リサーチャー・白土晴一さんによる連載「東京そぞろ歩き」。今回は駒込から本郷通りを南下して、かつて武家屋敷の広がっていた旧山の手の風情が残る街並みを語り/歩きます。
江戸東京を代表するかつての大名庭園「六義園」で知られる駒込の道の片側に、まるで『ゲーム・オブ・スローンズ』や『進撃の巨人』のようなビルの「壁」がそびえ立った、そのわけは? 「そぞろ歩き」が磨いた達人の眼が光ります。
端的に言うとね。
アニメ化もされた「月刊!スピリッツ」連載中の漫画『映像研には手を出すな!』に浅草みどりという登場人物が出てくる。
飛び抜けた想像力と探究心の持ち主で、ガチガチの設定オタクというキャラ。
その彼女が部室前で黒曜石を見つけて、こう呟くシーンがある。
「物事には必ず訳(わけ)がある」
その後、彼女は黒曜石がどこから来たのか? に思いを馳せる。
これを見た時、「ああ、これは私だな」と思った。
もっとも、今では設定オタクを通り過ぎて、私はアニメや漫画の設定を作るプロになってしまっているのだが。
幾分かの経験を積んだぶん、私ならその後に「ただ、調べて分かる訳と分からない訳の二つがあるね」と、さらにもう一つ理屈っぽく付け足すくらいはするかもしれない。
ストーリーの設定を作るという行為は、その創作される世界の細部まで自分で設計することなので、それがなぜ生じたかの自分なりの訳を構築する癖が付いてしまう。
これが高じてくると、現実世界のあらゆるものに対しても、なぜ存在するかの訳を探したくなってしまう。
そうなると街歩きをしていても、知らず知らずのうちに街に潜む細かいディテールの訳を探していることに気付く。
街中で立ち止まってあれこれ考えては、勝手に納得したり、考察したりするので、友達と一緒だと呆れられてしまう。
『映像研には手を出すな』の浅草氏もけっこう面倒臭い人物だが、まあ私も同じくらい面倒臭いことは自覚している。
浅草氏や私のようなタイプは、だから一人で街歩きするようになるのかもしれない。
この日も特に考えもなく、JR駒込駅で降りる。
この辺りの山手線は台地を切り通し(道や線路を通すために山や丘などを掘削していること)して線路が敷かれており、明治43年に開業したこの駅のプラットフォームは掘削された斜面の合間に作られている。
この日は掘削された斜面に植えられたツツジがなかなか綺麗である。
江戸時代はここの辺りは江戸の郊外と言え、駅の北側が染井村、南側は駒込村と呼ばれていた。ソメイヨシノの発祥地であることからも分かるように、植木屋さんが多い場所であったとか。このツツジも1910年に駅開設時に地元の植木屋さんが植えたことが始まりらしい。
ちなみに駒込駅は明治政府が公共墓地とした染井墓地(現在の染井霊園)への参拝客を見込んで作られたらしい。
大きな公共の墓地が造営され、庭木の商売で敷地が必要な植木屋さんが多かったという事実からも、江戸から明治初期はこの周辺がまだ都市化されておらず、かなり土地に余裕があったということが分かるだろう。
駅北口を出ると目の前には本郷通りこと都道455号本郷赤羽線が伸びている。
この道は江戸時代には将軍が日光社参のための専用道路で日光御成街道と呼ばれる脇街道であった。
なにせ将軍の御成りの道なのだから、幕府の道中奉行によって管轄し、道普請も念入りに行われたのだろう。
整備も行き届いていたので、人の流れが絶えない道であったらしい。
この道を北に行けば王子方向に抜けるが、今回は南に向かって本郷方面に歩いてみる。江戸時代には武家屋敷が並ぶ、閑静な地域である。
しかし、歩き始めて、すぐに違和感が。
本郷通りに面した左右の建物の雰囲気が違う。
下の画像でもご覧いただきたい。左側の建物は高さがバラバラなのだが(写真上)、右側は同じような高さの建物が並んで聳え立つ壁のような感じがしないだろうか(写真下)?
『ゲーム・オブ・スローンズ』で北方から来る野人の侵入を防ぐ壁か、『進撃の巨人』に登場した人類を巨人から守る壁「ウォールシーナ」「ウォールローゼ」「ウォールマリア」と喩えるのは大げさだろうが、それを思わせる景観。
しかし、なぜ道路片側の建物群だけに、こういうそびえたつ壁の雰囲気が出ているのだろうか?
「ウォールコマゴメ」が現れたわけ
これにも当然訳がある。
東京だけではないが、大きな道路(都市計画道路など)に面した土地は、都市計画法で「隣接商業地域」(近隣住民が買い物を行う地域)に指定されていることが多い。
この用途地域に指定されると建ぺい率が60%もしくは80%となり、低層住宅地域と比べて土地に対して大きな建物が建設可能で、一階が店舗の中高層マンションや事務所ビルなどが建設されやすい。
そうした理由から、中高層ビルが大きな道路沿いに立ち並ぶこと自体は、それほど不思議ではない。
高さ制限は市町村によって違うが、文京区都市計画検索システムで調べると、この壁ビル群は「35m高度地区」とある。10階建てくらいのビルが多いので、おそらく高さ制限ギリギリ35mくらいの建物が並んでいるのだろう。
ただ、なぜこの区画だけ同じような感じの建物が並んで、壁のように見えるのか?
その訳は地図を見ると、少し分かる。
実はこの壁ビル群は、都立庭園である「六義園」と本郷通りの合間、きわめて細長い空間に建てられているのである。
六義園はかつて五代将軍・徳川綱吉の側用人だった柳澤吉保が、加賀藩旧下屋敷跡地を拝領し、7年の歳月をかけて作った江戸を代表する大名庭園で、その後大名となった柳澤家の下屋敷として幕末まで使用されていた。
明治時代に入ると明治政府に上地(接収)されて一時期は荒れ果てていたが、三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎氏の所有の別邸となり、昭和13年に岩崎家から東京市に寄付され一般公開される庭園になったというのが、ざっくりとした歴史である。
この庭園と道路の合間、今は壁ビル群があった土地が江戸時代にどうなっていたかを調べてみる。
「安政年代駒込冨士神社周辺之図及び図説」(文京区教育委員会)を読んでみると、「この邸(柳澤家の屋敷)の外側一帯の垣根は太き青竹に二つ割を以って作りし大建仁寺垣」があり、その奥に「から堀の土を上げて作りし大土手」という記述がある。
つまり、少なくとも江戸後期には、柳澤家下屋敷の周囲を囲む、竹を割った生垣、その奥に堀と土手があっただけで、その時点では建物はなかったらしい。
さらに調べていく。
明治時代にこの庭園を別邸として購入した岩崎家だが、周辺の武家屋敷をまとめての十二万坪(39万6000平方メートル)という広大な敷地であった。しかし、明治後期から大正期には東京で都市化が進み劣悪な住宅環境が問題化しており、こうした有力者が所有する大規模な土地を解放する運動が起こっていた。
岩崎家もこうした運動を鑑み、敷地の南側(現在の東洋文庫などの敷地)を解放し理化学研究所や船舶研究所を建設、また西側には明治最初期の高級住宅街となった大和村の開発を進めるなどし、敷地は暫時売却され縮小されていったのである。そのどこかの時期で北東側の道路沿いの長細い土地は店舗に変わったのではないだろうかと思われる。少なくとも明治30年代の地図を見ると、この場所に店舗らしいものが確認できる。
大正期の本郷通りは路面電車(東京市電)も通っているので、店舗を開くだけの人通りがあったのだろう。また、明治期には武家の江戸屋敷の長屋門(家臣が住む長屋と一体化している門)が店舗になることもあったらしいので、武家屋敷の生垣と土手が更地になって店舗に建てられても不思議ではない。
庭園が昭和13年に東京市に寄付されてからも、この店舗用の土地は公園の管理維持費のために貸し出され続けられたが、戦後の昭和34年に東京都財務局から一般に払い下げられている。
その後、高度経済成長を経た昭和50年代から高層建築物の建設が続き、現在のような壁ビル群が出現したが、その多くがマンションであった。
これは緑豊かなオープンスペースの庭園を見下ろす居住環境が好まれたからであろう。
要するに江戸の武家庭園の生垣と土手だった細長い土地が、明治期の都市化で店舗になり、戦後は緑豊かなオープンスペースを見下ろせる眺望目当てのマンションになったのだ。
マンションにする以上、経済性を考えて可能な限り部屋を多くしたいので、建ぺい率と高さ制限ギリギリの建築物として設計される。土地の広さと法律の基準が同じような条件になので、自然と同じような建物が並んでいく。
これこそ、六義園の北東にあるビル群が壁にように見える訳である。
個人的には、かつて武家屋敷の生垣と土手のあった土地に壁みたいなビル群があるのは、何か地霊を引き継いでいるようで、ちょっと納得してしまう。
私の中の違和感は一応解消したので、再び本郷通りを南に向かって歩いていくことにする。
街中に築かれたミニ「富士」を望む
交差する不忍通りを越えて、さらに進むと「上富士」という文字があちこちに現れる。
交番やマンションにも「上富士」という文字が付いている。
これにも訳があって、今は合併してなくなったが、かつてこの辺りは「上富士町」と呼ばれていたのだ。ちなみにこの隣には「富士町」もある。
地名に富士が入っていると、富士山が見える場所だったりすることも多いが、関東だとその土地の住民の中で「富士講」が盛んだった可能性もある。
「富士講」は江戸時代に流行った民間信仰の一つで、御師と呼ばれる宿提供者及び案内人を兼ねた指導者に率いられた講(グループ)で、富士山へ登ることを信仰の柱としている。江戸時代の終わりの方だと「江戸八百八講、講中八万人」と言われるほど流行ったらしい。
彼らは「富士塚」と呼ばれるミニチュア型富士山を造営することがあり(既存の山や丘が転用されることもある)、この駒込にもその一つである「駒込富士」がある。
下の画像がその「駒込富士」。
このミニチュア富士山は駒込5丁目の駒込富士神社の中にあり、江戸時代にはたくさんの信者を集める一大拠点だったが、特に当時の消防を担う町火消たちが熱心に信仰したらしい。
そのため、このミニ富士には火消しに関する石碑も並んでいる。
ただ、この「駒込富士」は元々前方後円古墳だったらしく(そのため富士神社古墳とも呼ばれる)、盛り土の中から埴輪や土師器が見つかったこともあるそうだ。
それがいつの間にか改変されて富士山信仰のミニチュア富士山に変わってしまったとすれば、時代ごとに異なる信仰が蓄積されていった痕跡とも言える。
これはちょっと面白い。
ちなみに街歩き中、この駒込富士山を見て神社から出ると、若い警察官の方に呼び止められた。
平日の昼に写真を撮ってフラフラしているので、不審人物として職質されたのかもしれないが、その若い警官は声を潜めて、
「すいません。神社の富士山の上に変なことをしている人見ませんでしたか?」
と質問してくる。
「見てません」と答えると、警官は礼を言って去っていった。
さて、富士塚の上の変なことしている人とはなんだろう?
もしかすると、いまだに何かの信仰をミニ富士の上で行って、新たな信仰を上書きしようとしている人がいるのかもしれない。
都内有数の「マンション渓谷」を抜けて
さらに本郷通りを進み本駒込2丁目辺りに入ると、道路両側に切り立った断崖のような中高層マンションが立ち並ぶ。
まるで深い渓谷の中を沢歩きで進んでいるような気もしないではない。
先に書いた六義園の壁ビル群でも説明した通り、こうした道路の両側は「隣接商業地域」に指定されているので、高いマンションが並ぶのは不思議ではない。
しかし、ここのマンションたちは、本郷通りのゆるやかな曲がり具合に沿って建設されているので、蛇行する川によって形成された渓谷のように見える。
こういう渓谷のようなマンション群は都内にいくつかあるが、ここの景観が一番かも。
当然、こうしたマンション渓谷が出現した訳もある。
まず、下の地図を見てもらいたい。
これは江戸の町割りがまだ色濃く残った明治19年に出版された「開明東京新図」という地図に示された、現在の本郷通り沿いの本駒込である。
赤く塗られた箇所が道路沿いに点在しているのが分かると思うが、これらは全て寺地、つまりお寺の敷地であることを示している。
駒込のこの辺りは、江戸三大火事の一つ「明暦の大火」(1657年の大火災)で被害にあった本郷、湯島、神田の寺の移転先に選ばれ、江戸時代を通して広大な寺町が形成されていたのだ。
その後、明治政府による上知令で拝領した土地はかなり没収されたが、墓地などはそのまま残っている場所も多く、上の地図でも分かるとおり、明治の段階でもお寺所有の土地は多く残っていた。
今でも本郷通りを歩くと、高層マンションの間からお寺の参道が伸びているのを見ることが出来る。
上の画像でも分かると思うが、こうした本郷通りのマンション渓谷はお寺の敷地と道路の合間に形成されていることが多い。
ここでもう一枚の地図を見てもらいたい。
この地図は嘉永年間の1852年に出版された「改正白山駒込邉図」に記された本駒込。
こちらを見ると中央の本郷通り(当時は日光御成街道だが)が現代とほぼ同じような形で緩やかに曲がっているのが見て取れる。
そして、寺の敷地が並んでいるのは同じだが、寺の前に「門前」や「片町」などと記載された区画があるのが分かると思う。
「門前」は文字通り門前町、「片町」は道路の片側の町を意味するが、これらはいずれも「町人地」、つまり江戸時代の町人たちが道沿いに軒を連ねる店舗などを形成している区画を意味している。先に出てきた「上富士町」と「富士町」も、この町人地である。
駒込はお寺や武家屋敷が並ぶ場所であったが、まったく町人がいなかったわけではない。日光御成街道沿いに細長く伸びる町人地が連なっており、そこで町人たちは商売を励んでいたのだろう。
もうお分かりだと思うが、現在のマンション渓谷は主にこの「門前」や「片町」と呼ばれる町人地の跡に建設されているのである。
駒込は戦後も大きな区画整理が行われず、道などは江戸時代からあまり変わっていないので、現代的な真っ直ぐの道ではない。寺の墓地も昔のままという場所が多く、結果的に江戸の町割りの痕跡を色濃く残している地域になっている。
しかし、街道沿いの門前町や片町だけは、明治大正を経て店舗に変わり、六義園の壁ビル群と同じく、戦後の高度経済成長を経てから高層マンションが建設されていった。
もっとも、こちらから見下ろせるのは庭園ではなく、墓地や寺になるのだが。
考えてみると東京都心で、オープンスペースの隣に住むことは難しい。それくらい開かれた場所は東京では貴重であり、むしろ都内の大きなお墓の隣は良い条件と言えるのではないかとも思う。
このかつての寺門前に建てられたマンション渓谷に一定の需要があったのも理解できる。
江戸時代のたたずまいを今に残しているような古い街並みや建物群のある風景を、「江戸情緒がある」などと表現されることがある。しかし、東京はどの場所でも江戸から連続した歴史があるのだから、見た目が現代的であっても、あちこちに「江戸情緒」は残っているはずである。
そう考えると、古くからの寺と墓地、拡張や整備がされていて江戸時代から存在した道路の合間にある本郷のマンション渓谷は、かつて門前町や片町などの町人地を今でも感じさせてくるので、「江戸情緒溢れる」と表現してもいいのかもしれない。
確かに見えにくいかもしれないが、隠れ潜んだ江戸な景観が示しているわけだし。
以上が本郷通りにマンション渓谷が出現した経緯と訳である。
そして東大赤門へ
訳が分かったので足を進め、寺町のマンション渓谷を抜け、白山から本郷へ。
この辺りになると、高層マンションばかりではなく、江戸時代は難しいが明治大正昭和の古い店舗建築が残っている。
中でも本郷6丁目にある棚澤書店は、明治中期に洋品店として建設された木造二階建ての店舗で、庶民建築の歴史を伝える建築として国の登録有形文化財に登録されている。
古書マニアなので、こちらに何度も通っているし、明治を感じる店舗内も大好きだが、この日はお休みで入ることができなかった。
本郷の東大周辺に明治大正の建築が多く残ってるいるのも、当然訳がある。
その訳は! ……と言いたいが、流石に疲れたので今回の街歩き、訳探しはここまで。
で、最後は有名な東大の赤門。
ここから地下鉄で帰途に着く。
さて、次回はどこに行こうか?
[了]
この記事は、2021年5月17日に公開しました。
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