前回はアメリカに来てからのタルスキに焦点を当てた。では、フォン・ノイマンとゲーデルはいつ、どのようにしてアメリカにやってきたのだろうか。フォン・ノイマンが初めてアメリカ・マンハッタンの地を踏んだのは、1930年にまで遡る。タルスキの9年前、アシモフの5年前だ。プリンストン大学に招聘されたフォン・ノイマンは、それから数年、アメリカとドイツを行き来する生活をすることになる(本連載第1回)。そして、1933年に設立されたプリンストン高等研究所の最初のメンバーとなり、ここを拠点にして様々な活動を行う。コンピューターの開発に関わり、ノイマン型アーキテクチャーを考案するのもその一つだ。
 ゲーデルの最初の渡米は、フォン・ノイマンより3年後の1933年の秋。アシモフのコロンビア大学面接(本連載第11回)より1年半ほど前のことである。その時ゲーデルは、フォン・ノイマンのいるプリンストン高等研究所のメンバーとして1年間滞在し、オーストリアに帰国する。その後ゲーデルは2度アメリカを訪れるが、最終的に1940年に渡米した後、アメリカ市民権を取得して永住することになる。
 だが、どうして彼ら二人はアメリカに、そして同じプリンストンという土地に来ることになったのだろうか。そのためには、アメリカに来て以降のフォン・ノイマンとゲーデル両名の終生の地となったプリンストンの歴史をひもといてみる必要がある。

研究大学としてのプリンストン大学の誕生

 プリンストンといえば、まず思い浮かぶのはプリンストン大学だろう。プリンストン大学は、世界の研究をリードするトップクラスの名門大学の一つであり、我が国でもその名は広く知られている。だが、意外かもしれないが、フォン・ノイマンとゲーデルが初めてプリンストンにやってくるよりも前の1920年代までのプリンストン大学は、決して現在のような世界的にも高名な大学ではなかった。
 プリンストンは、ニューヨーク州の西隣にあるニュージャージー州の決して大きくない町である。ニュージャージー州は、隣接するニューヨーク州がもとはオランダ領だったこともあり(本連載第11回)、オランダ移民が多く、彼らが建設した入植地が数多くあった。プリンストンもその一つであり、その名もオランダにちなんだものだ。現在のオランダ王家は、オラニエ=ナッサウ(Oranje-Nassau/Orange-Nassau)家というが、オラニエ=ナッサウ家では、代々の当主が「オラニエ公(Prins van Oranje/Prince of Orange)」という肩書きを受け継ぐしきたりになっている。プリンストンという名は、そのオラニエ公の町、すなわち、「プリンス(公)のタウン(町)」ということで、「プリンストン(Princeton)」と呼ばれるようになったとされているのだ。
 「プリンストン大学」という名前は、所在地であるプリンストンという町に由来するものだが、最初から「プリンストン大学」だったわけではない。もともとプリンストン大学は、ニュージャージー州の最初の大学として1746年に設立されたものであり、当初は「カレッジ・オブ・ニュージャージー(College of New Jersey)」という名称だった。本連載の読者であれば、カレッジということから推測できるかもしれないが、アメリカ最古の大学であるハーバード大学と同じく、当初は聖職者養成を目的としたものであり、現在のような研究大学ではなかった(本連載第9回)。
 カレッジ・オブ・ニュージャージーは設立10年目の1756年に、プリンストンに引っ越してくる。だが、「プリンストン大学」という名前になるのはもっと後になってからだ。1896年、創立150周年を迎えたカレッジ・オブ・ニュージャージーはそれを機に、所在地に合わせ、名称を「プリンストン大学(Princeton University)」と変更する。そして改名と歩調を合わせるかのように、プリンストン大学は、現在我々の知る世界的な研究大学への道を歩み始めるのである。
 プリンストン大学が研究大学へと変わるきっかけとなったのは、1902年、後にアメリカ大統領となるウッドロー・ウィルソンがプリンストン大学の学長に就任したことだ。ウッドロー・ウィルソンはプリンストン大学の卒業生であり、ジョンズ・ホプキンス大学大学院で政治学を学んで博士号を取得した後、母校プリンストン大学に教授として帰ってくる。そしてウィルソンは、母校をジョンズ・ホプキンスのような研究大学へと変えることを目指し、学長に就任するのである。プリンストン学長としての手腕を評価されたウッドロー・ウィルソンは政治家に転身し、ニュージャージー州知事となる。そしてさらには第28代アメリカ大統領となる。博士号を持ったアメリカ大統領は彼が最初だ。
 ジョンズ・ホプキンス大学はアメリカ最初の研究大学だった(本連載第9回)。ウィルソンは、自らが博士号を取得したジョンズ・ホプキンスを参考に、プリンストンに大学院を設置し、研究大学への道を進ませる。それを実現するためにウィルソンは教授陣の数も倍増させる。また、それまでプリンストンにはいなかった、ユダヤ人やカトリック教徒の研究者も迎え入れる。ウィルソンの大胆な改革には、保守的な旧来の教授陣や同窓生からの抵抗も大きく、これがウィルソンの政治家転身のきっかけでもあったのだが、ウィルソンによる一連の改革がなければ、いま我々が知るようなプリンストン大学がなかったことは疑いない。

▲プリンストン大学最古の建物ナッソー・ホール(Nassau Hall)。 この名称もまたオランダ王家オラニエ=ナッサウ(Oranje-Nassau)家から来ている。(画像出典

アメリカの数学を変えた男、オズワルド・ヴェブレン

 さて、ウッドロー・ウィルソンによる大学改革により、一人の数学者がプリンストンに職を得ることになった。彼の名はオズワルド・ヴェブレン。ヴェブレンこそ、フォン・ノイマンとゲーデルをアメリカに招いた張本人である。彼ら二人以外にも、例えばアインシュタインを招いたのもヴェブレンであり、ヴェブレンがいなければ、こうした数学や物理学の歴史で一、二を争うような学者がアメリカに来ることは、おそらくなかっただろう。それだけではない。様々な意味でヴェブレンは、アメリカの数学を大きく変えた人物なのである。
 オズワルド・ヴェブレンはノルウェー移民の子孫として、1880年にアイオワ州に生まれる。当時のヴェブレン家は、ウィスコンシンやミネソタ、そしてアイオワとアメリカ中西部を転々としていたが、ヴェブレンの父、アンドリュー・ヴェブレンがジョンズ・ホプキンス大学で博士号を取得し、アイオワ大学で物理学を教えることになったため、ヴェブレンは大学までアイオワで過ごすことになる。
 ヴェブレンにとって大学はきわめて身近なものだった。父だけではなく、叔父のソースティン・ヴェブレンもまた、ジョンズ・ホプキンスで学んだ経済学者だった。彼ら同様、学者になることを目指したヴェブレンは、創設まもないシカゴ大学の大学院に入学する。シカゴ大学は、ハーバードやイェールのような東海岸の名門大学に匹敵する大学を中西部にも作ることを目的に、1891年に設立された私立大学である。設立資金を提供したのは、同じく中西部のオハイオ州クリーブランドでスタンダード・オイルを創業し、石油王となっていたジョン・ロックフェラー。当時のアメリカ中西部は、オーストリアやその他の国からの移民により人口が増大していた(本連載第10回)。シカゴ大学は、主に経済的な理由で大学進学のために遠く東海岸まで行くことができない若者に、最先端の学問を提供するために設立されたのだ。
 数学ではそれが特に顕著だった。ヴェブレン入学当時、シカゴ大学にはE・ヘイスティングス・ムーアという数学者がいた。ムーアは、イェール大学で博士号を取得した後、ベルリン大学に留学し、当時のドイツを代表する数学者だったレオポルト・クロネッカーやカール・ワイエルシュトラスのもとで学んだ数学者だった。特にムーアが関心を持っていたのは、ダフィット・ヒルベルトによる「公理化」という手法による数学の基礎づけである(本連載第3回)。シカゴに来たヴェブレンは、まだ発表されたばかりのヒルベルトの研究についてムーアから学び、ヒルベルトや「公理化」について強い関心を抱く。こうしてヴェブレンは、ヒルベルトによるユークリッド幾何学の基礎づけについての研究で博士号を取得するのである。1903年のことだった。
 1905年、ヴェブレンは師であるムーアの推薦により、ウッドロー・ウィルソンによって改革が進められていたプリンストン大学に職を得る。プリンストンでヴェブレンは、数学者としての名声を確立していくのだが、数学者としてのキャリアを順調に歩んでいたヴェブレンに一つの転機が訪れる。第一次世界大戦である。
 ただし、ナチスに翻弄されたウィーンやベルリンの科学哲学者(本連載第5回)、あるいはポーランドの論理学者(本連載第6回)のような不幸がヴェブレンの身に起きたわけではない。むしろ逆だ。第一次世界大戦勃発とアメリカ参戦に伴い、愛国心に駆られたヴェブレンは、積極的に母国の戦争に貢献すべく、自ら軍に入隊するのである。
 といっても、前線で戦ったわけではない。数学者としての専門知識を生かすべく、予備役の陸軍大尉となったヴェブレンは、1917年に設立されたメリーランド州のアバディーン性能試験場(Aberdeen Proving Ground)で、様々な分野の研究者とともに兵器の開発に従事することになるのである。ヴェブレンは軍で様々な研究プロジェクトに携わるが、大砲の弾道についての研究である弾道学(Ballistics)もその一つだ。
 終戦後、プリンストンに戻ったヴェブレンは、1920年に全米研究評議会(National Research Council)の委員に選ばれる。全米研究評議会は、科学者の戦時協力体制を構築するために、第一次世界大戦中の1916年に当時の大統領ウッドロー・ウィルソンの命で設立されたものだ。ヴェブレンが委員に選ばれたのも、プリンストンの数学教授であることもさることながら、戦争への協力が評価されてのことだろう。
 だがその頃、全米研究評議会の役割は変わっていた。もはや第一次世界大戦は終わっており、戦時協力体制は必要でなくなっていたからだ。紆余曲折の結果、ヴェブレンが委員に選ばれた頃の全米研究評議会は、政府や民間財団が科学のどの分野に投資すべきかの指針を示す機関となっていた。
 その背景にあったのは、ロックフェラー財団である。ジョン・ロックフェラーは、前述のようにシカゴ大学設立に資金を提供しただけでなく、後にロックフェラー大学となるロックフェラー医学研究所(Rockefeller Institute for Medical Research)を設立するなど、科学の発展につながる活動に熱心だった。ロックフェラー財団も、その一環として1913年に創設されたものだ。当初、ロックフェラー財団は新たな研究所や大学の設立を目指していたが、戦後、ロックフェラー医学研究所の初代所長であるサイモン・フレクスナーが全米研究評議会の委員となったこともあり、財団の資金の用途を全米研究評議会の指針に合わせるよう方針転換していたのだ。
 第一次世界大戦中、アメリカの大学は政府(その中心は軍)からの支援によって大きく成長していた。第一次大戦終了後も、物理学や化学は政府や民間財団からの支援によって成長を続けていた。だが、数学は取り残されていた。戦争による価格高騰により、1920年代にはアメリカ数学会は、専門誌を定期的に刊行することすら難しくなるほどの財政危機に陥っていたぐらいである。アメリカ数学会の財政危機をよく知っていたヴェブレンは、全米研究評議会の物理学部門に数学を加えることを試みる。その結果、アメリカの数学の歴史で初めて、大学からではなく民間財団から助成金を得ることに成功するのである。さらに、1923年、アメリカ数学会の会長に就任したヴェブレンは、研究資金獲得活動を学会の中心的活動の一つとして新たに加えるのである。

▲プリンストン大学で順調にキャリアを積み上げていた頃のオズワルド・ヴェブレン(1915年ごろ)(画像出典) unknown photographer circa 1915, Public domain, via Wikimedia Commons

ヴェブレンによるプリンストン大学数学科の飛躍──フォン・ノイマン渡米の背景

 どうしてヴェブレンは、それほどまでに研究資金の活動にこだわったのだろうか。それには彼のドイツでの体験がある。実は彼は、第一次世界大戦勃発前の1913年、半年間ヨーロッパに滞在してゲッティンゲンやベルリンといった、数学で世界をリードするドイツの名門大学を訪れ、ヒルベルトをはじめとする歴史に名を残す数学者とも直接話をする機会を得ていた。これが彼の後の活動にとって大きなヒントとなったのである。
 ヒルベルトらドイツの著名な数学者と話をしていてヴェブレンが気づいたのは、アメリカの大学とドイツの大学での環境の違いである。初期のアメリカの大学にとって研究は重要でなかった(本連載第9回)。研究に目が向けられるようになるのは、19世紀の後半、イェールやハーバードが大学院を設置し、ドイツ型の研究大学をモデルにしたジョンズ・ホプキンス大学が設立されてからのことであり、第一次世界大戦当時はまだ、50年ほどの歴史しかなかった。つまり、当時のアメリカの大学の大半は、いまだ教育を目的とする「カレッジ」だったのである。数学者の仕事は主に授業、そして学科や大学の運営業務であり、研究に割くことのできる時間はわずかでしかなかったのだ。これは、ジョンズ・ホプキンスのような研究大学でも同じである。むしろ、研究大学ではさらに状況が悪い。研究大学では研究成果を出すことを求めるにもかかわらず、実際には研究する時間が十分には与えられなかったからだ。
 それに対しドイツの大学では、数学者は研究に専念することができた。そもそもドイツの大学にはアメリカの「カレッジ」に相当するものがなく、研究と教育が一体化していた──正確には、研究することが教育にもなると信じられていた──からだ。もう一点、アメリカと比べてドイツの大学の違いは、同僚の数学者の数が多いことである。これは、大学制度の違いによるものだが、これにより研究に関して話し合う機会は格段に増える。研究に割く時間が多いのならなおさらだ。
 研究に専念できる環境こそが決定的に重要である。ドイツでそれが可能だったのは、富国強兵のために帝国大学には政府から豊富な資金が投入されていたからだった(本連載第2回)。それを国立大学のないアメリカで実現するには、民間から研究資金を得ることが不可欠だ。ヴェブレンはそのように考えたのだ。
 じっさい、1920年代にヴェブレンの尽力により次々と予算獲得に成功していったプリンストン大学数学科は、飛躍的な成長を遂げる。獲得した資金によって教員の数を増やし、それによって一人当たりの教育負担を減らすとともに、研究に関して話し合う機会を増やすことに成功したのだ。1925年には、プリンストン大学はロックフェラー財団の一般教育委員会(General Education Board)から100万ドルの資金を獲得する。この資金によりヴェブレンは、アメリカで最初の、授業をまったく担当しない数学教授の地位を得るのである。こうしてプリンストンは、ハーバードと並ぶアメリカの数学の中心地となる。
 次にヴェブレンが目指したのは、当時世界の研究をリードしていたヨーロッパからの数学者の招聘だ。まず、最初にヴェブレンによってプリンストンにやってきたのは、ヒルベルトの教え子であり、スイスのチューリッヒ工科大学でフォン・ノイマンを教えたこともあるヘルマン・ワイルという数学者だった(本連載第5回)。当時ワイルは世界一の数学者と目されており、1928年にイタリアのボローニャで開催された世界数学者会議(International Congress of Mathematicians)の基調講演を務めたほどだ。ワイルは1928年から1年間だけプリンストンに滞在し、プリンストン数学科の名前を国際的にも広めるが、その後ヨーロッパに戻ってしまう。ヒルベルトの後任としてゲッティンゲン大学の数学教授職に就くことになったからだ。ワイルを招聘する予算が浮いたため、ヴェブレンが目をつけたのがフォン・ノイマンだった。
 ヴェブレンとフォン・ノイマンが出会ったのは1928年の世界数学者会議である。それ以前からフォン・ノイマンの名声を知っていたヴェブレンは、プリンストンに来ることを持ちかけた。フォン・ノイマンは、この時はヴェブレンの誘いを断ってしまう。だがその後、ワイルがヨーロッパに戻ってしまったため、ヴェブレンはフォン・ノイマンをワイルの後任とすることを目論む。しかし、ヴェブレンの同僚には、世界一と目されていたワイルの後任として若干26歳のフォン・ノイマンはいささか物足りなく映ったらしい。結局フォン・ノイマンは、試用期間を兼ねて、年の半分をアメリカ、残りの半分をドイツで教えるというかたちでアメリカにやってくることになる。1930年のことだった。

プリンストン高等研究所の誕生とゲーデルの渡米

 ところで、プリンストンには、プリンストン大学と並ぶ、世界的に有名な研究拠点がもう一つある。プリンストン高等研究所である。正式名称は「高等研究所(Institute for Advanced Study)」であり、「プリンストン」という言葉は入っていない。世界各地にある同名の「高等研究所と区別するためもあり、特に我が国では、所在地をつけて「プリンストン高等研究所」という名前で知られている。
 フォン・ノイマンとゲーデルはどちらも、最終的な所属は、プリンストン大学ではなく、高等研究所の方である。ここに関わってくるのも、やはりヴェブレンである。プリンストン高等研究所を誘致したのもまた、ヴェブレンだからだ。
 プリンストン高等研究所は、ニュージャージー州の資産家が設立した基金によって創設されたものだ。その資産家は、もともとニューヨークにあるロックフェラー医学研究所のような研究所をニュージャージーに作ろうとして、ロックフェラー医学研究所所長サイモン・フレクスナーの弟である教育学者アブラハム・フレクスナーに、設立と初代所長となることを依頼する。だが、アブラハムは、彼らの予算では、医学のような多大な費用を必要とする分野で世界をリードするような研究所にするのは難しいと考え、数学や理論物理学といった、いわゆる紙とペンだけでできる分野にすることを提案し、ニュージャージー州内で適切な設立地を探していた。
 ヴェブレンは、全米研究評議会の同僚であるサイモン・フレクスナーを通じて、以前からアブラハムとも旧知の仲だった。また、アブラハムはプリンストン大学に100万ドルを提供したロックフェラー財団の一般教育委員会の一員でもあった。プリンストン大学数学科をさらに大きくしようとしていたヴェブレンは、アブラハムが新たな研究所の設立を任されていたのを知り、プリンストン大学のすぐそばに設置することを提案したのである。新たな研究所は公式にはプリンストン大学とは無関係であり、大学の敷地の外に位置することになるが、結果的にはプリンストン大学数学科と合わせて、巨大な研究センターを形成することになるだろう。そうヴェブレンは考えたのだ。
 アブラハムの条件は、ヴェブレンが研究所の設立メンバーとしてプリンストン大学から移ってくることに加え、アインシュタインとワイルという世界的に有名な物理学者と数学者である二人を中心メンバーとして招くことだった。幸い、アインシュタインからの承諾はすぐに取れた。1932年にナチスがドイツの総選挙で第1党となったため、当時アメリカに滞在中だったアインシュタインは帰国を諦め、アメリカでの安定した職が必要になったのだ。
 問題はワイルだった。プリンストン大学に滞在経験のあるワイルから承諾を得るのは、さらに容易のように思われた。加えて、ワイルは妻がユダヤ系だったため、ドイツを出国する必要に迫られていた。だが、ワイルは前向きに検討するという返事は寄越したものの、それ以外の詳細についてははっきりした返事をしてこなかった。それどころか、研究所設立が間近に迫った1933年1月、ワイルは研究所に加わることを承諾する連絡と、取り消して辞退する連絡とを交互にアブラハムに送りつけてくる。ワイルが本当にやってくるのか疑心暗鬼になってしまったアブラハムに対し、ヴェブレンはワイルの代わりの数学者として、フォン・ノイマンを推薦するのである。フォン・ノイマンはすでにプリンストンの教授だったため、ヴェブレンとともにすぐ隣に建設予定でより待遇の良い研究所に移ってくることに特に障害はない、というのがその理由だった。
 フォン・ノイマンが研究所に移ることを承諾した直後、ヒトラーが総統に就任する。いよいよ本当にドイツを脱出しなければならなくなったワイルは、ヴェブレンに助けを求める。最終的に、ヴェブレン、アインシュタイン、フォン・ノイマン、そしてワイルをも含めたメンバーで、プリンストン高等研究所は正式に活動を開始する。1933年のことだった。もっとも、できたばかりの研究所はまだ独自の建物すらなく、プリンストン大学に間借りしていたのだが。
 プリンストン高等研究所は、アインシュタインとワイルだけでなく、ナチス・ドイツの手から逃れた研究者を多く迎え入れた。ノーベル物理学賞受賞者のヴォルフガング・パウリもそうだ。パウリはウィーン生まれのオーストリア人だが、父方がプラハ出身のユダヤ系だった。1938年のナチス・ドイツのオーストリア併合により、ドイツ国籍になってしまったパウリはアメリカに移住し、プリンストン高等研究所の教授となる。
 ゲーデルもその一人だ。ヴェブレンは1932年にまた、ヨーロッパにしばらく滞在する。その時にウィーン大学を訪れ、ゲーデルの発表を聞いたヴェブレンは、設立を翌年に控えていたプリンストン高等研究所に一年間滞在することをゲーデルに提案するのだ。というのも、研究所には、博士号取得まもない若手研究者を招聘する予算があったからだ。こうしてゲーデルもまた、アメリカ・マンハッタンの地を踏むのである。彼が初めて不完全性定理を公表し、またフォン・ノイマンと出会った、あの「ケーニヒスベルクの会議」(本連載第1回)から3年後のことだった。

▲プリンストン高等研究所の一角。フォン・ノイマンやゲーデルの写真が飾ってある。(画像出典) Gary Miotla, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons

フォン・ノイマンとコンピューター

 最後にコンピューター・サイエンスの歴史に少し目を向けよう。
 プリンストン高等研究所に移動したヴェブレンの後を継ぎ、プリンストン大学数学科を引っ張っていくことになるのは、アロンゾ・チャーチだ。チャーチは、アラン・チューリングがチューリング・マシンを考案するきっかけとなったヒルベルトの「決定問題」を、チューリングよりも一足先に解決した論理学者であり、その後、プリンストンで博士号を取得するチューリングを指導し、コンピュータ言語LISPにも大きな影響を与えた(本連載第3回)。
 チャーチはヴェブレンの教え子であり、ヴェブレンの影響でヒルベルトらの数理論理学に関心を持つ。博士号を取得後、全米研究評議会の指針に基づいてロックフェラー財団が開始した全米研究奨学金(National Research Fellowship)に採用され、ヒルベルトのいるゲッティンゲン大学などに留学するが、フォン・ノイマンがプリンストンにやってくる少し前にプリンストン大学に講師として戻ってくる。チャーチはその後長らくプリンストン大学で教鞭をとり、数理論理学の世界的大家となる。そしてチャーチの指導のもと、プリンストン大学は、数理論理学の世界的中心地となるのである。
 ゲーデルが最初にプリンストンにやってきた頃、チャーチはまだ決定問題の解決には至っていなかったが、残念なことに、当時はまだ若手だったチャーチは授業を免除されることはなく、ゲーデルと議論する時間はあまり取れなかった。ゲーデルが最後に渡米した1940年にはチャーチも研究に専念できるようになっていたが、当時ゲーデルは、アインシュタインの影響で関心を物理学に移しており、チャーチとはあまり議論をしなかった。チャーチとゲーデルが熱心に議論を交わした記録が残っているのは、1946年のプリンストン大学創立200周年記念会議である。そう、ゲーデル、フォン・ノイマン、タルスキの3名が揃って写真に写っている、あの会議だ(本連載第1回)。
 チューリングはゲーデルと同時期にプリンストンにいたのだが、にもかかわらず、二人が出会うことはなかった。運悪く、滞在時期がちょうど入れ違いになってしまったからだ。一方、チューリングはフォン・ノイマンとは会うことができた。そもそも二人は、チューリングのプリンストン大学大学院入学以前にも出会っていたのだ。フォン・ノイマンは1935年に、チューリングのいるケンブリッジ大学を客員教授として訪れていたのである。フォン・ノイマンは、チューリングがプリンストン大学に滞在するための奨学金の推薦書を書くだけでなく、1938年には、博士号を取得したチューリングに、自身の助手となってプリンストンに残ることを提案したほどだ。ただし、研究テーマは数理論理学でもコンピューターでもなかったのだが。結局チューリングは、フォン・ノイマンの申し出を断って帰国し、ブレッチリー・パークでドイツ軍の暗号機「エニグマ」を解読する仕事に従事することになる。
 どうしてフォン・ノイマンは、チューリングとともにコンピューターの研究をしようとしなかったのだろうか。実は当時のフォン・ノイマンは、まだコンピューターにそれほど関心を持っていなかったのだ。彼がコンピューターに関わるきっかけを作ったのは、セオドア・フォン・カルマンという古い友人だ。彼はフォン・ノイマンの父から、若きフォン・ノイマンに数学から専門を変えるよう説得するのを頼まれた友人である(本連載第5回)。
 フォン・カルマンもまた、ハンガリー・ブダペスト生まれのユダヤ人であり、フォン・ノイマンより一足早くにアメリカ市民となっていた。フォン・カルマンは流体力学や航空力学の専門家であり、1938年からアバディーン性能試験場に設置された弾道研究所(Ballistic Research Laboratory)の顧問を務めていたのだが、古い友人のフォン・ノイマンに一緒に仕事をしようと声をかけたのだ。こうしてフォン・ノイマンは、自分をアメリカに呼んでくれたヴェブレンがかつて働いていた、アバディーン性能試験場に足を運ぶようになるのである。そして当時、弾道研究所で検討されていたのは、弾道計算に用いられていたアナログの計算機を置き換えるデジタル・コンピューターの開発だった──これが後にENIACとなるのである。
 では、どのようにフォン・ノイマンはコンピューターの開発に関わっていくのか。次回はその話をしたいと思う。

▲完成後、ペンシルバニア大学からアバディーン性能試験場の弾道研究所に移送されて稼働しているENIAC(画像出典

(了)

この記事は、PLANETSのメルマガで2020年12月15日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2022年2月10日に公開しました。
これから更新する記事のお知らせをLINEで受け取りたい方はこちら。