「かっこいい」自動運転車は可能か?

 工業技術によって身体を拡張することで、主体と社会を短絡させる「乗り物」──その代表たる自動車こそが、20世紀における成熟の象徴として、男性的な美学の器として機能してきたことを、ミニ四駆のデザインを通じて確認してきた。

 だとすれば、情報化した21世紀における理想の男性的な成熟のイメージを考える上で、自動車の情報的なアップデートである自動運転車、および完全自動運転の分割的実装であるところの各種の運転支援技術について論じることは、避けて通れないだろう。

 自動運転技術は、それがごく近い将来かやや遠い未来であるかに議論はあるものの、やがてレベル5と呼ばれる完全自動運転を実現させることが期待されている。

 しかし自動運転車は、20世紀的な自動車の進化の形であるにもかかわらず、美学を宿す器として、少なくとも「手動運転車」であるところの20世紀的な自動車と同等に「かっこいい」存在としては認められていない節がある。

 これはある意味では当然のことといえなくもない。たとえば20世紀初頭において、個人が所有できる乗り物の主流は馬車であった。この時代に登場した新しい乗り物であるところの自動車に対しても、同様の戸惑いと抵抗があったことは想像に難くない。手動運転車が20世紀の100年をかけて蓄積した美学に比肩するためには、ごく素朴に考えて21世紀の100年という厚みが必要になるはずだ。

 しかし同時に、20世紀初頭における「未来の乗り物」としての自動車への期待と美学が、その後100年の自動車文化を育んだこともまた確かだ。ゆえに21世紀初頭の本連載では、来るべき自動運転車にどのようなかっこよさを見出すことができるかを考えてみたい。

 もちろん、そのヒントになるのは、20世紀末にG.I.ジョーから変身サイボーグとトランスフォーマーを経てミニ四駆に宿った「魂を持った乗り物」という想像力だ。

文化的に相容れない「自動車」と「自動運転」

 そもそもなぜ、自動運転車は20世紀的な自動車文化の文脈において「かっこいい」と思われていないのだろうか。そこには単純な嗜好の保守性やテクノフォビア以上の、自動車文化の美学に深く関わる問題がある。

 自動車の美学の中心に主体の拡張があると考えるとき、自動車が「直接操作できる」という感覚は極めて重要だ。たとえばいわゆるATとMTを比較したとき、一般的に言ってMTの方が格が高い──「かっこいい」と考える文化があるのは、こうした自動車の位置づけを背景にしているといっていいだろう。

 こうした美学の上では、情報技術による運転支援技術は、たとえ機能として事故を防ぐ効果があるとしても、むしろ邪魔なものになってしまう。あらゆる判断を正確に行う完璧な主体であることを確認することでナルシシズムを記述する自動車文化と、ドライバーが不完全なことを前提に支援を行う自動運転技術は、美学の上で相性が悪いのだ。

叫んでも加速しないから、ミニ四駆をやめる

 手動運転自動車の美学と自動運転技術、そしてミニ四駆の関係をわかりやすくするために、少しだけ個人的なエピソードを紹介したい。

 筆者には、NISSAN GT-R R33を愛車にする車好きの義弟(妹の夫)がいる。実のところ普通免許すら持たない筆者は、彼の自動車に対する知識と技術と美学を尊敬しており、しばしばこの連載についてや、男性的な美学のありようについて話を聞かせてもらっている。

NISSAN GT-R R33(出典

 その義弟と、あるとき自動運転車の是非について話す機会があった。そのとき彼は、自動運転どころか現在すでに実装されているような運転支援技術も自分には必要なく、むしろ判断の邪魔だからできるだけオフにしたい、と言った。

 そこでミニ四駆についても尋ねたところ、一時期は大変熱中していたという。しかし今ではほとんど作っているように見えないので、なぜやめてしまったのかを訊くと、こう答えてくれた。「いっけー、マグナム!」と言っても加速してくれないから、と。

 運転支援技術を邪魔と感じること。そして、ミニ四駆が操作できないことに不満を感じること。このふたつは、同じ感覚の異なる側面だ。直接操作することが中心にある手動運転車の美学においては、主体がテクノロジーを通じてダイレクトに社会に接続されるという感覚こそが重要だ。だからこそ、支援という形でさまざまな行動を提案し、ときには操作を代行するもろもろの自動運転技術は、自らの主体の拡張を邪魔する別の主体として認識されてしまう。

 しかし『レッツ&ゴー』が描いてきたのは、こうした主体をミニ四駆に見出した上で、むしろ肯定的に捉える想像力だった。命令することでミニ四駆が走るだけではなく、むしろ走り出すミニ四駆に導かれる瞬間にこそ『レッツ&ゴー』が発見した美学のユニークさがあった。

世界に先駆けて生まれた「完全自動運転車」

 「魂を持った乗り物」という想像力に注目してきたのは、そのためだ。身体を拡張しながらも、身体から切り離されているもの。操作を受けながらもときに主体として振る舞い、ゆえに人格未満ながら意志を持った存在として扱うことができるもの。すなわち、自動運転車を「魂を持った乗り物」として考えることで、そこに美学を、「かっこよさ」を見出すことができないだろうか。

 「20世紀の」「工業化社会の」「手動運転車」が、完全な主体のダイレクトな拡張に見出した理想と美学が、やがてドライバーの些細なミスが毎日何万人という人を死に追いやり、終わらない戦いの果てにボタンひとつで核ミサイルが発射されてしまうディストピアと表裏一体となってしまったことを、そしてそれが終わらない泥沼の戦争へとたどり着いてしまったことを、本連載ではG.I.ジョー―変身サイボーグ―トランスフォーマーの流れから読み解いてきた。

 ゆえに来たるべき「21世紀の」「情報化社会の」「自動運転車」は、不完全な主体を別な主体で補完する「魂を持った乗り物」に接続されることで、新しい理想と美学を宿す。自動運転車を「自動で走行する自動車」としてではなく、「乗り込むことの可能なミニ四駆」として捉えることで、はじめて見えてくるかっこよさがあるのではないか。

 議論が抽象的だというのなら、多少乱暴でも、比喩としてわかりやすくこのように考えてみてもらえばいい。仮に自動運転技術が十分に洗練され、人間とは比較にならないほど事故を起こしにくくなったとしよう。そこにもし「いっけー、マグナム!」とドライバーが叫べば加速するような自動運転車が現れたら、それは自動車文化の立場からも、憧れることのできるもの、成熟へと繋がる想像力を書き換えるもの、「かっこいい」ものとして受け止められないだろうか。そしてそうなったとき、私たちは自動運転車のコックピットに「マグナム」の存在を感じ、そして「お前」と語りかけはじめるのではないだろうか。

 むろんこれはあくまで文化論である。技術論としては音声認識どころか、そもそもフレームの限定が著しく困難な実際の路面という状況で、的確に事故を回避するような状況判断をする知能を自動車に搭載することが自動運転車の実用化における最大のハードルだ。

 しかし、かつてさまざまなハードルを越えて自動車が世界に普及したように、技術的問題はやがて克服され、新しい乗り物が私たちの生活に登場するだろう。そのとき、文化の上では後世から振り返って次のように語られることになると夢見たい。

 ミニ四駆こそが、世界に先駆けて生まれた完全自動運転車だった、と。

人間を目指さないAI

 20世紀的な男性性における手動運転自動車が文化として力を持ったのは、それが主体をテクノロジーを通じて社会に接続する、ひとつのモデルとして機能していたからだ。だからここまで論じてきた「魂を持った乗り物」による美学もまた、自動車の美学を越えて、主体とテクノロジーと社会の関係として一般化することができる。

 語りかけることで加速する自動運転車という想像力は、なるほど確かに突飛すぎるかもしれない。しかし、情報技術によって人間の問題解決や意思決定を支援する別の主体を、私たちの社会はすでに実装しつつある。それは一般に「人工知能」と呼ばれている技術に他ならない。

 人工知能にまつわる想像力は、むろん目新しいものではない。サイエンス・フィクションの世界においては、人工知能というテーマはむしろ古典として、少なく見積もっても半世紀以上の歴史的蓄積を持つ。人工知能が人間に反逆したり、人間を管理したり、あるいは人間と共存したりしてきたその長い歴史の中で、人工知能とは、人間と同じような存在、人間に対してオルタナティブな存在──「完全な主体」を持った存在であるというひとつの型が確立されていった。逆に言えば、こうしたサイエンス・フィクションの歴史において中心的な問いは「人工知能がやがて人間と同じ存在になったとしたら何が起きるか」というものだったといっていいだろう。

 こうした形式がヨーロッパとアメリカを中心にして確立されたことには、キリスト教的な人間観が密接に関係しているといえる。キリスト教においては(さまざまな考え方があるもののおおまかに)神は自らに似せて人を作ったとされる。それゆえに人間は他の動物と異なり、理性を、主体を持った存在であると考えられてきた。この神と人の関係、創造主と非創造物の関係の相似形として、人と人工知能の関係は思い描かれてきた。

 こうした人工知能観は、フィクションの世界に限定されたものではない。たとえば人工知能が人間を超えるタイミングを2005年に「技術的特異点(シンギュラリティ)」という言葉で表した未来学者、レイ・カーツワイルの未来予測もまた、先に述べたようなキリスト教的人間観/人工知能観が根底に流れているといっていい。そしてこうした人間観は、本連載でもハリウッド版トランスフォーマーの分析を通じて明らかにしてきた男性的美学の行き止まりと結びついている。

 人間と同等の認知能力を持ち、自意識を伴う精神を持った人工知能は技術的には「強いAI」と呼ばれ、限定的な推論と問題解決能力しか持たない人工知能は「弱いAI」と呼ばれる。カーツワイルは「強いAI」の到来を強く確信しており、シンギュラリティは2045年になるだろうと述べているが、その予測については楽観的すぎるとの批判も根強い。

 どちらの予測が正しいかを検証するためには実際に歴史が進むのを待つより他ないし、本連載の趣旨は正確な未来予測にはない。これまで蓄積されてきた「強いAI」と呼ばれるような人工知能観に基づいたサイエンス・フィクション群の思考実験の成果と、カーツワイルをはじめとした未来学の研究者による膨大なデータを用いた論証とそれに対する反論について、あくまで20世紀末の日本のおもちゃを論じる本連載が学問的に付け加えることはなにもない。

 だからこの連載では、こうした未来への想像力が描かなかったもうひとつの可能性、「弱いAI」の拡充に注目してみたい。

 2018年現在、爆発的な発展を遂げ、シンギュラリティを待つことなくすでに社会を変えはじめているのは「弱いAI」の方だ。そして「弱いAI」は高速な通信機能を持ってネットワークに接続された工業製品と結びつき、「IoT」と呼ばれるようなプロダクト群として、すでに私たちの社会に実装されている。

 しかし「弱いAI」は、人間を目指す方向には向かっていない。人間のように意思決定をする主体ではなく、環境の中に溶け込むことによって、ときにはそれと気づかないうちに、人間の意思決定を支援する存在として、私たちの社会に現れつつある。もし、「弱いAI」が垂直的に人間を目指して強くなるのではなく、水平的に環境の中に広がっていく方向性がさらに進展していくとしたら。オルタナティブな主体を確立しようとするのではなく、人間の主体に干渉するような中間的な存在になっていくとしたら。それは20世紀末に描かれた、「魂を持った乗り物」という想像力にシンクロしていく。だとすれば20世紀を象徴する自動車に対して、21世紀的な主体とテクノロジーの関係は、自動運転車に──いや、ミニ四駆に象徴されるようになる。そんな仮定を、ここでは置いてみたい。

「魂を持った乗り物」としての人工知能

 ここにきて、ようやく20世紀末ボーイズトイを通じて醸成された「kakkoii」という新しい男性的な美学が、おぼろげながらに見えてくるように思われる。

 ミニ四駆に宿る美学を「kakkoii」と名指したのは、本連載がはじめてではない。宇野常寛編『PLANETSVol.8』に収録された鼎談〈「装い」の環境分析──身体の虚数化と僕らの資本主義〉で千葉雅也が紹介するように、現代アーティストのハヤマトモエは、ミニ四駆のステッカーを用いたコラージュ作品を作り、そこに宿る美学を「kakkoii」と命名した。

 ハヤマトモエはやがてミニ四駆のステッカーからコンピュータ・プログラムを用いた自動生成へと作品制作のツールを変えていく。それは西洋絵画の伝統が主体によるパースペクティブの投影であったことに対して、コンピュータによる別の主体を差し挟むことによって新たな絵画を作り出そうという試みとして考えることができる。こうした活動の変遷を振り返って考えれば、ハヤマトモエがコラージュの題材としてミニ四駆を選んだことは、極めて自然で、かつ先験的だったと言えるだろう。

 本連載では、ハヤマトモエによって美術史上に定義された「kakkoii」の概念を拡張する。それは20世紀の西洋を中心に発展した、工業技術によって主体と社会を短絡させる男性的な美学に対して、日本で20世紀末のボーイズトイを通じて予見された、21世紀の情報技術によって、不完全な人間がモノとコミュニケーションを行いながら成熟を目指す男性的な美学だ。重要なのは、非人格的なシステムに、人格未満でありながら間接的な主体を認める「魂」という想像力を読み込むことで、モノによって身体や能力を拡張する「強さ」を志向しながらも、同時に人間の「弱さ」を受け入れることができるという点だ。

 男性的な美学の歴史において重要な概念であり続けているダンディズムもハードボイルドも、おおまかに言って人間が持つ不完全さ、低きに流れる悪い意味での動物性を克服するために、「強い」存在であるべく自律を要求してきた文化であったといっていい。こうした窮屈さはもちろん女性文化にも存在してきたし、いまも(特にジェンダー後進国と言われる日本では)人々を束縛し続けていることは間違いないが、それでもフェミニズムの発展とその成果によって理想の女性像は更新され続けてきたし、時代遅れの不自由がなくなっていくという未来は、それなりの説得力を持って想像することができる。ところがこうして女性文化が拡張していった一方で、男性文化は自らをうまく更新できなかった。それは男性文化が、「強さ」を目指すべきとされてきたにもかかわらず現実には「弱さ」も内包せざるを得ないという矛盾を、美学に回収することができなかったからだといっていい。

 日進月歩で発展していく「弱いAI」は、不完全な主体であるところの「弱い人間」を支援していく存在だ。むしろAIの力を借りることでこそ正確な意思決定が行えるようになるという認識の方が常識になりつつあるといっていい。工業製品にインストールされたテクノロジーとの対話によって、人の弱さを受け入れながらも、ハードボイルドな成熟を実現する可能性。それはミニ四駆が描いた可能性そのものだ。

 かつて少年たちは「いっけー!マグナム」と叫ぶことで加速するミニ四駆を夢見た。そして「少年」はやがて、ミニ四駆に話しかけるのと同じようにスマートスピーカーに話しかけ、AIの助けを得てはじめて「大人」として振る舞うだろう。その姿こそ、世紀末ボーイズトイが予見した、「少年の心を持った大人」というフレーズの、最良の意味での実現であり、「kakkoii」大人の男性なのだ。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2019年2月27日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年7月19日に公開しました。
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