2010年代以降の10年あまりは、とにもかくにも「人と人がつながること」が重んじられてきたように思えます。
 東日本大震災をきっかけに「絆」の構築が叫ばれ、地方創生のムーヴメントの中でも「コミュニティ」への注目が高まり、都市圏では「共創」を掲げるコワーキングスペースが急増。変わりゆく地球環境に対応するため、共有地である「コモンズ」の重要性も見直されています。メディア環境という観点でも、SNSの爆発的な普及を背景に、さらにコロナ禍が拍車をかけて、文字通り「常時接続」の状態に近づきつつあります。そうした「人と人とのつながり」からいっとき離れるためのものであったはずのマインドフルネスやサウナですら、コミュニケーションやビジネスのツールに回収されているようにも見えます。

 もちろん相互扶助は必要ですし、人はひとりでは生きていけません。人とつながることでしか実現しえないよろこびや快楽があり、それを完全にシャットアウトしても生きていけるという人はごく少数でしょう。しかし、それにしても「人と人のつながり」に人々の関心が向きすぎている……そんな閉塞感を抱く人は、決して少数派ではないでしょう。
 こうした現状を打開していくためのきっかけとなり得るトピックが、「庭プロジェクト」の第1回の研究会で行われた議論にはつまっていました。

「ムラ社会」称揚に傾きがちな、昨今のコモンズ論の限界

 研究会冒頭のプレゼンで、宇野は「庭プロジェクト」を「これからのコモンズを考えるプロジェクト」と表現しました。「庭」は共有地ではなく、個人の家や特定の施設の敷地内にある私有地という認識が一般的でしょう。それゆえコモンズの議論において「庭」のメタファーが持ち出されることには、少し違和感を覚えるかもしれません。
 こうした疑問を宇野にぶつけたボードメンバーが、パターン・ランゲージなどを手がかりに「創造」の実践や哲学を研究する井庭崇さんです。なぜ宇野は、「公園」や「里山」、「森」といった共有地的なイメージを喚起する言葉ではなく「庭」をキーワードにしたのでしょうか?

「SNSのプラットフォームとは、一企業によるサービス、つまり本来は私有地にすぎませんが、結果的には公共的な空間として機能してしまっています。実際にサイバースペースにおいても実空間においても、私有地のほうが高い機動力を発揮して自由に設計できる可能性が高く、世の中にインパクトを与えられる。僕がプラットフォームに対抗する場所の比喩として『庭』というキーワードを用いているのはそのためです。私有地なのだけれど、公共に開かれているものでなければプラットフォームに対抗できないのです」(宇野)

「庭」というキーワードを選んだ背景には、昨今のコモンズの議論に対する「違和感」もあるといいます。

「この種の議論を追うと、里山的な共同体がコモンズを管理して、そこが公共の場を回復する、といった流れに傾きがちだと思います。その背景にはたとえば、2009年にノーベル経済学賞を受賞したエリノア・オストロムのコモンズのガバナンスについての研究がある。これは公共的資源の持続的な利用の成功例の多くが、日本でいうところの『里山』的な自治のシステムを用いていることを紹介したものですが、これこそが安易な経済的な合理主義の産物なのではないか、と僕は疑問を感じています。持続可能性のために村落的な共同体の相互監視を是とすることでしか、プラットフォームに対抗し得る『場所』を得ることができない、という結論に建設的な未来を感じることは難しい。なので、僕は『里山』的なコモンズのあり方に対してポジティブな対案を示し、別の可能性を切り拓きたいと思っています」(宇野)

画像:photoAC

「自分も昨今のコモンズ論に、『綺麗事すぎて現実味がない』『生活離れしている』という印象を持っていました。ですから、別のアプローチをとらなければいけないという部分にはとても共感します」(井庭さん)

パターン・ランゲージ、創造社会論などを研究する井庭崇さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

 宇野と井庭さんによる昨今のコモンズ論に対する問題意識を受けて応答したのは、タンザニアの零細商人コミュニティにおけるフィールドワークなどをもとに文化人類学の研究を重ねてきた小川さやかさんです。

「タンザニアでは、プラットフォームにおける承認の世界ではないコモンズが、物理的にできあがっています。『庭プロジェクト』で目指しているプラットフォームの『外部』とは、どのような場所になるイメージなのでしょうか?」(小川さん)

「現代の情報環境を前提とした都市の実空間の公共的なものとして機能する場所になると思います。それが商業空間なのか、公共施設なのか、もっと別の場所なのかはこれから考えていきたいです。タンザニアの状況は、長い歴史の中で蓄積されてきた知恵によって結果的に帰着した形式なのだと思います。しかし、それコピー&ペーストすればいいといった簡単な話であるはずもなく、そうした承認の交換のゲームの『外部』で培われている知恵を、部分的にでも都市の個人たちのコミュニケーションの中ににいかにして導入するか、という議論をしていきたいと思っています」(宇野)

写真提供:小川さやかさん

「ヒト」偏重がもたらした、「共創」の失敗

 事実上の「ムラ社会」賛美に接近してしまっている、昨今のコモンズ論。その隘路を乗り越え、プラットフォームにおける承認の交換ゲームの「外部」として文化的生成が起こる「庭」を、いかにして設計していくか。
 この問いについて考えるにあたって参照すべきなのが、2010年代から活発化した、まちづくりや「共創」の取り組みです。地方都市では「地方創生」の旗印のもとで人材交流が推し進められ、都心部でも「共創」を掲げるコワーキングスペースが多数立ち上げられました。宇野はこうした動きの中に、「庭プロジェクト」を開始するにあたって“反面教師”とすべき点を見てとります。

「こうした取り組みの問題点は、『ヒト』の次元で思考しすぎであることだと思います。例えばこの10年は、『共創』を掲げたスペースが全国のあちこちにできましたが、たいした成果があがらなかった。その理由は、そうした場所が好きそうな意識の高い若者、言ってしまえば『そこにいそうな人』しか集まらなかったからだと思うんです。これは言ってしまえば『場』の力が、爆発的に上がった検索能力に負けてしまったということだと思います。

必要なのは、たとえばブックオフの100円ワゴンのようなランダムネスだと僕は考えます。ブックオフの100円ワゴンは、選書も何もなく、ただ汚れているから、長く売れ残っているからという理由でワゴンに放り込まれる、ある種の暴力的な装置です。しかしそういう雑味が、現在の『共創』を掲げている空間に足りない。そして『ヒト』ドリブンでやってる限り、そうした雑味を戦略的に入れていくのは難しいのだと思います」(宇野)

「交流する場については今まで散々議論され、つくられてきましたが、文化的生成力が高まる場という観点の議論はまったくなかったように思えます。オフィスやラボのようなクリエイティブスペースをどうやってつくるかという議論だけでなく、少し外に開いた空間がいかにして文化的生成力を持ち得るかという議論が、もっと必要ではないでしょうか」(井庭さん)

第1回の研究会は、1927年に建築された個人邸をリノベーションし、会員制のビジネスイノベーション拠点として運営されているkudan houseで実施されました(写真提供:kudan house)

 では、事物の次元で人々を惹きつけ、文化が「生成」していく空間はいかにして設計できるのでしょうか。日本における3Dプリンティングの第一人者であり、自らもファブラボやファブスペースといったものづくりの空間を手がけてきたボードメンバーの田中浩也さんは、自身の経験も踏まえこう示唆します。

「以前、宇野さんが『批評とは、一見すると関係のない二つのものの間に、関連性を見つけて橋をかけることだ』と言っていましたが、これこそが『生成』のカギであるように思えます。『創造』もまた、関係ないものの間に関連性をつくること。一見すると自分には関係のない情報をたくさん収集できる場があれば、今回求めている『庭』的な空間につながるのではないでしょうか」(田中さん)

共同体に回帰せず、身体知を取り戻す

 ヒトではなく、物事の次元で考える。そのためのカギとなるのは、ヒトの構成要素でありながら、自分の意思ではままならない存在でもある「身体」なのかもしれません。ボードメンバーの一人、建築家の門脇耕三さんが提起した「身体」にかかわる論点は、場の議論に大いに火をつけました。

「(プレゼンでは)プラットフォームに対抗するものとして『身体』の話に触れられていましたが、身体はまさにインスタントさの対極にあるものだと思います。建築で言えば、いまはCGで描いている図面も、かつては手作業で描いていました。とはいえ、前の時代に戻りたいとは思えない。インスタントな楽さを乗り越え、身体性を取り戻すために、どのようなアプローチがありえるでしょうか?」(門脇さん)

建築家の門脇耕三さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

「身体を用いることによってしか得られない快楽、なしえない表現があると思います。そういったものを貪欲に追求する以外に、方法はないのではないでしょうか。たとえば僕がランニングをしているのは、ダイエットや筋トレのためではなく、単純に気持ちがいいからです。『正しいから我慢してアナログなものに回帰せよ』と言うのではなく、快楽や面白さを再発見していくことが必要だと思います」(宇野)

 身体を用いることでしかなしえないこと。それは快楽や表現のみならず、伝達・参照していくべき「知」についても言えるでしょう。とりわけコロナ禍以降、多くのコミュニケーションが身体性の希薄なオンラインへと移行したいま、言語化しがたい「身体知」が多く失われていることはたしかです。
 しかし、だからといって、あらゆるコミュニケーションをすべてフェイス・トゥ・フェイスに戻すわけにもいきません。現代社会の状況にあわせて、かつて身体知が果たしていた機能をいかに継承していくか。こうした論点を提示するのは、民藝の研究を重ねてきた哲学者・鞍田崇さんです。

「身体的なコミュニケーションが、現代においても有効であることは間違いないでしょう。しかし、それをかつてと同じやり方で行うのではなく、現代版にアップデートする必要があると思います。以前、京都の桶屋・中川木工芸の3代目の中川周士さんが、『職人がつくる木桶の量は昔に比べて激減している』と言っていました。そこで現代の職人たちは、不足する経験を、言語にしたり、他のユーザーとの接点を探ったりすることで埋めようとしているのです」(鞍田崇さん)

哲学者の鞍田崇さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

「職人の技術が継承されていたのは、ギルドのような息苦しい共同体があったからでもあります。以前とある論考で、そうしたギルド的共同体がなくなったいま、技術を言語化してソーシャルに開く必要があると書きましたが、それを言語ではなく場で考えていくというのが『庭プロジェクト』なのだと思います」(井庭さん)

言語的アプローチと非言語的アプローチ

 とはいえ、「場や環境の問題として考えたい」ということは、身体という観点を無視することを意味しません。重要なのは、場と身体、そしてコミュニケーションといった多角的な観点から総合的に議論することであり、その際に大きな示唆を与えてくれると宇野が期待を寄せるのが、就労支援施設「ムジナの庭」を運営する鞍田愛希子さんです。

「『ムジナの庭』では『こころ』と『からだ』の両面からのメンタルケアを大切にしています。メンタルケアの主流であるカウンセリングは言語による脳のコミュニケーションであり、障害が軽度の人であれば十分に効果を発揮しますが、重度の障害のある人には身体へのアプローチも必要だと考えています。

SNSなどのプラットフォームにおけるコミュニケーションが脳によるものが主流なのだとしたら、そこに足りないのは、たとえば人間が感知できない周波数の振動のようなものでしょう。窓がたくさんある家で、不意に鳥の声などが聞こえると、訪れた人に何らかの生成が起こっているように思えます。『人は皮膚から癒される』という議論もありますが、触られたり、耳で振動をキャッチしたりすることが大切なのではないでしょうか。それから嗅覚は人間の五感の中で唯一、瞬時に感情や情動を変えられる感覚と言われています。『庭プロジェクト』においては、そういったものもヒントになるのではないかと思いました」(鞍田愛希子さん)

東京都小金井市の福祉施設「ムジナの庭」を主宰する鞍田愛希子さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

こうした鞍田愛希子さんのアプローチに対して、井庭さんは「創造」という観点から強い関心を寄せました。

「創造には瞬発的なひらめきが必要ですが、それだけでは不十分で、実は地道な長い作業が必要です。生成力が向かう先としての、持続的な何かが必要だと思うんです。そう考えたときに、持続性がある『庭の手入れ』はとても興味深い。身体的な感覚と『ずっと欲しかった』という欲望、庭の作業と不意に聞こえる鳥の声、瞬発的なものと持続的なものがうまく絡み合うと、『庭プロジェクト』は成功するのではないでしょうか」(井庭さん)

 片方にオープンダイアローグや当事者研究といった言語的アプローチがあり、もう片方に庭の植物の手入れや手仕事といった非言語的アプローチがある。両者が有機的に噛み合うようにアプローチしている点が「ムジナの庭」の特徴であり、その往復運動から生まれてくるものは、「庭プロジェクト」においても大きな示唆を与えてくれるはずです。

「プラットフォームの言語的なアプローチと、実空間の非言語的なアプローチをどのように組み合わせると効果的なのか、という仮説をつくっていきたい。たとえばムジナの庭で数十人のコミュニティでやっていることをバラバラの個人に応用したとき、どのようなズレが生まれてくるのか。そういった仮説を話していける場にできたらいいと思っています」(宇野)

東京都小金井市にある、就労継続支援B型事業所「ムジナの庭」。そこでの実践や背景にある思想については、雑誌『モノノメ #2』(PLANETS, 2022)内の「[ルポルタージュ]「ムジナの庭」では何が起きているのか」に詳しい(写真:石堂美花)

「受け止める」がもたらす、マゾヒスティックな快楽

 言語と非言語の両面から、ヒトではなく事物と向き合う空間。そこで文化の「生成」が起こる時、ヒト同士のインスタントなコミュニケーションがもたらす作用とは別の作用が生まれているはずです。

「プラットフォームが与えているのは、サディスティックな快楽、自分が何かをする、自己実現の快楽です。一方、『庭プロジェクト』を通して追求していくべきは、マゾヒスティックな快楽だと思っています。たとえば、分厚い本を1冊読むことには苦痛が伴いますが、その先に達成感や新たな地平が待っていますよね。そうした『受け止める』快楽をもう一度思い出すというのは、『庭プロジェクト』の基本モチーフになるでしょう。

人間は怠惰な生き物で、本来は受け止める快楽に弱い生き物のはずなのに、いまは情報技術で物事を『発信する』力を手にしてハイになっている。プラットフォームが与える『発信する主体』から、いかにして人間を解放するか。現代的な形で、『受け止める』快楽をいかにして再起動するか。内面の問題ではなく、環境の問題として考えていきたいんです」(宇野)

「『創造』もマゾヒスティックな快楽に重なると思います。みんな『創造』をつくり手の主体的な行為だと思っていますが、出来事としての創造とは、出来上がってくる作品に寄り添うことであり、植物を育てる感覚に近いんです。『つくる』という行為は山登りのように、めんどくささが伴いますが、できたときの達成感があるからやめられない。しかし現代社会では、そうした持続的な快楽が、瞬発的な快楽に起き替わっているように思えます」(井庭さん)

「ボトムアップなカルチャーの生成力が高まるのは、貪欲なユーザーたちが、まだない商品を欲した時です。初期のkawaiiカルチャーやコミケなどは良い例でしょう。『ほしい商品がないから、自分でつくるしかない』という境地に追い詰められて初めて、文化的な生成力が発動するんです。貪欲で(最初は)受動的なユーザーが、ある種の飢餓感にさいなまれ、コミュニティの中で創作に向かう。この回路を、どうやって実空間の側で整備していけるのかを議論していきたいです」(宇野)

評論家 / PLANETS編集長の宇野常寛(「庭プロジェクト」発起人)

 現代社会の趨勢は、「ヒトがヒトに向けて発信すること」に偏重しているように思えます。インスタントな発信とコミュニケーションを可能にした、SNSはその最たる例でしょう。とはいえ、たとえば昨今のTwitterをめぐる騒動を見ていると明らかなように、いま従来のSNSのあり方には限界が見えてきています。ヒトではなく事物と向き合い、発信ではなく受信すること──「庭プロジェクト」が探究するこの道筋は、現代社会の閉塞感に対して、いかなる突破口を与えてくれるのでしょうか。

[了]

この記事は小池真幸が構成・編集をつとめ、2023年7月6日に公開しました。Photos by 高橋団。