1939年、マンハッタン

 前回はマンハッタンのユダヤ人哲学者の話だった。若きアシモフが初めてマンハッタンに足を踏み入れてから4年後の1939年の8月、別のユダヤ人が初めてマンハッタンに足を踏み入れる。タルスキである。今回は、アメリカにやってきた後のタルスキに焦点を当てたい。

 その前に、本連載でこれまでに見てきたタルスキの足跡を振り返ろう。タルスキはゲーデルと並ぶ20世紀最大とも呼ばれるほどの大論理学者である。また、哲学でも、分析哲学を学んだものならその名を知らないものはいないと言ってよいほどの知名度を誇る。なぜなら、分析哲学では「意味論(Semantics)」というものがあちこちで登場するのだが、それは普通、「タルスキ型意味論(Tarskian Semantics)」と呼ばれるものであり、タルスキの業績に由来するものだからである。

 タルスキはゲーデルにとって、数少ない親友の一人でもあった。彼ら二人が初めて出会ったのは1930年のウィーンだ。タルスキは1918年、生まれ故郷のワルシャワ大学に進学し、若くして数学の天才として知られるようになるのだが、1929年にウィーン学団の先輩数学者であるカール・メンガーが父親の出身地であるポーランドを訪問した際にタルスキと出会い、ウィーンに招待したのだ(本連載第1回)。

 それ以降、タルスキはウィーン学団、およびウィーン学団が推進する統一科学運動に関わることになる。タルスキが渡米するのも、アメリカ・ハーバード大学で開催される第5回統一科学国際会議に参加するためだった。友人であり分析哲学を代表するアメリカ人哲学者クワインの強い勧めがあったからだ。だが、タルスキがポーランドを発ってすぐ、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。無事アメリカについたものの、戦乱に陥った祖国、そしてそこに残してきた家族や友人たちを案じることで頭がいっぱいだったタルスキの前に現れたのは、ベルリン・グループと呼ばれるドイツの科学哲学者(本連載第5回)の一人、カール・グスタフ・ヘンペルと、フォン・ノイマンだった(本連載第6回)。

アルフレッド・タルスキ(出典

ニューヨークのポーランド人〜渡米直後のタルスキの奮闘と様々な出会い

 ヘンペルは以前の統一科学国際会議でタルスキと面識があり、また先にアメリカという土地にやってきたヨーロッパ人ということもあり、様々な不安を抱えるタルスキを安心させようとニューヨークを案内した。また、ヘンペルは、彼と同じくナチスの迫害を受けドイツからアメリカへと渡ってきた論理学者のオラフ・ヘルマーをタルスキに紹介している。ヘンペルもヘルマーも、アメリカに来たはいいものの職を探すのに苦労していた。当時のアメリカは、彼らと同じくナチスの手を逃れて移住したヨーロッパからの知識人で溢れていたからだ。幸い彼ら二人にはあてがあった。ロックフェラー財団だ。ロックフェラー財団は、フォン・ノイマンのゲッティンゲン留学を支援し(本連載第6回)、またタルスキのウィーン滞在も支援するなど(本連載第1回)、科学哲学や論理学を積極的に支援していた。ヘンペルとヘルマーはフォン・ノイマンやタルスキほどの知名度はなかったが、ニューヨークにあるロックフェラー財団本部の恩恵を受け、一足先にアメリカへと移住し、シカゴ大学の哲学教授になっていたウィーン学団の科学哲学者カルナップのアシスタントをして糊口を凌いでいたのである。

 だが、タルスキには、彼ら二人のドイツ人とのんびりニューヨークを観光している時間はなかった。統一科学国際会議のために、ハーバード大学のあるマサチューセッツ州ボストンにすぐさま移動しなければならなかったからだ。そして会議にも戦争が暗い影を落としていた。大会プログラムを見ると、氏名の後に「?」がついた発表者が少なからずいる。これは、戦争により参加できるかどうかが不明になったヨーロッパからの参加者を表すしるしである。タルスキの名前にもそのしるしがあった。タルスキは幸運にも発表することができたが、ベルリン・グループの論理学者クルト・グレーリンクは、もはやアメリカへ行く船がなくなっていたドイツからベルギー、フランス、スペインと大陸を移動し、スペインから渡米しようとしたが、結局果たせなかった(本連載第5回)。また、タルスキとルヴフ大学論理学教授の席を争ったレオン・フヴィステクや、タルスキの教え子のアドルフ・リンデンバウム、その妻であり同じく論理学者のヤニーナといったタルスキの近しいポーランド人も、会議に姿を現すことがなかった。

 会議終了後もタルスキにはすべきことがあった。まず、そもそも彼は会議の参加だけのための短期ビザでアメリカに入国しており、そのままでは帰国しなければならなかった。ナチス・ドイツに占領されたポーランドにユダヤ人のタルスキが戻ることは、当然ながら死を意味する。それを避けるにはアメリカの永住権が必要だ。クワインやカルナップ、ラッセルらの尽力により、タルスキは無事に永住権を手に入れることができたが(そのために一度キューバまで行かなくてはいけなかったのだが)、次の問題は職だ。タルスキの知名度はヘンペルやヘルマーより上だったが、ヨーロッパから逃げ延びてきた知識人であふれていたアメリカで、高い名声を持つ大学の教授職を得るのは容易ではなかった。第5回統一科学国際会議開催に関わったハーバード大学の面々の尽力により、ハーバード大学での非常勤研究員のポストは確保できたものの、給与はわずかであり、他の収入源が必要だった。結局タルスキは、ニューヨーク市立カレッジ(シティ・カレッジ)での半年間だけの教授職に就くことになる。こうしてタルスキは、またマンハッタンに戻ることになるのである。1940年のことだった。

 シティ・カレッジでタルスキは慣れない英語と格闘しながら論理学を教える。シティ・カレッジは貧しいニューヨーク市民に無償で教育を提供する大学であり、そこから多くの科学哲学者が巣立っていったことは、前回にも書いたとおりだ。タルスキもまた、後にアメリカの学術をリードすることになる学生を教えるのだが、その中には、後にノーベル経済学賞を受賞するケネス・アローもいた。アローの回想によれば、最初のころ、タルスキの英語は英語かどうかわからないほどだった。だが、アローがタルスキの喋り方に慣れ、ポーランドなまりを無視できるようになってくると、美しいまでに理路整然とした内容が現れたという。アローは、タルスキに教わった論理学は、彼のその後の経済学の研究でも役に立ったと述べている。タルスキの方も、アローの眩しい知性に気づいていた。ちょうどその頃、タルスキがポーランドで出版した論理学の入門書の翻訳がオックスフォード大学出版局から出版されようとしていた。翻訳者は、タルスキがアメリカに着いた日にヘンペルから紹介されたヘルマーだ。だが、ヘルマーはイギリスでも博士号を取得していたとはいえ、ドイツ人であり、論理学を理解できるネイティブ・スピーカーによるチェックが必要だった。この仕事にアローはうってつけであり、タルスキの依頼を受けたアローは快く、しかも無償でその仕事を引き受けるのである。

 シティ・カレッジでの半年間の教授職が終わった後、タルスキの職は、ニューヨークのヘブライ教青年会での非常勤講師と、それ以前から続くハーバード大学での非常勤研究員だけとなる。だが、この時、その後のタルスキ、および分析哲学にとって大きな転換点とも言えることが起きるのだ。当時シカゴ大学の教授職に就いていたカルナップが客員教授として1年間ハーバードに滞在するのである。手配したのはもちろんクワインだ。一時的とはいえハーバード大学の同僚となったカルナップ、クワイン、そしてタルスキの3名は、ことあるごとに集まって議論した。時にはヘンペル、そして当時ハーバード大学で博士号を取得したばかりの哲学者ネルソン・グッドマンもそれに参加した。この会合こそ、アメリカにおける分析哲学の最初の種子とでも呼べるものであり、そこでの議論からその後の分析哲学の主要なテーマがいくつも生まれ、広まっていった。

ハーバードでの会合でカルナップがドイツ語で記したメモを
研究者が転記したものの1ページ。
タルスキ(Tarski)とクワイン(Quine)の名前が見える。
Greg Frost-Arnold, Carnap, Tarski, and Quine at Harvard:
Conversation of Logic,Mathematics, and Science, Open Court, 2013.
(出典)

 こうした、研究という面では恵まれてはいたものの金銭的には厳しい生活は、幸運にも短期間で終わりを告げる。1941年にタルスキは、グッゲンハイム記念財団のフェローに採用されたのだ。タルスキはニューヨークを離れ、ニュージャージ州プリンストンに移り住む。プリンストン高等研究所でグッゲンハイム・フェローとして研究することになったからだ。そこでタルスキは、ゲーデルと再会するのである。

1942年、タルスキとゲーデル 、プリンストンでの再会

プリンストン高等研究所(出典

 ユダヤ人でなかったゲーデルがアメリカに移住するのは比較的遅く、1940年のことだった。ナチス・ドイツによるオーストリア併合によりウィーン大学での職を失ったゲーデルは、以前に滞在したことのあったプリンストン高等研究所からのオファーを受けることにし、生まれ故郷を離れる決断をするのである。以前の滞在時に親しくなっていたアインシュタインがプリンストン高等研究所に所属していたことも大きな理由だっただろう。

 ゲーデルは決して友人が多い方ではなく、プリンストンでもアインシュタインが唯一の友人と言ってよいほどだった。その彼にとって、ウィーン時代からの友人であるタルスキがプリンストンに来ることは、かなり嬉しいことだったに違いない。タルスキの方も同じだった。後にカリフォルニア州に移った後、タルスキはゲーデル夫妻に、プリンストンがカリフォルニアからあまりにも遠く離れていることを嘆く手紙を何度も送っているほどだ。そしてそれに対してゲーデル夫人は手紙に添えて手作りのケーキを送り、かえって彼をホームシックにさせたという。

 もしかするとタルスキにとっても、プリンストン時代はとても幸せな時期だったのかもしれない。グッゲンハイム・フェローという恵まれた身分とプリンストン高等研究所という環境。プリンストン高等研究所には、アインシュタインやフォン・ノイマンをはじめとする高名な学者がたくさんいたが、それだけでなく、ヘンペルもまた、近くにあるプリンストン大学の哲学科の教授になっており、プリンストン大学の数学科には、チューリングの指導教員となる数学者アロンゾ・チャーチもいた(本連載第3回)。さらには、以前の同僚がいるマンハッタンも列車ですぐ行ける距離だった。じっさい、タルスキは頻繁にマンハッタンを訪れている──単に元同僚に会うだけでなく、きらびやかなマンハッタンの繁華街が目的だったのだろうが。

 だが、タルスキのプリンストン時代は短期間で終わる。カリフォルニア大学バークレー校から招へいされたのだ。バークレーは世界でもトップクラスの数学科を作るべく優れた数学者を集めようとしており、タルスキも以前から教授候補者の一人だったが、戦争のため中断していた。だが、またもやロックフェラー財団がタルスキを助ける。ロックフェラー財団の戦時助成金により、バークレーはタルスキを数学の講師として──残念ながら資金不足のため教授ではなかったが──雇用することができるようになったのだ。戦時助成金によるものであるということは、戦争が終わった後のことは保証されない。だがそれでも、タルスキにとって、これまでのものとは比較の余地がないほどの安定した職だった。グッゲンハイム・フェローの身分も延長はされたものの1942年までのものだったからだ。

 こうしてタルスキは、1942年の秋にプリンストンを離れ、カリフォルニア州バークレーへと向かう。わずか半年のプリンストン滞在だったが、ともかくこれで、渡米から3年に及んだタルスキの流浪の生活も終わりを告げることになるのである。

西海岸のタルスキと親友マッキンゼー

 タルスキがマンハッタンで知り合った人物の中に、J. C. C. マッキンゼーという論理学者がいた。彼もまた、本連載の第1回冒頭で登場した1946年に開催されたプリンストン大学創立200周年記念数学会議の参加者である。当時マッキンゼーはニューヨーク大学で数学の講師を務めていた。二人はすぐさま意気投合し、どこに行くにも一緒だったという。マッキンゼーは自身の博士論文の指導教員に、タルスキと知り合えたのは博士号取得以降で最大の幸運だったと興奮した筆致で手紙を送っている。マッキンゼーが博士号を取得したのは、カリフォルニア大学バークレー校だ。マッキンゼーの手紙が、タルスキの講師就任の引き金となったことは想像にかたくない。タルスキもそのことを知っていたのか、彼がアメリカで得た親友と呼べるのはマッキンゼーただ一人だと後年語っている。

 マッキンゼーとの付き合いは、タルスキがバークレーにやってきた後も続いた。ゲーデルをはじめとする多くの友人や知人に囲まれていた東海岸での生活とは異なり、西海岸のカリフォルニアではタルスキは一人だった。戦争による様々なカリキュラム変更もあり──それには海軍士官の教育プログラムや空軍向けの気象学コースも含まれていた──タルスキはそれまでとは異なり、学部生向けに初歩の数学を教える日々の連続だった。だが、彼の心の支えとなったのはマッキンゼーだ。マッキンゼーは、タルスキの1年後にグッゲンハイム記念財団のフェローに採用され、タルスキの着任後まもなく、母校であるカリフォルニア大学バークレー校に1年間滞在することになったのだ。マッキンゼーは、グッゲンハイム・フェロー終了後はカリフォルニア州の隣にあるネバダ州の大学、その1年後には、カリフォルニアからは少し遠くはなるが車で行けるオクラホマ州の大学と、大学を転々としながらタルスキのそばにいることを選び続ける。そして、1947年、カリフォルニアに戻ってくる。後にランド研究所となる研究組織に採用されたのだ。

 ランド研究所(RAND Corporation)は、アメリカを代表する軍事戦略シンクタンクであり、その起源は第二次世界大戦中に遡る。当時存在したアメリカ軍事省(War Department)と、第二次世界大戦中に軍事研究を促進するために設立された科学研究開発局(Office of Scientific Research and Development)が、1945年に航空機メーカーのダグラス・エアクラフト社(後にボーイング社に吸収)と契約して、戦略立案を目的とする「ランド計画」を開始させたのが始まりだ。戦後、軍との癒着を疑われることを恐れたダグラスが、フォード財団の資金援助を得てNPOとして独立させ、現在の姿となった。

 論理学者が軍事戦略シンクタンクに採用とは不思議に思われる方もおられるかもしれないが、当時は普通のことだった。第二次世界大戦中の英米では、数理モデルを用いて軍事戦略の分析や立案をおこなうオペレーションズ・リサーチ(Operations Research)という分野が軍の資金で活発におこなわれており、数学者の主要な就職先の一つとなっていたのだ。

 ナチス・ドイツに追われてアメリカに移民したヨーロッパからの数学者も、オペレーションズ・リサーチに携わることで収入を得たものも少なくなかった。渡米したタルスキが初日に出会ったベルリン・グループの論理学者ヘルマーもその一人だ。1937年に渡米したヘルマーは、タルスキと出会った頃はカルナップのアシスタントをしていたが、第二次世界大戦中の1944年にはアメリカ海軍の試験場で働いていた。それだけではない。その時の上司だったプリンストン大学出身の統計学者ジョン・ウィリアムズがランド計画に参加することになり、ヘルマーにも声をかけるのだ。こうしてヘルマーは、戦後まもなくの1946年にランド計画に参加することになる。

 ヘルマーは、ベルリン大学でライヘンバッハの指導のもと科学哲学で博士号を取得していたが、ナチスの政権掌握に伴ってライヘンバッハがドイツを追われたこともあり(本連載第5回)、イギリスへと移住する。そしてロンドン大学で、ウィーン学団のノイラートのイギリス亡命を助けた女性哲学者ステビング(本連載第4回)の指導のもとで二つ目の博士号を取得するのだが、そのテーマはラッセルのパラドックスだった(本連載第3回)。ヘルマーが英訳したタルスキの論理学の入門書にはマッキンゼーも協力しており、謝辞には彼について書かれた一文がある。こうした事情からすれば、マッキンゼーのランド研究所採用にヘルマーが関与していたことは間違いない。

グッゲンハイム記念財団フェロー申請時のマッキンゼー
(出典)

マッキンゼーが目指した「タルスキ型」コンピューターとその遺産

 マッキンゼーはタルスキと共同で様々な研究をおこなったが、本連載にとって無視できないのが、タルスキによる幾何学の完全性証明の出版である(本連載第6回)。チューリング・マシンは、ヒルベルトの「決定問題(decision problem)」を解決する(すなわち、決定することが不可能であることを示す)ために考案されたものだったが(本連載第3回)、タルスキは幾何学の一部に関して、そのようなことが可能であることを証明したのだった。ただし、この成果の公表はすぐにはできなかった。1939年にはフランスの出版社から出版されることになっていたのだが、第二次世界大戦により頓挫してしまっていたのだ。だが、タルスキは出版を諦めてはいなかった。最終的には、マッキンゼーの尽力により、ランド研究所の報告書として出版されることになるのである(本連載第6回)。それだけではない。マッキンゼーは元の草稿を書き直し、手法を洗練させただけでなく、大幅に発展させ、それが現実の機械で実行可能であることすら示唆したのである。

 マッキンゼーが元々のタルスキの証明をそのように発展させた理由は、彼のランド研究所での研究に関わっている。ヘルマーやマッキンゼーがランド研究所で携わっていた分野は、ゲーム理論である。「囚人のジレンマ」ゲームなどで知られるゲーム理論は、1944年にフォン・ノイマンと経済学者オスカー・モルゲンシュテルンの共著である『ゲームの理論と経済行動(Theory of Games and Economic Behaviour)』の出版によって成立する。

 モルゲンシュテルンもまた、ウィーン出身であり、ウィーン大学で博士号を取得するなど、ウィーン学団と縁が深い(本連載第4回)。そして彼もまたロックフェラー財団の支援を受けてアメリカへと留学する。1925年のことだ。帰国後、モルゲンシュテルンはウィーン大学の経済学教授となるのだが、彼が二度目にアメリカを訪問した1938年、ドイツがオーストリアを併合する。ウィーン学団は非合法化され、モルゲンシュテルンはそのままアメリカの残る決断をするのである。そして彼はプリンストン高等研究所の教授となり、フォン・ノイマンに出会うのだ。モルゲンシュテルンはゲーデルとも親しく、彼が撮影したゲーデル夫妻の写真が残されているほどだ。

 ゲーム理論はオペレーションズ・リサーチから派生したものであり、複数の行動主体が関わる複雑な現象を「ゲーム」とみなし、数理モデルを用いて分析する。タルスキがシティ・カレッジで教えたアローのノーベル経済学賞受賞も、ゲーム理論に関わるものだった。マッキンゼーは、タルスキの完全性証明は幾何学的問題の解を機械的に求めることが原理的には可能であることを示すものであり、それを応用すれば、ゲーム理論の解もまた、機械的に求めることが可能であることに気づいたのだ。

 マッキンゼーの構想はさらに膨らんでいった。彼は、彼が発展させたタルスキの手法に基づけば、機械によってゲーム理論の解を自動的に求めることが可能だという手紙をフォン・ノイマンに送ったのだ。要するに、マッキンゼーは、タルスキの手法を実装した機械──いってみれば、タルスキ型コンピューター──の開発をフォン・ノイマンに提案したのである。

 当時のコンピューター開発の状況を振り返っておこう。すでに1946年の段階でENIAC(Electronic Numerical Integrator And Computer:最初期の電子計算機。米陸軍の依頼でペンシルバニア大学のジョン・モークリー、ジョン・エッカートらが主導して開発)は存在していた。ただし、ENIACは現代のコンピューターの元祖としては致命的な問題があった。例えば、プログラム内蔵型ではなかったのだ。プログラム内臓型のコンピューターは、ノイマン型コンピューターと呼ばれる。ENIACの後継機EDVAC(Electronic Discrete Variable Automatic Computer)の開発に関わることになったフォン・ノイマンが1945年に発表した「EDVACに関する報告書の第一草稿」に由来するからだ。EDVACの完成は1949年。ノイマン型コンピューターとしては、イギリスの、マンチェスター大学が開発したSSEM(Small-Scale Experimental Machine)という実験機が先んじた。1948年6月である。マッキンゼーからフォン・ノイマンへの手紙、およびそれに始まる両者による手紙のやりとりがあったのは、ちょうどSSEMとEDVACの間の時期である。

 当然ながらフォン・ノイマンはタルスキの手法について熟知しており、それに基づいたコンピューターが開発できることも、マッキンゼーの手紙からすぐさま理解した。だが、実際の開発には否定的だった。その理由は明確である。たしかにタルスキの手法に基づくコンピューターを開発することは可能だろう。しかし問題は、解を出すのに必要な時間である。当然ながら、解くべき問題が複雑になるにつれて時間も増えていく。解を出すのに必要な時間は、問題の複雑さの増加とどの程度比例するのだろうか。フォン・ノイマンの予測は、単純な比例などではなく、爆発的に増えるというものだった。彼はその予測が、ゲーデルの不完全性定理からの自然な帰結だと述べている。

 ここで彼らが議論していたのは、アルゴリズムの比較である。ある数学的問題の解が複数の異なる手法で求められることがある。だが、それを機械で実行するのであれば、その手法は機械的なもの──すなわち、アルゴリズム──でなければならないだけでなく、現実的な時間で解が求められるようなものでなければならない。しかし、そのこと自体はどのように求めればいいのだろうか? コンピューター・プログラミングを体験したことがある人であれば、アルゴリズムによって計算結果が出るまでの時間が大きく変わることも知っているかもしれない。しかし、当時はそれを体験することはできなかった──まだ、コンピューターがろくに存在していなかったからだ。

 また、1台のコンピューターを作るまでの時間も現代とは比べものにならなかった。それは開発というよりもむしろ、「建造」と呼ぶべきものだった。じっさい、EDVACの開発は当初の予定を大幅に超えて数年にも及んだ。仮にマッキンゼーの言うように、タルスキの手法を実装したコンピューターを建造したとしても、それが完成するには数ヶ月は必要であり、莫大な費用が必要となる。そうしてようやく完成したコンピューターが簡単な問題の解を出すのに天文学的な時間を要するものであったなら、まったくの無用の長物となってしまうのだ。

 実のところ、フォン・ノイマンの見立ては正しかった。彼らの手紙のやり取りからずっと後の1972年、二人のコンピューター・サイエンティストがマッキンゼーの手法での計算時間を数学的に見積もるという研究をおこなった。彼らの結論は、かなりの初期の段階ですぐに極めて長い時間が必要となる、というものだった。

 ランド研究所に最初のコンピューターが建造されるのは1953年。フォン・ノイマンのアドバイスにより、彼が所属するプリンストン高等研究所で建造されたコンピューターに基づくものだった。もちろんノイマン型コンピューターだった。1957年にはランド研究所のコンピューターでタルスキの手法を実装することが試みられるが、結論は実用的でないというものだった。ごく簡単な問題ですら、計算時間が爆発的に増加してしまうのだ。まさしくフォン・ノイマンが予想したように。

 しかし、タルスキの手法は忘れ去られることはなかった。様々な洗練の結果、最初にタルスキが考え、マッキンゼーが洗練させた手法は、現在では「限量子記号消去(Quantifier Elimination)」というアルゴリズムとして知られており、数式処理ソフトウェアの「マセマティカ(Mathematica)」で用いられている。また、少し前に話題となった「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトで数学問題解答作成のアルゴリズムとして採用されたのも、限量子記号消去だった。

 残念ながら、こうした成果をマッキンゼーが目にすることはなかった。マッキンゼーは1951年にランド研究所を退職している。実は彼は同性愛者であることを公言しており、あちこちの大学や研究所を渡り歩いていたの理由も、それが厭われたからだった。ランド研究所でもまた、軍事機密に影響しうるという理由で退職せざるをえなくなり、近くにあるスタンフォード大学へと移る。そして1953年、カリフォルニア州パロアルトの自宅で、マッキンゼーは自ら死を選んでしまう。同じく同性愛が問題視されたことが原因だと言われるチューリングの死よりも、さらに1年前のことだった。

ランド研究所の最初のコンピューター。
「ジョン・フォン・ノイマン数値積分自動計算機
(John von Neumann Numerical Integrator and Automatic Computer)」、
略して「ジョニアック(JOHNIAC)」と呼ばれている。
Johnniac computer, Computer History Museum, California, by Andrew Lih
(出典)

 マッキンゼーとチューリングには共通点が少なくない。二人とも最初はコンピューターではなく数理論理学を志していた。だが、第二次世界大戦中に、数理論理学はコンピューターの基礎理論となっていき、そのために二人はコンピューターへと関心を移すことになる。二人とも実際にコンピューターを開発することはなかった。そしていずれも同性愛者であり、それが理由となり、どちらも40数年という短い生涯を終えることになる。

 マッキンゼーは、チューリングのような名声を得ることはなかった。しかし彼もまた、紛れもないコンピューター・サイエンスの黎明期にいた天才の一人であり、彼の遺産は今でも限量子記号消去として残されているのである。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2020年10月22日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年12月9日に公開しました。
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