もう何年も前のことになるのだけど、ふと思い立って鎌倉に出かけたことがある。当時ハマっていたテレビドラマ(『最後から二番目の恋』)の舞台が鎌倉で、毎週放送を楽しみにしているうちに自分も久しぶりに足を運んでみたくなったのだ。
そして何を考えたのか僕は何の前触れもなく、本当にただなんとなく自分のFacebookとTwitterで今度の週末に僕と一緒に鎌倉であのドラマのロケ地巡りをしないかと呼びかけた。特定の誰かに対してではなくて、本当にこの投稿を見て、週末に鎌倉に来れる世界中のすべての人に語りかけたのだ。いまとなってはちょっと難しいのかもしれないけれど、当時のインターネットにはまだそういうことを思いつきで試してみてもいいんじゃないかと思えるゆるさ、のようなものがあった。
投稿するとまず僕の事務所に(特にアルバイトとか、そういうのでもなくただなんとなく)出入りしていた学生の男の子が手を上げた。僕の会社員時代の同僚が参加を表明して、僕がアドバイザーみたいなことをやっていた制作会社のような代理店のような企業の経営者の女性と、当時僕と仕事をしていた映像制作会社のディレクターも来たいと言ってくれた。
少し経って、最近はあまり行っていなかった近所の喫茶店の看板娘(と、いっても僕と同い年なのだけど)が呼びかけを見たらしくて、なぜか携帯電話のショートメッセージで自分も行っていいかと送って来ていたのに気づいた。これはなかなかにぎやかになってきたと思っていたら、普段は新潟にいる知人(同じNPOのメンバー)の男性が東京に来ているので合流したいと連絡をくれた。そして当日にはなんと待ち合わせの鎌倉駅前でTwitterを読んだという主婦の人がやってきて、途中からはその少し前に僕が教えていた大学の卒業生の女の子が彼氏を連れてやって来た。あまり話したことのない学生だったのでびっくりしたものだった。
気がついたらそれは総勢10名の大所帯で、そして僕以外のメンバーは僕以外の全員と初対面だという謎の集団になっていた。年齢も性別も、仕事も住んでいるところもばらばらの、いま振り返ってもよくわからない集団だったと思う。
でも、それが楽しかった。そこに集まった人たちはみんな、このよくわからなさを、逆に楽しんでいたのだと思う。集まった僕たちは、まずドラマのロケ地になった場所を鎌倉駅から近い順に訪ねて回った。主人公が勤める市役所を訪ねると、職員の人がロケに使っていた一角まで案内してくれた。江ノ電に乗って、彼らが暮らす(という設定の)古民家をさがして、昼食は主人公の一家が営むカフェのモデルになったお店で食べた。けれど、午後になって主人公たちがしたように、由比ヶ浜で桜貝を集めたりしているうちに、ロケ地巡りのことはすっかり忘れて散策を楽しんでいた。たぶん、滞在していた半日のあいだのほとんど、僕たちは本来の目的を忘れてただぶらぶらとしていた。たぶん、ひたすらお喋りしながら歩いていたのだと思うのだけど、このメンバーが集ったのは後にも先にもこの1回で、具体的に何を話したのかもよく覚えていない。でもその無目的な時間が、妙に楽しかったことだけはしっかりと覚えている。
それは言ってみれば中くらいの距離と、少し斜めからの進入角度の気持ちよさだったと思う。鎌倉という中距離。インターネットで知り合った人と、少しだけ思い切って出かけるという中距離。前日にふと思いついて、たまたま集まった面子で出かける、くらいの気持ちの生む中距離と、少し斜めに傾いた角度がとても気持ちよかったのだと思う。
えいやっと腕をまくって、遠い遠いところに旅に出てロマンチックな外部に出会うのではなくて、日々の生活の内側から半歩踏み出して、あるいはちょっとずれたところに手を伸ばしてみる。この距離感と進入角度が、とても気持ち良かったのだと思う。
▲江ノ電の極楽寺駅のホームにて。写真を撮影したのは同行したテレビマンのN氏。その後、僕が少し前に教えていた学生のカップルが合流した。
そして、僕たちは今日この日からあたらしいウェブマガジンをはじめる。そう、このサイトのことだ。僕はこのウェブマガジンをはじめるときに「遅いインターネット」というコンセプトを立てたのだけれど、僕の言う「遅さ」というのはこの中距離と少し傾いた角度のこと、なのだ。もっと細かく言い直すなら、こうやって距離感と侵入角度を調節できる自由を手に入れていること。そのために「遅い」ことが大事なんじゃないかと考えたのだ。あの日の僕らのように思いつきで鎌倉(のような中距離の場所)に出かけて、10人くらいのほぼ初対面の面子が(半分くらい当初の目的を忘れて)ぶらぶらと歩く。僕の考える「遅いインターネット」はそんな距離感と進入角度を共有してもらうためのものだ。
いまのインターネットは、速すぎる。速すぎるスピードで、遠くまで届きすぎる。速すぎるせいで、届きすぎるせいで僕たちはこのとても便利な道具をうまく使えなくなっている。速すぎるせいで、逆に世界を狭くしている。たくさんのあるはずの可能性を、ほとんど引き出せなくなっている。半径5メートルの閉じた人間関係のことか、あるいは等身大の自分からかけ離れた遠くの大きなことしか考えられなくなっている。僕たちは、ほんとうのインターネットがもっていた中距離を見失っている。
半径5メートルの世界しか見えていない人は、週刊誌やテレビワイドショーが週に一度指名する生贄に石を投げてスッキリする。インターネットはそのための道具にしかなっていない。今の自分は「普通の」「みんなと同じ」「まとも」な側だと、失敗した人や目立ちすぎた人に石を投げることで確認して、安心するための道具になっている。
逆に遠くの世界ばかりに気を取られている人は、インターネットを使って世界に素手で触れる気持ちよさで足元が見えなくなっている。等身大の自分を忘れて、目の前のことから目をそらすために、遠くのことばかり考えてしまうようになっている。そのために、見たいものだけを見て、信じたいものだけを信じるためにインターネットを使っている。ここでも同じようにいま、インターネットは安心して、考えないための道具になっている。
僕たちはいま、閉じた人間関係の人と四六時中つながっていられるようになった結果、せっかくインターネットにつながっていても、いや、いるからこそどこにも行けなくなっている。
そして僕たちはいま地球の裏側まで旅をしても、メッセージを届けても、「いいね」をしても、リツイートをしても何も得られないし、生み出せなくなっている。観光地で絵葉書と同じアングルでセルフィーを撮って、史跡名勝の前でWikipediaを引く人たちが旅から何も持ち帰ることができないように、いまのインターネットの速すぎる波に流されてしまうと、僕たちは何もそこから持ち帰ることができなくなってしまう。
ほんとうはこうした現実に抗うためにこそ、言論だとか、ジャーナリズムだとか批評だとか、そういったものはあるのだと思う。けれどいま、こうした言葉が一番インターネットの「速さ」に負けてしまっている。今日の言論空間では誰もが閉じた相互評価のネットワークの中でどうポイントを稼ぐかしか考えられなくなっている。まるで大喜利のように、いま、タイムラインの潮目で叩いていいといされる相手にいちばん賢く石を投げた人がたくさん座布団をもらえるゲームに夢中になっている。その結果、大切なものをたくさん失っている。隣の国で自由と民主主義が脅かされても「普段から邪魔だと思っているあいつらを攻撃する材料に使えるかどうか」しか考えられないし、国家が表現の自由を踏みにじろうとしても「あいつがヒーローになるのは気に食わない」くらいのことしか考えられなくなっている。そう、世界の果てまで出かけていっても、世界を見る目と走る足腰がなければ何も持ち帰ることはできないのだ。
でも、インターネットにはもっと違う速度があり得る。速度に対する自由がある。僕たちはそのことを思い出すべきなんだと思う。もっと自由に、半径5メートルの人間関係とか等身大の自分を棚上げするための天下国家とか、そういった極端に近い/遠いところに逃避するのではなくて、その中間の領域を自在に行き来するために。ときには鎌倉くらいの中距離にちょっとした思いつきで出かけて、知り合いの知り合いくらいの関係の人と10人くらいと知り合うようなこともできる。それがインターネットだったはずなのだ。
半径5メートルの日常に逼塞することもなければ、等身大の自分を棚に上げるために天下国家のことに逃避するのでもない、中距離と少し斜めの進入角度を自由に設定すること。そのためのインターネットを、僕たちは取り戻してみたいと考えている。
「遅いインターネット」計画とは、このウェブマガジンを中心とする「読む」楽しさを取り戻すためのメディア運営と、少し前から僕が始めている「書く」ことを学ぶワークショップ(PLANETS CLUB)とをあわせた運動だ。僕はこの計画を2年と少し前に思いついて、そして2年間ああでもない、こうでもないと試行錯誤して、いまのかたちにひとまず落ち着いた。この辺の経緯はこの記事に書いたし、そもそもこんな回りくどくて、めんどくさいことをはじめた理由とか、その過程で考えたこと──なぜプラットフォームではなく、メディアからのアプローチなのかとか、面白い記事を「読む」運動だけではダメなのかとか、そういったこと──は本にまとめてあるので、そっちを読んで欲しい。
もちろんこのウェブマガジンも、少し前にはじめたワークショップも、まだまだ手探りで、正直まだどんなことをしていったらいいのかわからないでいる部分も多い。これから時間をかけて、ゆっくり試行錯誤していくことになると思う。けれど、それでいいんじゃないかと今は思っている。あの日、僕はほんとうに思いつきで明日鎌倉に行こうとインターネットに書き込んだ。ものすごく大まかにしか、行き先は決めていなかったし、誰も来なかったら一人で出かけるつもりでいた。だからこそ、言葉の最良の意味で「よくわからない」人たちが集まってきた。大事なのは、距離のとり方と進入角度が、そして速度が自由であること、なのだ。これからこのウェブマガジンで、そして連動するワークショップで、僕たちはいろいろなことを、たぶんぶらぶらと歩きながら試していくだろう。それがこの「遅いインターネット」なのだ。
2020年2月17日 宇野常寛(本誌編集長)
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