1984年に「魂を持った乗り物」として成立した初期トランスフォーマーと、モノとのコミュニケーションによって導かれる成熟について論じた前々回、2007年の映画『トランスフォーマー』を『グラン・トリノ』と比較しながら、アメリカン・マスキュリティを構成する要素を「自動車」「軍人」「キリスト教」の3つに整理した前回に引き続き、今回は、映画の第2作から第5作について、そして映画版トランスフォーマーが失ってしまった可能性について明らかにしたい。

『リベンジ』──「古きもの」によるノスタルジックな成熟

『トランスフォーマー/リベンジ(原題:Transformers : Revenge of the Fallen)』(2009年)

 第2作『リベンジ』においても、主要な登場人物の配置は『トランスフォーマー』から大きく変化しない。オプティマス・プライム、バンブルビー、サムに加えて、レノックス大尉とヒロインのミカエラがほぼ同じ位置付けで登場する。『リベンジ』ではメガトロンに代わって「ザ・フォールン」と呼ばれる存在が敵の指導者としての役割を果たすが、全体的な構図そのものは第1作とそれほど変わるところがない。前作で高校生だったサムの大学進学が描かれているものの、それが決定的に彼を成熟させることもない。

 ただ『リベンジ』からは「老化」や「風化」といったモチーフが現れていることは特筆すべきだろう。たとえばトランスフォーマーシリーズ全体においてリーダーの証として象徴的な意味を持つ「マトリクス(Matrix of Leadership)」は、長年封印されていたために風化しており触れた瞬間に砂になってしまうし、ジェットファイアーという名の老トランスフォーマーは、髭を蓄え腰を曲げて杖をついた老人然としたデザインを与えられている。

タカラトミー「MB-16 ジェットファイアー」
写真は映画10周年を記念して2018年に発売された仕様変更版。

 そして人間とオートボットの勝利は、こうした「古きもの」の力によってもたらされる。一度は命を落としたオプティマス・プライムは、サムの功績によって再びその形を取り戻したマトリクスを使って復活し、強化パーツとなったジェットファイアーと融合することでザ・フォールンを打倒するのである。

 ここでマトリクスやジェットファイアーといった「古きもの」の象徴に込められた理想とは、自己犠牲の精神であることが繰り返し語られる。砂となったマトリクスは、一旦は自ら戦いの犠牲となったサムの臨死体験を通じて復活するし、ジェットファイアーは自ら分解してオプティマス・プライムと融合する。こうした自己犠牲の精神、そしてサムやオプティマス・プライムの再生が、キリスト教的価値観と結びついていることは前回確認したとおりだ。

 こうした描写からは、『リベンジ』がアメリカン・マスキュリニティの有効期限がすでに切れつつあることには自覚的であることが伺い知れる。しかしその再生の道筋は、過去の英知の結晶たるマトリックスと、老トランスフォーマーであるジェットファイヤー(のパーツ)によってもたらされる。トランスフォーマーという人間の科学を超越した機械生命体を中心にしたサイエンス・フィクションでありながら、美学の上ではフューチャリズムではなくノスタルジーに駆動されているのである。

 その歪なバランスを埋めるように、『リベンジ』では「下ネタ」と言えるような下品なジョークの割合が増していることにも言及しておきたい。これは『グラン・トリノ』において、コワルスキーとイタリア人の床屋の友人との間で交わされるやりとりを思い起こさせる。コワルスキーがタオを「一人前の男」にする過程でこうしたホモソーシャルなしぐさを習得させたように、『リベンジ』がアメリカン・マスキュリニティを描き直す過程でこのような古い手法を投入せざるを得なかったことは、おそらくは作り手の意図せぬかたちで、『リベンジ』が扱おうとした美学の限界を描いてしまってもいるだろう。

『ダークサイド・ムーン』──敵を殴り殺す「メッセンジャー」

『トランスフォーマー/ダークサイドムーン(原題:Transformers : Dark of the Moon)』(2011年)

 第3作『ダークサイド・ムーン』においては、『トランスフォーマー』『リベンジ』と繰り返し自己犠牲によって世界を救ってきたサムのその後が語られる。ガールフレンドだったミカエラとは(物語上の要請というよりはどちらかというと演じるミーガン・フォックスの降板という制作上の都合に伴って)離別し、新たにカーリーという女性と付き合っている。サムは大統領から勲章を授与されるも大学卒業後就職することができず、カーリーのいわゆる「ヒモ」として自立できずにいる様子の描写から、つまりはサムの成熟の挫折を描くところから、物語は始まる。

 ノスタルジーが支配的だった『リベンジ』と比較すると、『ダークサイド・ムーン』ではフューチャリズムに回帰しようという意志を感じることができる。

 物語の軸となるのは、ケネディ大統領の主導したアポロ計画において「月の裏側」で発見された、墜落したトランスフォーマーたちの船だ。この船にトランスフォーマーの技術による破壊兵器「柱(the pillars)」が搭載されていることから、その所有権をめぐって人間・オートボット・ディセプティコンが戦いを繰り広げることになる。

 宇宙開発と破壊兵器は、進歩と暴力という科学技術のふたつの側面だ。かつて1984年のトランスフォーマーが提示した「トラック」と「銃」のふたつがアメリカン・マスキュリニティを象徴しているとしたら、「ロケット」と「核兵器」もまた、特に冷戦期において同じ役割を果たす。アメリカ大陸の西端へと到達したフロンティアの延長は、宇宙に見出された。冷戦期は人類の進歩の象徴としての宇宙開発競争の過熱が臨界を迎えた時代でもあり、ソビエト連邦との緊張によって、世界を滅亡させる核戦争としての第三次世界大戦という圧倒的な暴力が、現実的なものとして想像されていた時代でもあった。

 そして宇宙開発と破壊兵器は、サムの成熟の問題とも結びつく。

 サムが苦労の末(カーリーを通じたコネクションの寄与もあるものの一応は自力で)見つけた就職先は、宇宙開発に関わるテクノロジー企業「アキュレッタ・システムズ」だ。そしてサムのキャリアは、この企業において資料の輸送係としてスタートすることになる。ここに来たからには昇進は望めないと上司に言われるものの、一応は一流企業の中で社会人として仕事をこなしていくサムの姿が描かれ、この会社がサムの成熟の器になるであろう予感を感じさせる。

 過去ではなく未来と、宗教(的な美意識)ではなく科学と成熟を結びつけるべきだった、という問題意識は、またしても正しい。しかしそれゆえに、理想の男性性の体現者としてサムに成熟のイメージを提供するはずのオプティマス・プライムは、かつてサイバトロンとデストロンとして表れた科学のふたつの側面──進歩と暴力の不可分性に直面せざるを得なくなってしまう。

 『リベンジ』まではかろうじて争いを好まぬ平和的なリーダーとして振る舞っていたオプティマス・プライムだったが、今作では露悪的なまでにその非情さが強調して描かれている。オートボットの一員でありながらディセプティコンに「柱」を提供したセンチネル・プライムとの対決において、オプティマス・プライムは勝利を収める。しかしオプティマス・プライムは、自らの裏切りの理由を語り理解を乞うセンチネル・プライムを、ほとんどためらうことなく射殺する。さらに最終決戦におけるメガトロンとの戦闘の描写は凄惨を極め、斧を突き刺した頭部を脊椎ごと引き抜くという、機械生命体でなく人間だったなら倫理的に放送不可能なレベルの残虐な破壊が、スローモーションで印象的に演出される。

 リーダーとして地球を守るということと、こうした残虐性を伴う暴力にコミットすることは、もはやオプティマス・プライムにとっても不可分なものとなる。そこには理想の男性として崇高ささえ感じられたかつての機械生命体のリーダーとしての姿はほとんどない。そもそも本作におけるオートボット全体が「協力」の名目でほとんどアメリカ軍の指揮下にある時点で、暴力を行使する存在としての宿命から逃れる術はなかったともいえる。

 そしてオプティマス・プライムが正しいロールモデルとして機能しなくなったがゆえに、サムは本作においても成熟することはない。先述の主題からすればサムの成熟の舞台となるはずのアキュレッタ・システムズは、戦闘の中でオフィスを失い、その後どうなったのかは一切語られない。

▲襲撃される職場から逃げ出すサム(画像出典)。

 サムの成熟の挫折を決定的なものにしているのが、同企業の役員であり、大手会計事務所の社長(親の会社を引き継いだ二代目)を務めるディラン・グールドとのエピソードだ。ディランはカーリーをめぐるサムのライバルとして、成熟のために越えなければならない「影」としての役割を担うキャラクターだ。ディランはカーリーの雇い主だが、上司と部下以上の関係を匂わせサムのジェラシーを煽る。ディランはまた、クラシックカーのコレクターとして、そして自ら車に乗り込むレーサーとしても描かれる。これまで論じてきたように「自動車」が成熟の象徴であることを考えれば、ディランをめぐるこうした描写は彼が「成熟した」「理想の」男性として設定されていることを裏付けるものだ。

▲左がロージー・ハンティントン=ホワイトリー演じるカーリー・スペンサー、右がパトリック・デンプシー演じるディラン・グールド。(画像出典

 クライマックスで、ディランは親の代からディセプティコンに協力していることを語り、「柱」を起動する。そこでディランは自らの行いを阻止しようとするサムに「ヒーローになったつもりか」と問う。「ヒーロー」という言葉は、「軍人」的な勇猛さと「キリスト教」的な自己犠牲が一体となった、アメリカン・カルチャーにおける理想の男性性を示す単語だと言っていいだろう。しかしサムはこう答える。「いや、ただのメッセンジャーだ」と。

 もしサムがここで、徹底して暴力を拒否し、それゆえに成熟できなかったとすれば、情報化を想起させる「メッセンジャー」という名前の下に、工業化を経て情報化に至った社会におけるオルタナティブな成熟の形を提示できる可能性も残されただろう。しかしサムはこのセリフの直後、驚くべきことに、コンクリート片を伴う鉄パイプでディランを撲殺するのである。一応はそれが直接の死因ではなく、起動済みだった「柱」の端末に激突したことによる感電死であるように描かれてはいるものの、それはサムがディランを物理的に殴ったことの免罪にはならない。こうした非情さは、オプティマス・プライムのそれをロールモデルとして的確になぞってしまっている。

 サムの成熟の物語として始まりながらその成熟が放棄されていること、そして自らをメッセンジャーと呼びながら敵を撲殺してしまう矛盾をもって、脚本の混乱と破綻を指摘することもできる。しかしここで重要視したいのは、ここまでマスキュリニティと暴力の不可分性に自覚的であるにもかかわらず、それでも暴力のない成熟を描けないアメリカン・マスキュリニティの問題だ。暴力という重力に縛られたまま、映画版トランスフォーマー最初の三部作は、こうしてサムの成熟を描くことなく完結するのである。

『ロストエイジ』──「軍人」のルーツとしての「騎士」

『トランスフォーマー/ロストエイジ(原題:Transformers : Age of Extinction)』(2014年)

 第4作『ロストエイジ』からは、キャストを一新した新たな三部作となっている。これに伴って主人公は新たに設定されているものの、脚本を『ダークサイド・ムーン』と同じくアーレン・クルーガーが担当していることもあって、物語中の時系列的に前作の続編となっているだけでなく、主題的にも連続したものになっている。物語展開そのものは要素が多くかなり複雑なので、ここでは丁寧にあらすじを追うことはせず、成熟のイメージという観点からモチーフを整理することにしたい。

 サムに代わって新たな主人公となったケイド・イェーガーは、テキサスに住むエンジニアであるが、まともに動かないロボットを作り続けるだけの自称「発明家」だ。その収入は主に近所のガラクタを直すことによる僅かなもので、それも新たな発明のために使ってしまい、イェーガー家は経済的に破綻状態にあることが語られる。ケイドには17歳の娘テッサがいるが、彼女は亡くなった妻との間に学生時代にできた子供である。そのことで苦労したことから娘の交友関係については必要以上に厳格で、親から離れていこうとする思春期のテッサからは煙たがられている。ケイドは家計や生活の管理をほとんど妻に頼っていたことが示唆され、娘の大学進学の費用も工面することができない。成熟した大人として振る舞うことのできない子供じみたケイドが、いかにして理想の「父」として成熟していくかが、本作の中心的な問いになる。

▲手前がマーク・ウォールバーグ演じるケイド・イェーガー。奥がニコラ・ペルツ演じるテッサ・イェーガー。(画像出典

 本作では、さまざまな男性キャラクターと対比しながら、ケイドを理想の男性のイメージとして描き出していく構造になっている。サーフボードを積んだミニ・ローバーに乗るジャンク修理業の同僚ルーカス・フラナリーは、金に目がくらんでイェーガー一家を結果として敵に売り渡すことになってしまい、その運動能力の低さから逃げ遅れ戦死する。テッサのボーイフレンドであり、20歳にしてスポンサーを勝ち取る優秀なレースドライバーであるシェーン・ダイソンは、若さゆえに戦闘のような有事においては冷静さと判断力を欠く。テクノロジー企業KSIのCEOであり、明らかにスティーブ・ジョブズをカリカチュアライズした造形のジョシュア・ジョイスは、社内においては独特のカリスマと巨大な野望を持つものの、ひとたびオフィスを離れれば、ほとんど慌ててばかりいる頼り甲斐のない存在として描かれる。

 こうした男性たちはすべて、物語のはじまりにおいてはケイドに比べて成熟した存在である可能性を感じさせるが、物語が進み、舞台が「戦場」と化していけばいくほど、その矮小さをあらわにする。そして反対にケイドは、戦いの中においてこそ、理想の男性として振る舞うことができるようになってゆく。映画のラストシーンでは、ケイドはテッサと抱き合い、ヒーローとして娘に認められる。しかし実際には、ケイドの行ったことは戦うことだけだ。生活の中で抱えていたはずの諸問題、発明家としての無能さや娘の学費の問題は、一切解決していないのである。

 この意味するところは大きい。「発明家」や「エンジニア」といった職業は、本来ケイドを「進歩」を象徴する存在として描くために設定されていたはずだ。「発明家」「エンジニア」の最先端であり、現代において理想の男性像のひとつとなったといっても過言ではないスティーブ・ジョブズをはじめとしたシリコンバレーの起業家さえ、戦うことができないという一点において滑稽で矮小な存在として描かれてしまう。そしてケイドは戦うことで──「進歩」の代わりに「暴力」に参加することで──ナルシシズムを充足させていくのである。

 オプティマス・プライムもまた、こうしたケイドのナルシシズムの描かれ方と呼応して暴力的な存在として描かれる。本作においては窮地に陥ったオートボットを立て直すため、ある場所に幽閉されていた「ダイナボット(Dinobots)」と呼ばれるトランスフォーマーたちを解放する。彼らはその名の通り、恐竜(Dinosaur)の姿で描かれる。協力要請に耳を傾けず攻撃をしかけてきた恐竜に対して、オプティマス・プライムはなぜ人類を守る必要があるのか根気強く説得する──のではなく、襲い掛かるティラノサウルスの顔面に痛烈なカウンターパンチをお見舞いし、力で従わせる。そしてそれを見ていたオプティマス・プライムの部下たちは、自らのリーダーへの尊敬の念を改めて確認するのだ。

▲剣をとり、恐竜にまたがるオプティマス・プライム。(画像出典

 オプティマス・プライムが殴って従わせた恐竜たちは、むろんトランスフォーマーとしてロボットに変形する。興味深いのは、そのデザインが「騎士」を思わせるものになっていることだ。

 騎士というモチーフの位置付けは、ケイドが手にする武器のデザインによく表れている。ケイドは恐竜にして騎士たるダイナボットたちが幽閉される監獄で、かつて騎士たちが持っていたであろう武器を保管してある倉庫を発見する。そこで巨大な両手剣(トランスフォーマーにとってはダガーのような小さな剣だが)を手にし戦おうとするが、迫り来る監獄のセキュリティの苛烈な銃撃には分が悪い。そこであるアクシデントから、その剣の意外な機能が明らかになる。実はこのダガーは、刀身が展開し銃として機能するものだったのだ。「銃」を手にしたケイドは、急に活き活きと活躍しはじめる。そのキャリアにおいて軍人や警官といったアメリカン・ヒーローを多く演じてきたマーク・ウォールバーグが銃を持って活躍しはじめる姿は、二重の意味で「発明家やエンジニアはミスキャストであり、最初から軍人であるべきだったのだ」という印象さえ与えるものになっている。

▲「ダガー・ガン」を携えるケイド・イェーガー。佇まいはアサルトライフルを持つ軍人のそれである。(画像出典

 いうまでもなく恐竜はかつて地上に繁栄したものの絶滅した古生物であり、映画においても古きマスキュリニティの象徴である。そして騎士は、同じくすでに滅んでしまったマスキュリニティの象徴だ。このケイドが手にするダガーは、騎士の象徴である剣と、軍人の象徴である銃を結びつけた兵器としてデザインされている。

 これまで、アメリカ文化において理想の男性性として「軍人」がその中心にあったことは何度も触れてきた。そしていわゆる「騎士道精神」は、中世ヨーロッパの封建主義において、キリスト教的な規範が貴族意識と結託して成立したものだとおおまかには言えるだろう。ここに至ってトランスフォーマーは、「軍人」のルーツに「キリスト教」を見出し、「騎士」というモチーフに昇華させたのである。

『最後の騎士王』──西ではなく東へと戻る旅路

『トランスフォーマー/最後の騎士王(原題:Transformers : The Last Knight)』(2017年)

 第5作『最後の騎士王』は、前作に引き続きケイドを主人公とした、新しい三部作の2作目にあたる。「騎士」という言葉をそのままタイトルに含むことからわかるように、本作ではアメリカからイギリスへと舞台を移し、このモチーフがさらに展開されている。

 映画は古代イギリスにおける伝説の騎士王、アーサー王の戦いからはじまる。アーサー王の軍勢は劣勢に立たされているのだが、そこで鍵を握っているのが、アーサー王を見出し育てたといわれる「魔法使い」マーリンだ。マーリンは、劣勢においても死を恐れず戦い抜こうとする自己犠牲的な騎士たちに対して、命を惜しむだらしない女好きの酔っ払いとして、つまり理想の男性とはほど遠い存在として描かれる。しかしそのマーリンの説得によって、ドラゴン(実は太古から地球にいたトランスフォーマー)の協力を取り付け、アーサー王の軍勢は勝利を手にする。このように古くから人類の進歩にトランスフォーマーが関与していたという事実を通じて、今作においては文明の発展と男性性の繋がりが描かれることになる。

▲マーリンの杖によってコントロールされるドラゴン型のトランスフォーマー。(画像出典

 前作でエンジニアでありながら軍人としか思えない活躍を見せたケイドは、引き続き今作でも主人公となっているが、どちらかというとアメリカ人であるケイドを視点人物として、その「軍人」的なマスキュリニティのルーツをめぐるイギリスへの旅が物語の中心になっていく。

 まずこの冒頭のイメージにおいて、「騎士」はいわば最強の肉体と最強の知性を持つ「軍人」のルーツとして、「キリスト教」的な自己犠牲・博愛の精神を持つ存在として描かれる。前作において騎士に変形したダイナボットは少なくとも西洋近代的な意味での知性を持たない存在として描かれていたが、今作において騎士をモチーフとしたトランスフォーマー、ならびに騎士に関わる人間たちは、おおむねこの理想の成熟した男性としての騎士のイメージで語られる。

 その代表が、アンソニー・ホプキンス演じるイギリスの老貴族、エドモンド・バートンだ。彼は古くからトランスフォーマーたちに協力してきた「ウィトウィック騎士団」の最後の生き残りである。エドモンドは徹頭徹尾イギリス紳士然とした振る舞いを崩さず、最後は命と引き換えに敵に一矢報い、騎士として生を全うしたこと=自己犠牲の精神を貫徹したことに満足しながら死んでいく。

 もうひとつ冒頭で提示されている重要なモチーフが「魔法使い」だ。「騎士」の末裔であるエドモンドが理想的に成熟した男性のイメージで語られるのに対して、「魔法使い」は「非男性的」なオルタナティブな可能性として描き出される。この「魔法使い」の末裔として設定されているのが、ローラ・ハドック演じるヴィヴィアン・ウェンブリーだ。彼女の父親はウィトウィック騎士団の一員であり、自身もマーリンの直系の子孫であることが語られる。そしてそれゆえに、トランスフォーマーをコントロールすることのできるマーリンの杖の継承者となることができるという設定が与えられている。

▲右が前作に引き続き主人公を務めるケイド・イェーガー。左がローラ・ハドック演じるヴィヴィアン・ウェンブリー。(画像出典

 物語において重要な役割を果たすこのマーリンの杖は、もともとトランスフォーマーの創造主であるクインテッサのものだったと設定されている。興味深いのは、最大の敵として立ちはだかるクインテッサのデザインもまた女性であることだ。「騎士」というモチーフを理想の男性性と結びつけて中心に置きながらも、実際にはむしろ「魔法使い」という非男性的な存在をめぐる物語になっているのである。

 これまでの映画版「トランスフォーマー」と同じように、この問題設定もまた旧来的なマスキュリニティが力を失っていることを前提としているという意味で妥当なものだ。しかしここで「女性的」ではなく「非男性的」という言い方をせざるをえないのは、「魔法使い=女性」の可能性が十分に展開されているとは言えないからだ。

 確かに最終決戦において、これまで物語の中心にあり、イギリスの「騎士」エドモンドの薫陶を受けたアメリカの「軍人」ケイドは、決定的な場面で自ら事を成し遂げず、「魔法使い」の末裔たるヴィヴィアンのサポートに徹する。これを持って、ついに「騎士=軍人=男性」が、「魔法使い=女性」へとその座を明け渡したと考えることも不可能ではない。

 しかし最終決戦における作戦自体が英国軍の全面的な協力によるものであり、このときヴィヴィアンも、軍人たちと同じように、オリーブドラブのジャンプスーツに身を包み、作戦行動の中に組み入れられている。もちろん、映画としてのリアリティを損なってでも、それまで着ていたスーツやドレスのまま戦闘に臨むべきだということではない。ここで指摘したいのは、こうしたヴィヴィアンの扱いからは、単に魔法使い=非男性を「名誉男性」として男性原理の中に組み入れただけで、オルタナティブな可能性として女性的なものを積極的に取り入れようという態度がほとんど見られないという点である。

 ここに至っても、やはり映画版トランスフォーマーは、正しい問題設定を行い新しい可能性を示唆するところまでいくものの、決定的なところで保守的な男性性を更新することに失敗しているのである。

 ちなみにオプティマス・プライムに至っては、創造主クインテッサに洗脳され、悪の騎士ネメシス・プライムとして人類を滅ぼそうとする側に回る。オプティマス・プライムが理想の男性性を体現しようとすればするほど、切り離しがたい暴力がその魂を蝕んでいくのである。

▲かつての部下、バンブルビーを蹂躙するネメシス・プライム。紫の瞳は正義(青)と悪(赤)の中間の色彩である。(画像出典

 『リベンジ』から『最後の騎士王』までの流れは、理想の男性性という観点からは次のように整理することができる。フロンティアの開拓に根拠を持っていたアメリカン・マスキュリニティは今や力を失ってしまった。宇宙開発やシリコンバレーにも、かつての輝きを見ることはできない。そこで西に向かうのではなく東に戻る、つまり西海岸から東海岸、そしてイギリスへと渡り、中世ヨーロッパで育まれた騎士道精神にまで遡ることで、マスキュリニティは再び根拠を取り戻し解放される。むろんこれは政治的にも正しい。なぜなら「魔法使い=女性」であっても、騎士として、理想の男性として振る舞うことができるからだ──

 こうして整理すると、このような極端に保守的な男性性を描いた物語がブロックバスター映画として君臨していることには驚きさえ感じるが、近年のアメリカの動向を見る限り、むしろ納得するべきなのかもしれない。ヴィヴィアンが「名誉男性」としてその女性性をジャンプスーツの中に封印され、オプティマス・プライムがネメシス・プライムになったちょうどそのとき、ヒラリー・クリントンは敗北し、バラク・オバマに代わってドナルド・トランプが大統領になったのだから。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2017年12月14日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2020年7月27日に公開しました。

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