リサーチャー・白土晴一さんが、心のおもむくまま東京の街を歩き回る連載「東京そぞろ歩き」。今回は眠らない街・新宿歌舞伎町を歩きます。関東大震災後と戦後の2度の復興計画を契機に生まれ変わり、日本を代表する歓楽街として発展を遂げてきた歌舞伎町は、コロナ禍を経て現在どんな素顔を見せているのか。白土さんがそのカオスな魅力に迫ります。
端的に言うとね。
上京する前、地方都市に住む私の東京の新宿に対するイメージは、大沢在昌の小説『新宿鮫』の舞台であり、漫画『シティーハンター』の冴羽獠が住む街、そして何より菊池秀行の小説『魔界都市〈新宿〉』の怪人と暴力が蔓延る場所であった。
かなり偏ったイメージであったことは否めない。
しかし、お隣の中野区に住んでから数十年も経つと、新宿は一番近い繁華街なので、ちょっとした買い物や食事で気軽に出かける。
目的もなく暇潰しで新宿をフラつくこともある。
そうなると新宿は日常の一部になって、あんまり特別な場所とは感じなくなってしまった。
ただ、日本一の歓楽街と言われる新宿の歌舞伎町を歩く時だけは、少しだけ魔界都市を感じることがある。
私が上京したての1990年代よりよほど安全になったのだが、それでも夕方になれば開店前のホストクラブの前に女性たちが集まり、夜になればキャバクラやガールズバーに誘うスカウトが現れ、深夜になれば泥酔するサラリーマンが転がっている。
そういう風景を見ると、「おお、魔界都市はまだ生きているな!」とちょっと嬉しくなってしまう。
たぶん、10代の頃に小説や漫画で魔界都市新宿のイメージを膨らませていた自分が懐かしくなっているのかもしれない。
新宿は江戸時代の頃は内藤新宿と呼ばれる甲州街道の宿場町であったが、幕府の度重なる規制にも関わらず、飯盛女や茶屋女が多数いる事実上の岡場所として栄え、昔からの歓楽街であった。
新宿歴史博物館にはこの内藤新宿時代の模型が展示されている。
この模型を見ると、街道沿いに宿屋や茶屋が並んでいたのがわかるだろう。
しかし、宿場町があった場所は現在の甲州街道沿いであり、現在の歓楽街である歌舞伎町などが面する靖国通り付近は、畑や雑木林、湿地帯と田んぼなどの住居もまばらな閑散とした土地であったらしい。
新宿が今のような繁華街になっていくキッカケは、明治18年(1885年)に山手線の新宿駅の開業、次に大正12年(1923年)に関東大震災からの復興事業で計画された道路、当時は大正通りと呼ばれた現在の靖国通りの建設が大きいだろう。
そして、戦前から計画はあったが、終戦後の昭和23年(1948年)に高田馬場までであった西武村山線が延伸されて、仮営業ながら西武新宿駅が開業されたことによって、現在の新宿を形作る交通インフラが整ったと言える。
新宿は明治、大正、昭和に立て続けに、巨大なインフラがカンフル剤として注入されたことで、随時拡大した都市なのである。
なので、今回はそのカンフル剤の一つである西武新宿駅から降りて、新宿を歩いてみようと思う。
西武新宿駅から降りてすぐ目につくのは、何とも薄い駅ビル。
昭和52年(1977年)に開業され、ショッピングセンター「西武新宿ぺぺ」と新宿プリンスホテルが入っているが、西武新宿駅を降りる度に、この薄さが気になってしまう。
先ほども書いたが、西武線の新宿乗り入れは昭和23年。戦争でこの一帯は焼け野原ではあったが、新宿はすでに閑散とした土地ではなく、住宅などがある多数の地権者が存在する土地になっており、大きな敷地を確保するのは難しかったのかもしれない。
限られた敷地と高さ制限を目一杯利用しようとすると、こうした薄いビルになってしまうのだろう。
次に関東大震災からの復興道路であった靖国通り沿いを歌舞伎町一丁目方向に向かう。
靖国通りの左右の歩道で目につくのは、延々と続く有料駐輪場の列である。
新宿大ガード東口から新宿五丁目東交差点までの450メートルほどにびっしりと自転車のスタンドと料金支払いの機械が並んでいる。
なかなか壮観だと思う。
東京都心を自転車で走っていると、大きな駅の周辺は駐輪する場所が少ない。行政や民間の駐輪場も設置されているが、やはり不足していると思う。
そのため、各地で放置自転車や違法駐輪が問題になっているが、西武新宿駅だけは駐輪場が充実しているので、自転車を止めるのにあまり困らない。
かつてはこの付近も放置自転車が非常に多かったが、平成7年(1995年)に施工された「新宿区自転車等の適正利用の推進及び自転車等駐輪場の整備に関する条例」などによって、公共施設、商業施設、娯楽施設などの管理者は、その規模に合わせた駐輪場の設置に努めることが明記され、格段に駐輪事情が良くなった。
これはあくまで噂でどこまで本当か分からないが、歌舞伎町で喧嘩、乱闘が起こった際は、道端に止められた自転車を持ち上げて振り回したり、相手に投げつけるという事例が多いとか。実際、私も何年か前に喧嘩で自転車を振り回しているのを大久保通りで見たことがある。
放置自転車は歩行者の邪魔になるので問題だが、こういう喧嘩で放置自転車が武器になるのを防ぐ目的もあるのかなと思う。
靖国通りから途中で左に曲がって、ゴジラロードへ。
かつてこの通りは「歌舞伎町セントラルロード」と呼ばれたが、新宿コマ劇場や新宿東宝会館の跡地に、TOHOシネマズ新宿などが入った新宿東宝ビルが建築され、8階部分に「ゴジラヘッド」が設置されたことで、2016年に「ゴジラロード」と改名された。
日比谷にもゴジラ像が設置されているが、奥行きの道路の奥に巨大なゴジラ頭部が見えるのはなかなか面白い。
今はコロナウィルスで観光客らしい姿がほとんどいないが、以前はここで写真や動画を撮っている海外からの観光客の姿をよく見た。
駅前や繁華街に大きな映画館を有している東宝は、その敷地を再開発することで収益を上げる戦略を取っているが、それをここまで視覚的に見せつける場所はないだろう。
そもそも歌舞伎町は、戦争の焼け跡の中、角筈北町会の町会長だった鈴木喜兵衛を中心とした民間有志により終戦後すぐに計画された戦災復興整理事業として、この地に歌舞伎の演舞場を中心とした健全な芸能地区を作る構想から始まったと言える。
この計画を戦後東京の戦災復興計画の指揮を取っていた石川栄耀が後押しし、この石川こそが歌舞伎町の名付け親になった。
この鈴木喜兵衛が書いた昭和30年刊「歌舞伎町」(非売品)を読むと、区画整理原形図と歌舞伎町区画整理完成図が収録されている。
下が区画整理原形図。
そして、区画整理完成図。
これを見ると、無秩序であった路地がまっすぐになり、区画がスッキリ整理されたことがわかるだろう。現在の歌舞伎町は、この区画整理によって生まれたと言っていい。
残念ながら、資金などの問題から歌舞伎演舞場は建設されず、「歌舞伎町」という名前だけが残ったが、鈴木や石川の健全な芸能地区を建設しようという試みが、現在のゴジラロードや歌舞伎町シネシティ広場、映画館などによって引き継がれているのがわかる。
しかし、1980〜90年代にかけて、歌舞伎町は風俗店がひしめき、治安の良くない地区として名を馳せていき、鈴木や石川の理念や構造とは違う方向に変化していく。
都市というものはなかなか計画や理念通りに行かないものである。
このゴジラロードを進んで左に曲がり、歌舞伎町一番街に入っていくと、有名な新宿警察署歌舞伎町交番が見える。
東京で一番大きな交番は浅草署管内のマンモス交番「日本堤交番」だが、ここも相当に大きい。23区内では珍しい交番専用のパトカーが配備されている交番で、日本の警官の交番勤務の中でも最も激務と言われているとか。
歌舞伎町の治安の要とも言えるこの歌舞伎町交番は、歌舞伎町一丁目と歌舞伎町二丁目の間を走る花道通り沿いにあるが、この通りは前々から不思議な通りと感じていた。
下の地図を見てもらいたい。
歌舞伎町の他の通りに比べて、地図真ん中の花道通りだけは妙に曲がっている。
下画像は歌舞伎町交番から見た花道通り。
この通りは飲食店などの荷卸し用の停車区画が5箇所ほど歩道にはみ出す形で設置されているので、よりグネグネしているように見えるが。
先に挙げた鈴木喜兵衛の歌舞伎町区画整理完成図でも、この通りは同じようにグネグネと曲がっているので、それ以前にあった道の名残だろう。
そこで古い地図でこの場所を遡ってみる。
明治初期の地図だとこの場所は旧大村藩主の邸宅沿いの道だが曲がり具合も今と同じ感じ。
続いて、江戸後期の地図を見てみると、現在の花道通りの場所には舌を伸ばしたような形の田、水田があったと記載されている。
まず、下の画像をご覧いただきたい。
風林会館付近から南に向かって区役所通りを撮影したもので、信号下の左右に伸びている道が花道通りである。
こうして見てみると、花道通りは、南から北に傾斜している土地(歌舞伎町一丁目)と、北から南に傾斜している土地(歌舞伎町二丁目)に挟まれた窪地だったことがわかる。
窪地の底に作られた道なので、地形に沿っているため、区画整理された道に比べて曲がっているのである。
まっすぐな道を作るならば、地形自体を変えないと難しいが、そんな大規模工事をするのは簡単ではない。
昔はこの辺りは東大久保村といったが、地名はこの窪(くぼ)地が由来だろう。
こうした窪地は水の影響で出来るもので、江戸時代はこの窪地に湿原があったらしい。古来から湿原や沼に併設する形で田んぼを作ることがあり、これを「湿田」と言うが、花道通りのグネグネはこの窪地と湿田の痕跡を示すものだったのである。
現在この花道通りは風俗店の多い歌舞伎町一丁目と、ホストクラブとラブホテルが多い二丁目の境界線であり、歩いているとなかなか面白いものが見られる。
特に歌舞伎町二丁目側にある駐車場は、ホストクラブに看板が城門のように聳えており、一見の価値がある。
私は勝手の「ホスト街の城門」と呼んでいるが。
歌舞伎町二丁目は一丁目の喧騒に比べれば、ホストクラブに通う女性客などは多いものの、歌舞伎町の裏町的な佇まいがあり、駐車場やコインランドリーが点在している。
特にホストクラブなどへの贈答用の花を扱う店や特注のケーキのお店などが点在するのが歌舞伎町二丁目内の特徴だろう。
こうした歌舞伎町二丁目のお店は普通の商店街とは違って、店頭にそこまで全面的に商品を並べるような感じもなく、ひっそりとしている。
ホストクラブやクラブ相手の商売であるからなのか、街角でひっそりと営業している感じがしてしまう。
この歌舞伎町二丁目のホストクラブ街とラブホテル街を大久保通りに向かって歩っている途中にギョッとするものが。
前は雑居ビルだった(と思う)場所に、「売土地35億円」という文句が。
うーーーん、大幅に5億円値下げで35億円かぁ。
日本の地価はずいぶん下がってきたと聞くが、やはり東洋一の歓楽街、魔界都市新宿の土地はこれくらいするらしい。
最後にこの金額で魔界都市感が味わえたので、今日のそぞろ歩きは終了。
さて、今度はどこに行こうか?
[了]
この記事は、PLANETSのメルマガで2021年7月20日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年8月16日に公開しました。
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