こんにちは。橘宏樹です。連載もどうにかこうにか最終章にたどり着きました。滞英日記同様、時事的な報告にとどまらず、NYの「強さ」の本質を多角的に考察してきた本連載ですが、これまでの連載をじっくりと振り返りながら、今号と次号で締めくくっていきたいと思います。

 NYに赴任したのは2020年末。思い返せば、コロナ禍のまっただ中。タイムズスクエアで燦々と照り輝く巨大広告たちを見上げるのは、文字通り、私だけ。そんな夜もありました。ワクチンはまだ影も形もなく、セントラルパークに敷き詰められる犠牲者の遺体…NYは未曾有の危機に瀕していました。しかし、ほどなく、NYの経済社会は「反転攻勢」に転じ、みるみる復活していきました。僕がそこで目の当たりにしたのは、「経済を守ることが命を守る」というリアリズムでした。公衆衛生至上主義に偏らず、生活の糧も同時に獲りにいく意思決定。仕事を失えば家賃も医療も連鎖的に失う貧しい人が大勢住む街だからこそ、感染者が多少出ようとも経済活動を再起動する判断が支持される。怯えたり萎縮したりしない。切り替えの速さと割り切り。――なんとも「力強い」。それが私の見たNYの第一印象でした。

 そこから、私の連載のテーマは、「NYの力強さの秘密を解き明かしたい」と決まりました。パンデミックであそこまで消沈していたにもかかわらず、なぜ怯えを敢然と振り切れるのか。そして、なぜこんなに速く日常を取り戻せたのか。NYという街の根底にある「気質」や「作法」に理由があるならば、それを僕なりに見定めたい。そして、NYから日本が学べること、日本とNYが共栄するための方法を持ち帰りたいと考えました。

 今回は前段の、NYをNYたらしめている本質に関する個人的な洞察の成果を、連載を振り返りながらまとめたいと思います。次回最終回では、後段の日本がNYから学べること、日本とNYの共栄方法について述べることとします。

仮説の検証

 本連載の開始は当地に一年ほど馴染んだ2022年初からになりました。第1回『NYはなぜ力強いのか』で私は、NYの「力強さ」について、以下のような仮説を述べていました。

「現時点でおぼろげに抱いている仮説としては、この『力強さ』は、なんというか、NYでは、問題を解決することに対する苛烈なほどの執着心が、個人や組織や社会に徹底的に沁みついているような印象があることと、関係がある気がしています。」

「政治闘争にせよ、企業経営にせよ、個人のキャリアにせよ、なんというか、何か問題が生じた際には、誰がいつどうやってそれを解決するのだ、と一斉に詰問(自問自答を含む)が始まる、というような雰囲気をこの都市は持っているような気がします。さらには、実際は、仮に自分が優れた問題解決能力を持ち合わせていなくても、我こそが問題を解決できると、とりあえず主張し合う構え、互いに問題解決能力を要求し合う構え、をとらなければ、結果として誰も生き残ることはできない、という暗黙の合意があるように感じています。ある種の『厳しさ』が互いに向き合い、組み合わさることによって、全体合理性が確保される構造が、社会全体の生命力の根幹にあるような印象を抱いています。」

「総じて、厳しさこそが、優しさを呼び込む。優しさは、厳しさの果実。というように、厳しさと優しさが入れ子状に相互補完関係にあること。根拠なき楽観はなく、敗北による悲観もない日常。それが、NYという都市自体の活力を下支えしている、ということなのかな、と、1年間過ごしたところで、ぼやっと感じているのが僕の現在地です。」

 仮説というにはなんとも茫漠とした、肌感覚に過ぎない言葉を羅列していますが、とにかく、NYでは、何もかもが、異常に、苛烈だという感覚が確かにありました。なので、自然と、「なにゆえに全てが苛烈なのか」という点に問いが絞られ始めていきました。

 足かけ4年間の連載を振り返りつつ、あらためてこの肌感覚的仮説を言語化し直すと、当時僕が見出しかかっていたNY的気質や作法の根幹、苛烈さの淵源は、次の二つの「主義」に整理できそうです。

ミッドタウンエリアを南から北に臨んだ空撮。今号の写真はいずれもヘリコプターから撮りました。


1 至速主義とは

 まずもってNYはスピードへの執着が苛烈です。問題が起きたとき、すぐに答えを出せない人は即座に主導権を失います。解決策の質だけでなく、提示の速さそのものが評価される都市文化。いわば至速主義とでも呼ぶべき姿勢にNYの力強さの中核や個性を見出すことができると思います。PDCAを回すことは当然として、その回転速度が常に問われます。やらせてみてダメなら雇われCEOも取引先もすぐカット。成功も失敗も滞留させず、連続的な挑戦と修正がNY社会全体の問題解決力を押し上げる。拙著「現役官僚の滞英日記」でも英国エリートの流儀の一つとして「トライ・アンド・エラー」を挙げましたが、NYは輪をかけてせっかちで、より計画性と透明性が重視され、回転が速い印象です。競争は苛烈ですが、裏を返せば、次の候補も再チャレンジの機会もすぐに見つかる選択肢の豊富な社会とも言えるでしょう。

 連載各回でも、この至速主義が垣間見える具体的な場面を描いています。例えば、第2回『分断に対抗する選挙制度改革:勝者がルールを決めるのか。ルールが勝者を決めるのか』では、NY政界では、選挙で競うのみならず、選挙というゲームのルールそのものに競い合って手を突っ込む様子を描きました。「先んずれば人を制す」という発想が、投票権の範囲や制度設計、さらには訴訟にまで及び、「川上」を遡る速度を競うのがNYの政治闘争の本質でした。日本とは大分異なります。

 また、第3回『あなたに電動キックボードの声が聞こえるか』では、NYの電動キックボードは、最初から完成形で導入されたのではなく、「まず走らせ、問題があれば調整する」という姿勢で広がったことを書きました。事故や歩行者との摩擦があっても、速度制限や駐輪エリアの設定などを逐次加えることで制度化していったのです。都市を実験場とみなし、暫定ルールから固めていく――。この柔軟さにNYの試行錯誤文化が端的に見て取れます。

 第8回『NYのイノベーションシーンについて(前編)』では、世界的製薬会社ジョンソン・エンド・ジョンソンのインキュベーション拠点JLABSでは、意思決定ラインの短さと、ベンチャー企業が一直線に成長曲線を駆け上れるように「帝国的ネットワーク」が整備されている様子を描写しました。サポートを決定した後は必要な資源がイノベーターに即時に流れ込んでいく構造が、研究・事業の具現化スピードを最大化させ、成功すれば本体の資源を投入し、失敗すれば即座に別の候補に切り替える――成功確率と回転数を同時に追求していました。

 第12回『老骨に自ら入れる鞭の驚くべき強さ~バイデン大統領一般教書演説~』では、壇上に立った大統領の一挙手一投足が報道各社に実況され、SNSでも切り抜き動画が拡散されるなど、喝采と嘲笑の量が瞬時に計測される様をお伝えしました。「見せる政治」は、速度と透明性の掛け算です。議場の政治家達もまた「舞台」に立たされており、時には表情だけで出身選挙区民に評価されます。米国政治では、こうした「リアルタイムの審査」が主戦場になっています。

手前の橋はプラスキー・スカイウェイ (Pulaski Skyway)。ニュージャージー州のニューアーク、カーニー、ジャージーシティを結ぶ全長約5.6kmの高架橋で、ハッケンサック川とパサイック川を跨いでいます。奥の煙突が5本立っている古い施設はカーニー発電所 (Kearny Generating Station)。公共サービス・電気・ガス会社(PSEG)が所有・運営しており、現在は主に電力需要がピークに達した際に稼働する「ピーカープラント」として利用されています。これらの工業的な景観はドラマ『ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア』のオープニングなど、映画やテレビ番組のロケ地としてもよく使われています。


2  選抜主義とは

 NYに苛烈さをもたらしていると思われたもうひとつの要因は、選抜主義です。NYでは、所得の格差に輪をかけて、人の態度の違い、待遇の落差も苛烈です。文化・市場・コミュニティすべてにおいて、厳しい選抜を経た者だけが温かく受け入れられるという原理が通底しています。この原理は、おそらく、「競争が行われているということは「フェア」であるということ」であり、「競争の勝者に莫大な報酬が与えられることは『フェア』なことだ」という価値観に裏打ちされています。もっとも、NYの競争が本当に「フェア」と呼べるものであるのかどうかは、個人的には疑問は残ります。確かに、多様な価値観を積極的に受け入れて、挑戦者に広く機会を与える寛容さがNYにはある、と言えば、あります。しかし、同時に、人種や所得や紹介の有無など「事前審査」もまた厳しく機能していて、競争に参加できる扉からして実際は少なかったり狭かったりします。実力があっても、NYを何年うろついていても、扉の前にすらたどり着けない者も大勢居ます。そして、競争の敗者、基準に達しないものは容赦なく退けられてしまいます。顔馴染みには親切で、部外者に厳しい高級マンションの門番達、美麗な摩天楼と足下の道路の汚泥濁水は、この「選抜主義」的価値観をよく象徴しています。

 そして、活躍するステージが上がれば上がったで、また次の拒絶が立ちはだかります。そこでまた新たな挑戦と対峙し、勝利したならば、更なる報酬が与えられます。寛容と不寛容の入れ子状の同居。緊張と緩和の繰り返し。人間は振り回されます。実に調教的でもあります。厳しさと甘さの両極端が交互に織り込まれる生活をエキサイティングだと前向きに捉える人々の頭のなかではきっと、ある種の脳内麻薬がドバドバ溢れかえってしまっていて、その結果、NY以外では生きていけない「刺激」の虜になってしまっているのではないか、とすら思われます。

 連載でも時折「選抜主義」が現れている具体的な場面に触れています。例えば、第4~6回『あなたの持ちものを欲しがる人に売ることをビジネスとは言わない(前編中編後編)』では、ユダヤ・コミュニティの歴史と現在に通底する“四つのこだわり”――土地の保有、教育への徹底投資、クローズド・ラビ・ネットワーク、そして挑戦を恐れない気風――を描出しました。NYのユダヤ人達は、時間をかけて資本と知識を累積させながら、集団として競争力を築いてきました。その行動原理は、同族には寛容に機会を与え、部外者には明確な参入条件を課すという、寛容と不寛容の線引きの上に成り立っています。中編では、この線引きが、外部者にとっては参入障壁である一方、信頼を得た者には強力な支援(プロデュース)を与える様子を具体的に描きつつ、NY経済の一角を支えている様子を述べました。

 また、第7回『「分断」から「瓦解」へ~中間選挙を読み解く3つの視座~』では、中間選挙をめぐる攻防において、選挙否定派が最終的には敗北を受け入れたように見えましたが、投票制度の施行細則等を巡る闘争により、民主主義それ自体が崩れ落ちかねない危機にありました。そこには、政敵を徹底的に糾弾する不寛容さと、あくまでアメリカの一体性を維持しようと相手を制度の内側に留めようとする寛容さとの、せめぎあいが見て取れたように思います。

 第10回『「パレード」から読み解くNY』では、「異文化に積極的に触れられる場」を半ば公的に用意するNYのパレードを、寛容を象徴するNY流の制度として紹介しました。パレードは単なる観光イベントではなく、民族や宗教、性的指向や価値観の異なる人々が、衣装や音楽、料理などを通じ、互いの存在を五感で確かめ合う祝祭です。日常にある分断をひととき解きほぐす儀式でもあります。と同時に、多くのパレードは、歴史的には抗議デモの側面も強く、差別の蔓延る不寛容な社会に対して憤懣の声を上げる表現方法のひとつとして機能してきました。

 第13回『21世紀のジャポニズム 陰影「礼賛」から陰影「退散」へ』/第14回『「分断」を乗り越える個人のチカラ』では、増田セバスチャンさんが、原宿カルチャーを基盤に、心の闇を吹き飛ばす「ハレ」の文化を発信し、社会の片隅に置かれた人々を肯定する新しい寛容さのスタイルを提示している様子を伝えました。また、Korin川野作織さんが紡いだ料理人ネットワークは、多様な食文化の交流の場を提供しつつも、一流の料理人にのみ門戸を開くという不寛容の基準を設けています。両者に共通するのは、寛容と不寛容の功罪を見極め、排他にも甘やかしにも偏らない、フィルター調整におけるバランス感覚を、創造と行動の原動力としている点です。

 第15回『日本の命運を握る「三種類の日本人」「三段構えの社交戦術」「三次元の国家間関係」について』では、NYに暮らす日本人を、短期の出張組・数年単位の駐在組・現地に根を下ろした永住組という三種類に分け、それぞれに長所と短所を持っていることを描きました。本来であれば、これら三種類の日本人は互いの経験や資源を補完し合うことで、日系人社会全体の競争力を高められるはずです。しかし現実には、立場や利害の違いが不寛容を生み、相互の理解を阻み、結果としてネットワークの力を削いでいます。NYという多様で競争の激しい都市において、この分断は大きな損失です。僕は、日本経済の国際競争力向上のためには、それぞれが持つ強み――出張組の意思決定力、駐在組の組織的資源、永住組の現地根付きの知見と人脈――を生かし合うべきだと思います。不寛容の線を引くのではなく、境界を跨いで協調することでこそ、新たな機会や発想が生まれます。日系人社会の生存戦略は、この相互寛容の姿勢を前提に再構築されるべきだと考えます。

 第16回『連続と不連続の間』では、NYの社交場の流儀について述べました。NYでは、出会いの場は無数にありますが、どこでも誰とでも簡単に深い関係になれるわけではありません。真に機能する社交場には、単なる集まりやイベント以上の質が求められます。そこでは、場の空気を読む力や、相手の背景・目的を踏まえた振る舞い方といった「作法」が、暗黙の条件として存在します。

 また、こうした会合は、一見、寛容風で開放的なものに見えても、次の会合に呼んでもらえるかが常に試される不寛容のラインが引かれています。準備不足や自己都合丸出しの参加者は歓迎されず、相手の時間や場の目的を尊重する姿勢がない者は、自然に排除されていきます。逆に、そのルールを理解し、相手に敬意を払う、真に魅力的な人間性のある者には、国籍や職業に関わらず(時に実力が伴っていなくとも、)優しく門戸が開かれます。

 このように、僕が赴任当初にNYから感じていた「2つの主義(プリンシプル)」が、政治、経済、イノベーション、文化等の各業界で、よりよい未来をたぐり寄せていく力強い原動力として機能している、という仮説は、駐在期間中の観察を通じて、ある程度裏付けを得られたように思います。もちろん、そのような見方をして暮らしていたから、そのような様子が目に入ってきたのだろう、というご指摘もあろうかと思います。ごもっともです。その点は否めません。僕の観察と解釈は、どっちが「にわとり」でどっちが「たまご」なのか、はっきり区分することは難しいです。

NY・マンハッタンのミッドタウン、特にセントラルパークの南側に位置する「ビリオネアズ・ロウ(億万長者通り)」と呼ばれるエリア。中央にそびえ立つ、非常に細長い鉛筆のような形をした超高層ビルは、スタインウェイ・タワー (111 West 57th Street)です。世界で最も細い超高層ビルとして知られています。周りには、セントラル・パーク・タワー、432 パーク・アベニューが並び立ちます。

仮説外の発見

 一方で、至速主義と選抜主義以外にも、NYの強さの秘密を、もうひとつ発見できました。イギリス留学時代と異なり、現地で仕事をして、NY社会にある程度「深入り」したからこそ見えてきた要素だろうと思います。

 それは、いわば「喝采中毒」とも言うべき狂気の存在です。先ほど、「とにかく、NYでは、何もかもが、なぜか、異常に、苛烈だという感覚があり、何ゆえに全てが苛烈なのかを見極めたかった」と述べました。この問いへの、端的な答えは、NYという都市を動かしている情動原理は、詰まるところ、喝采への渇望である、というものです。

3 喝采中毒とは

 富者も貧者も共にそれぞれの理由で、喝采を求めている。渇望は止まるところを知らず、もはや中毒の域に達している。だから、全てがただひたすら苛烈になる一方なのだ。これが、マンハッタンに3年間暮らして、セレブリティからホームレスまでとお付き合いを重ねた末に見いだした結論です。もちろん、これだけでNYのすべてを説明できるとは思いません。しかし、少なくとも僕が目にしたマンハッタンの「苛烈さ」を説明する補助線としては、かなり有効なのではないかと思います。

 喝采中毒は、富者と貧者の最大の共通点であり、分断を橋渡す最大の共通言語になっていると思います。「お前も喝采が欲しいか。」「はい、欲しいです。」それは承認欲求の一種だとは思うのですが、承認欲求と呼んで済ませるには、ちょっと生やさし過ぎるように思える苛烈さや不健康さが感じられます。そして、その苛烈さと不健康さにこそNYの異常な強さの秘密があると思います。普通、承認欲求には、ある程度満たされれば落ち着く面があると思います。お金があり仕事があり友人がいる。そうして概ね満たされた人達、足るを知る人達、またはNYに疲れた人達は、おそらく、郊外でひっそり暮らすことを選びます。なので僕は、この苛烈さと不健康さを表現するために、主義ではなく、中毒という単語をあてたいと思います。

 ちなみに、喝采中毒者が求めて止まないのは、おそらくは、恍惚です。強い自己愛を持て余しているのか、自己愛が得られないのか、よくわかりませんが、とにかく、なんとかして、常に自分に自惚れていたいのです。自惚れ続けていられる理由に常に飢えており、探し続けているのです。みな、喝采中毒です。NYにやってくると喝采中毒になるのか、喝采中毒者がNYに集まるのか。おそらくその両方なのでしょう。

 NYはお金や美しさ、快適さ、あるいは積み上げてきた信頼といったものを、ただ持っているだけでは済ませない不思議な力が働いている街です。それらをわざわざ人前にさらけ出し、無理にでも拍手喝采へと変えさせようとする「妙な圧力」が働いているように感じられます。それは、もはや面的なプレッシャーとなって、マンハッタン全体に覆い被さっているかのようにすら思えます。

 この「妙な圧力」を生み出している主体は、おそらく、一義的には、喝采以外のすべての欲望を満たしたセレブや超富裕層達です。彼ら自身にとって、もはや金銭は目的ではなく、自分が認めている人々、褒められたい人々、多くの場合、この街のインナーサークルから贈られる喝采こそが「最後の欲望」なのです。まさに、トランプ大統領がノーベル賞を欲しがるように。彼らがいつも新しい才能や「本物」を探しているのは、価値ある人やモノを世に紹介し、みんなで称賛するきっかけを作る人こそが、最もスマートに自分への注目を集められると知っているからです。そして、喝采中毒者の富や影響力は、多くの場合は確信犯的に、大勢の人々を振り回すのです。

 一方で、富なき挑戦者達は、喝采を得ることで富を得るという戦略を胸に抱いてNYにやってきます。ビジネスにせよアートにせよ、NYで自分の長所が一度「喝采」に変換されれば、金も美も信頼も雪だるま式に膨れ上がり、さらなる成功を呼び込める、という成功パターンのイメージを強く持っています。内輪からの喝采を最後の目的とする富者。世界からの喝采を元手に全てを手に入れようとする貧者。両者の利害が補完し合うように完璧に一致しています。この一致こそが、「健康な人々」には息苦しいとすら感じられる、狂気じみた「妙な圧力」を生む真因だと思われます。

 一方で、この中毒は常に深い闇と隣り合わせです。ひとたび人生を「劇的に」展開させられてしまった者は、もはやその刺激なしでは生きられません。喝采が途絶えた途端、自己肯定を支えられず、耐えがたい不安や虚無感が襲いかかってきます。だから、NYにはカウンセラーや薬物に依存する人々も多くなるのでしょう。(NYを舞台にしたそういうドラマって本当に多いですよね。)それに、一代で成功した者ならば尚更、若い才能ある挑戦者に出会えば、かつての自分を重ね合わせてしまって、ついつい入れ込んで支援してしまうのもまた人情というものでしょう。自分もかつて誰それに引き上げてもらった。今度は自分が誰かを引き上げる番だ。「恩送り」の感情は成功者の虚しさも埋めてくれることでしょう。

 いずれにせよ、喝采を巡る競争からは降りられない。止まれない。それを本人達もわかっているからこそ、喝采を得ること、与えることに、猛烈に駆り立てられ、ただその速度ばかりが増していくのです。喝采によって実利と活路と束の間の精神安定を生み出し続ける、この煌びやかで残酷な喝采搾取システム。止まれない回転木馬。これこそが、NYという街の光影の本質なのではないでしょうか。

 そう考えると、あらためて、ミュージカルやアート、ファッション、音楽といった、ショービジネスがこの街で繁栄していることは必然であるようにも思えてきます。貧しきダンサーとパトロン(パトロネーゼ)の間の悲喜劇がテーマになる作品だって数えきれません。つくづく、タイムズスクエアの、あの、足下の汚泥もおざなりなまま、禍々しいばかりに煌々と輝く広告群こそは、「喝采中毒」を極めて端的に表象しているように思えます。理性や品や善意、時に愛すら吹き飛ばしてしまう圧倒的なエネルギーに満ちています。しかし、そこに、自然で健康的な瑞々しさは全然感じられないのです。だからこそ、この中毒への反動として、SDGsやオーガニックといった自然派回帰への熱狂もまたこの街で増幅されてくるのかもしれませんね。(それも喝采中毒システムの力を借りて。皮肉なことです。)

 ちなみに、こうした狂気的な喝采中毒の雰囲気を、10年前に勉強していた当時のロンドン界隈から僕は、全然、感じませんでした。NY以上に排他的な社会なので、僕が喝采中毒者達の巣窟にたどり着けなかっただけということかもしれませんし、または、英国エリートの方が、NYの富裕層よりも、中毒や虚無といったものとの付き合いが数百年長い分、収まりがついているということなのかもしれません。

ご存知、自由の女神。ニューヨーカーは本当に自由なのでしょうか…。

 振り返れば、実は、連載でも、何度か喝采中毒の「症状」について断片的に言及していたことに気がつきます。

 第11回『NYのイノベーションシーンについて(後編#1)』では、ファッションショーやパーティーの空気を中心に「ハレの場」が日常化すらしている印象を書きました。非日常的な服装で街を歩く人がいても珍しくないし、着ていく場所があるのです。「個性が溢れる場所では、価値なき個性は埋もれ、価値ある個性はますます輝く」と書きましたが、今思えば、個性や才能が「持っているだけ」では足りず、人前での注目や称賛に換えよう、という圧力を感じ取っていたのかもしれません。

 第13回『21世紀のジャポニズム 陰影「礼賛」から陰影「退散」へ(後編#2)』では、称賛がその場の興奮に止まらず、挑戦者を次のステージへ連れて行く場面に触れています。The Pierreでのファッションショーに「多数のセレブが来場」「大好評」と受け止められ、Forbesなどの媒体で取り上げられることで「上のステージ」へ進んでいく。喝采が評価や信用をもたらし、次の人脈や機会を連れてくる瞬間を描いています。

 第16回『連続と不連続の間』は、今思えば、喝采中毒のもう一段深いところ、つまり喝采や紹介の背後にある「関係の圧力」を書いた回だったのかもしれません。社交の場で積み上がっていく「貸し」の感覚を、社会関係資本における債権として整理しました。「どれくらいの人に、どれだけ頼めるか」が力になる、裏を返せば、頼まれることを拒めない場合がある、富裕層の厚意が「空恐ろしき慈悲」として作用し得る、と書きました。喝采や紹介は、挑戦者にとっては救いになる一方で、関係が一度「貸し借り」の形を帯びると、債権者側がカードを切れる立場に立ちます。富者が貧者を振り回す圧力が覆い被さってくる感覚は、この回の感覚と地続きです。

 なぜNYはこんなにも異常な喝采中毒が蔓延しているのか。もしかしたら、中毒者以外は、喝采以外の何かを欲する富者達は、NY以外のどこか(フロリダ?)に結集して、その別の何かを搾取するシステムを構築しているかもしれません。少なくとも言えるのは、この喝采中毒を蔓延らせているのは、やはり、貧富の格差だろうということです。上から下に吹き下ろす風の圧力は、高低差が大きければ大きいほど、強く、挑戦者を振り回す力も増します。摩天楼の頂上の住人が、チェスを楽しむ手を止めて電話を一本かければ、浮浪者すれすれの人々の命運が猛烈なスピードで決められていく―――。圧倒的富者の、喝采への止まぬ渇望が、巨大なレバレッジとなって、やはり喝采を求める貧者の運命を、たやすく左右しているのです。

3つのプリンシプル間の関係

 至速主義、選抜主義、喝采中毒はもちろん深い相互関係にあります。喝采を得るチャンスは絶対に逃さない。それが至速主義の目的です。選抜主義は、自分に次なる喝采をもたらしてくれる者達が、やはり喝采を求めて、自動的に這い上がってくるシステムのルールです。つまり、至速主義は喝采を逃さないための時間感覚であり、選抜主義は喝采に値する者を選び出すための社会装置であり、喝采中毒はその二つを駆動し続ける情動のエンジンなのです。3者はループしながら、連環を強化し続けていきます。

 何のことはない、喝采中毒者達の止み得ぬ渇望が相乗的に増幅されて、世界に向かって咲き散らかしている、それがNYなのです。僕の目に、NYの「強さ」として映ったものの実態は、健康や若さや正義感といった人間的美徳を全て喝采に捧げる、喝采中毒者達の発狂だった―――もちろん極論ではありますが、そう捉えた方が、あの街の放つエネルギーの苛烈さや不健康さや虚しさをよく説明してくれるように思えてしまいます。

 そして、僕達は、このNYの狂気を、単に彼岸の異常な街の話として拒絶しておけばよいというわけでもないんだろうと思います。今日の日本が失っているもの、何らかの形で取り戻さなくてはならないものの一部もまた、この狂気のなかに見出せるのではないでしょうか。

 さて、では、僕は、この喝采中毒の街NYから日本に何を持ち帰ったのか。どこに日本とNYの共栄のポイントを見出すか。次回で述べて連載を締めくくりたいと思います。

この記事は、PLANETSのメルマガで2026年6月11日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2025年9月11日に公開しました。

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