人間に影響されすぎている。気がついたら無意識に他の人間のほうばっかり向くようになって、世界のほうに向かなくなっている。「ととのう」ことでそれを回復できるのだと思うんだよね。
猪子 ととのうこともそうだし、一見自然の法則や常識からズレたような、超常現象的なものを見ると、自分の存在すら忘れ、より世界と一体化するような感覚を取り戻せる。
宇野 そう。超常現象「的」なのだけど、それって実際に目の前で起こっている現実なんだよね。そこがポイントだと思っていて、そのとき人間は完全に自分だけの主観的な時間を生きている。それが「持っていかれる」っていうことなんだろうと、あの後ずっと考えてる。それって、自分の内面に閉じこもってるときには逆にできなくて、自分の身体が開いて、身体の外の世界と一体化してるときにこそ、その状態は起こると思うんだよね。
だから例の赤いボールを眺めてるとき、「いま、自分は持っていかれているな」って思った。そしてそれが気持ち良かった。言ってみれば「超主観空間」ならぬ「超主観時間」に導かれたような気になったんだよ。
猪子 なるほど、おもしろい!
「人が特別な状態になれる場所」を現代的に拡張する
宇野 そこから翻って改めて空間を作ることの意味を考えるとさ、瞑想でもアートの鑑賞でもいいのだけど、人間はここ最近は自分の内面が変わって、そのことによって自分が高みにいくということをずっと考えてきたんだけど、そうじゃなくて聖なる場所のようなところにいることで、高みに到達するというやり方を見直してもいいんじゃないかと思ったんだ。それこそ御船山だってそういう場所だったはずだしね。だから、現代のテクノロジーを使うことで、もういちど聖なる場所を作り得るという考えが大事だと思うんだよ。近代社会というのは、基本的には人間の側を拡張してきたんだけど、そうじゃなくて場所のほうを拡張するというか、変えていく。
猪子 そう、御船山とかが大事な場所とされてきたのは、見たことないようなせり上がった山だったり、積み上がった岩だったり、一見あんまり現実じゃなさそうな超常現象みたいな状態が、たまたま自然に存在していたからなんじゃないかと思うんだよね。
宇野 うん、僕はこれが猪子さんが御船山から持ち帰ったものなんだ、と思った。基本的に、現代都市における美術鑑賞って、すごく非日常的で切断的な行為になっている。たとえば「○○展を森美術館でやります」といったときはに、六本木ヒルズのかなり高いところまで上がって、かしこまって見る。その行為というのは、鑑賞するという制度によって、自分と作品の間っていうものを完全に切り分けて、作品から発生する自分の内面の変化というものを、ちょっとメタ的に味わうみたいなものだった。
でもサウナって、すごく形式的ではあるんだけど、人を無防備にさせるための形式という意味で真逆のことをやっている。僕はこの差をすごく評価したいんだよね。こちらのほうが、僕は広がりを感じるんだよね。
猪子 権威のある場所にアートを置くことよりも、鑑賞者が特別な状態になってアートを体験する方が、高級なのではないかと思ったんだ。
宇野 これまでチームラボは、美術作品をミュージアムに置かれているものを鑑賞するというのとは違うタイプのアート体験を常に追求してきたのだと思うけど、サウナを導入した「TikTok チームラボリコネクト」こそが、その最新系というか現時点での究極形態になっているということだよね。
猪子 今回は、作品を観ることや、体験するということを考える上で、鑑賞者の状態を変えて、アートの鑑賞方法を実験する展覧会を開きたかったんだ。
[了]
※この記事は中川大地が構成をつとめ、2021年7月12日に公開しました。
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