「ジェネレーター」とムジナの庭

 対話的コミュニケーションを重視したケアの技法、あるいはものづくりや農業と掛け合わせたケアなど、さまざまな角度からのアプローチが模索される中で、これから求められるのはいかなる「ケア」のかたちなのか。「庭プロジェクト」の第6回の研究会では、ボードメンバーである鞍田愛希子さんが主宰する、東京都小金井市の福祉施設「ムジナの庭」を訪問。鞍田愛希子さんによるプレゼンテーション、そしてそれを踏まえた参加メンバーの議論が行われました。
 ムジナの庭は、建築的/植物的/民藝的とさまざまなアプローチを組み合わせたケアのあり方を探求・実践している福祉施設です。昨今のケアをめぐる潮流も踏まえつつ、建築や植物といったユニークな視点も持ちながらムジナの庭を運営してきた鞍田愛希子さんは、これからのケアのあり方についてどのように見ているのでしょうか。後編記事では、前編記事で紹介した鞍田愛希子さんによるプレゼンテーション(ただ「ある」ことを支えるケアへ──「ムジナの庭」から考える|鞍田愛希子)を受けて行われた、参加メンバーによるディスカッションをダイジェストします。
 まず鞍田愛希子さんの議論に対して質問を投げかけつつ、自身の実践と照らし合わせて「教える/教えられる」の関係性について議論したのは、パターン・ランゲージ、創造社会論などの研究者である井庭崇さんです(参考:独創性を目指さない「創造」の話──来たるべき「創造社会」のビジョンを考える)。

パターン・ランゲージ / 創造社会論研究者の井庭崇さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

「お菓子づくりやものづくりをするときに、どのように何をつくるかを決めて、つくり方を教えているのでしょうか?」(井庭さん)

「みんなで相談して何をつくるかを決めるときもありますが、気付いたら、いつのまにかあちこちで試作が始まっています。アイデア豊富なスタッフが多く、パーツとなる作業、たとえばイラストや刺し子、花摘みや撮影をメンバーにしてもらった後で、どんな商品になるか考えはじめることもあります。伝え方に関しては、視覚情報・言語情報・口頭説明など、人によって理解しやすい手段が異なるので、その人に応じて自然と変化させています。具体的には、『モデリング』と言って最初だけお手本を見せたり、マニュアルを共有したりしています」(鞍田愛希子さん)

「なるほど。なぜこの質問をしたかというと、ムジナの庭が『ケア』と『労働』を両立しているのが、研究室での『教育』と『研究』と構造が似ていると感じたからなんです。学生は研究者としては未熟なので指導をしつつ、同時にともに研究を行うメンバーとして関係を築いていくことになる。そのときにうまく機能させるための考え方が、『ジェネレーター』『経験年数のミックス』『得意の持ち寄り』の3つです。

ジェネレーターとは、ムジナの庭のスタッフのように、指導側の立場にありつつ、率先して作業に取り組み、周りを巻き込むような人。経験年数のミックスとは、先輩後輩が同じ場を共有すること。学生組織は入れ替わりが激しいので、一貫した指導方法があるというよりは、後輩が先輩の行いを見よう見まねで実践することで学んでいくからです。得意の持ち寄りとは、各々異なる得意分野を組み合わせて作業をすること。ムジナの庭の活動は、その多様性が高いと感じました」(井庭さん)

「そう感じていただけたのは嬉しいです。(プレゼンテーションで紹介した)パプアニューギニア海産という会社では、あえて先輩による指導を行わないようにしているらしいです。教える/教えられるの関係をつくると、揉め事が起きてしまいますよね。逆に、揉めないコツがあれば教えていただきたいです」(鞍田愛希子さん)

「大学の場合は、先輩・後輩といっても、お互い年齢・学年的にも近く、『ともに取り組む』という感じがまずあります。その上で、長くいる人と最近入った人では経験の差はやっぱりあるので、教える・先導するという役割を帯びるという感じなのだと思います」(井庭さん)

「私もある程度の序列化や、それに対する報酬は必要なのかなと思ったりします。ただ、福祉業界は色々と制約もあり、誰に対しても公平なシステムを確立するのは難しいですね。たとえば最近は『ムジナの庭手帳』という取り組みをはじめようとしていて、これは法人理念の理解度や、作業の習熟度を数値化するものでもあり、最終的にはその人が目指す働き方・暮らし方に届いていく過程を見える化する仕組みとして考えています」(鞍田愛希子さん)

東京都小金井市の福祉施設「ムジナの庭」を主宰する鞍田愛希子さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

目指すはマルチスピーシーズのアジール? ムジナの庭という「場所」について

 施設運営のあり方に注目した井庭さんに対して、ムジナの庭という「場所」への関心を強く寄せたのが、建築家の門脇耕三さんです。

「3年ぐらい前に、この家の原型になった住宅(小金井の家)について、いろいろと話を聞いたことがあります。(設計者である)伊東豊雄さんは芸術家肌だと思われがちですが、小金井の家を建てた1979年には建築の生産上の問題にも意識的で、この家は量産型住宅について考えて建てたものなんです。ハウスメーカーが量産型住宅をつくっている傍ら、建築家は一軒ずつしか家をつくれない時代に、建築家のクリエイティビティをもっといろんな人に届けようと意気込んで設計したと。

その原型だった住宅は結局この一軒しか建たなかったのですが、この建物はプロトタイプとしてよく考えられているんです。たとえば、この柱はある方向には曲がりづらくて、別の方向には曲がるという特性を持っている。通常はどちらか片方の方向に使って、ブレース(編注:鉄骨造の建築物の強度を持たせるために、筋交いのようにタスキ掛けに設ける線状の材)を入れるのですが、互い違いに使うことでブレースがなくせるので、360°好きな場所に窓を取れる。これは、『壁にしてもいいし窓を開けてもいい』というカスタマイズ性を狙っていて、どんな場所であってもこの住宅を建てられる、というのが売りだったのだろうと思いました。

にもかかわらず売れなかったのは、カスタマイズ性が高すぎたからでしょうか。1979年当時は、ハウスメーカーは三角屋根のショートケーキハウスを沢山売っている時代で、ライフスタイルとデザイン過剰な商品をセットにして販売していた。『住宅を買うと、理想のライフスタイルが手に入りますよ』と。でも、この『小金井の家』は、居住者の人にカスタマイズを任せる思想になっているので、そういう意味ではちょっと早すぎたのかもしれません」(門脇さん)

建築家の門脇耕三さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

 一方、鎌倉を拠点にデジタルファブリケーションの研究を行っている田中浩也さんは、ムジナの庭のある小金井という場所に目を向けました。

「まず、この種の活動を『東京』で実践されていることが新鮮に感じました。私の偏見だと思いますが、なんといいますか、郊外の大自然に恵まれた地域で見聞きする活動という印象があったのです。

ムジナの庭の建物も、有名建築家によるものだとはいえ、ある種の工業化の産物と言える作品ですよね。素材で言えば、金属が前面に出ているので、木やレンガを使ったような、人間味がすごく感じられるような空間とは違いますよ。わかりやすく穏やかだったり、温かみが感じられる素材ではないと思うのです。

一方で、こうした工業的な環境のなかに適切な『活動(アクティビティ)』を配置しつつ、周りにある自然環境との『比率』に土地性がある気がします。私自身は『都市と自然』のバランスから、新しい庭づくりのヒントが得られるかもしれないと思って、見ていました」(田中さん)

デジタルファブリケーションなどの研究者の田中浩也さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

 そして文化人類学者の小川さやかさんもまた、門脇さんや田中さんとは別の観点から、ムジナの庭の「場所」性についてコメントしました(参考:タンザニアのインフォーマル経済から考える、これからの資本主義経済のかたち|小川さやか(前編))。

「『開かれていること』と『閉じられていること』が相互転換でき、どちらも選択できる場であることが大切だと思いました。(私が研究している)インフォーマルエコノミーの場も、完全な『共同体』というわけではありません。自律分散しているようなかたちで、来るもの拒まず、去る者追わずという雰囲気でつくられている。

ムジナの庭は、精神病院や刑務所のような『アサイラム』的な場ではなく、『アジール』的で駆け込み寺的な場を目指すべきなのかもしれません。私の研究室の院生で、暴力団離脱者が社会復帰する場としてどのような場がふさわしいか? という研究をしている人がいるのですが、その人の論文によると、『罪が問われなくなることはないが、自由であると同時に保護されている』場に可能性があるようです。

また、マルチスピーシーズ研究では人間と非人間を観察して新しいコモンを見出しますが、『庭』というネーミングから考えると、人間以外の存在にとってもアジールとなるような場がつくれるといいのかもしれません。その意味では、文化人類学者アナ・チンの本『マツタケ』の話が興味深いと思います。荒廃した松林の中で、松と菌が共生してマツタケができ、それが人間社会で勝手に価値づけされて世界中に流通する。資本主義社会の外側で、ひっそりと人間と非人間との間にあるコモンができているんです」(小川さん)

「である」ことと「する」ことのはざまで

研究会にはボードメンバーのみならず、官/民、社会人/学生入り混じった20名近くのメンバーが参加し、それぞれの専門性から議論が行われました

 小川さんの「共同体」に対する言及も踏まえ、ムジナの庭という場所における共同体のあり方について問いを投げかけたのは、「庭プロジェクト」主催者の宇野常寛です。

「(プレゼンテーションでは)『いる』でも『する』でもなく、『ある』ことを実現する場所でありたい、という話がありました。丸山眞男の有名な論考『「である」ことと「する」こと』というのがあります。これに引きつけて考えると、現代では『する』こと偏重の現代にだからこそ『である』ことが許されるコミュニティに回帰する動きが高まっているのかもしれないと感じています。つまり『「である」ことと「する」こと』においては、日本の後進性を指して『する』ことの重要性が説かれましたが、現代では『する』ことは評価経済の負の側面と地続きであるだろうから、『である』ことが見直されていると言えると思います。

ただ、僕のようなコミュニティの苦手な人間はこの流れに違和感があります。僕はコミュニティというものはどうしても中心と周辺があって、主役たちが楽しく過ごす一方で必ず端役や悪役に追いやられる構造が生まれてしまうように思います。だから、僕のようなオタク的な人間は単に何かを受け止めている瞬間が一番幸せだったりする。なので、共同体の『である』ことに正面から回帰することにとても抵抗があります。

この問題をどのように捉えているのでしょうか? 共同体からの『承認』か、自分が成し遂げたことへの『評価』か。そのバランスはどうあるべきかを考えることが重要だと思いました」(宇野)

評論家 / PLANETS編集長の宇野常寛(「庭プロジェクト」発起人)

「たとえば(プレゼンテーションで紹介した)『べてるの家』には、『降りていく生き方』という中核的な思想があり、かつてどこかに所属して地位や名誉、富を得ていたとしても、すでにそれを手放している人が多くいらっしゃいます。共同体による承認に苦しめられてきたからこそ、あるいはそれを手放すことの豊かさや意味を知ったからこそ、本来の幸せのあり方に近付けた方も多いと感じます。『である』ことと『する』ことのいずれにしても、他者が『承認』『評価』を行い、それが人生の全てに作用することに苦しさがあるように思うので、『承認』『評価』する権利を自分自身に取り戻すという練習を、ムジナでも行っています。ムジナでは、副業や兼業しているスタッフや、サービスを併用しているメンバーも多いですが、人は本来、多様性を内包している生き物で、自分の所属する世界や価値観を一つに限定しないことがレジリエンスにも繋がると考えているので、ムジナと同時に他のネットワークを少しずつでも広げていくことを重視しています。

またリアルの場でのコミュニティづくりが重要というご指摘に関しては、オンラインのネット上だけのつながりで満たされることもあり得るとも思っています。いまは重度身体障害者向けに目線だけで遠隔操作できるロボットなども開発され、実際にカフェ店員として働かれている方もいらっしゃり、いずれは肉体的接触がなくても幸福を享受できる状況が、多様に生まれてくるかもしれません。フリースクールの寮母時代、リストカットやオーバードーズなど、自傷行為が頻繁に起こる事がありましたが、そういう子たちや自殺願望がある人たちは、Twitter上でつながっていることがとても多くありました。お互い顔も知らないまま、心の深い部分では一番打ち明け合っているような関係です。ただ、たとえばそういうつながりはInstagramでは生じづらいので、SNSごとの機能や特性を生かしつつオンライン上でのコミュニティをつくることは可能ではないでしょうか」(鞍田愛希子さん)

無心でする掃除は「ある」? 受容体としての状態とはなにか

 二人の議論を受けて、民藝の研究も専門としている哲学者の鞍田崇さんは、鞍田愛希子さんのプレゼンテーションで提示された「『いる』でも『する』でもなく、『ある』」という論点について、さらに深掘りしたコメントを投げかけました(参考:「民藝」の思想的意義──「インティマシー」から考える|鞍田崇(前編))。

「『ある』とはどのような状態なのでしょうか。(研究会の後半で行われた)グループディスカッションでは、人がモノのようになったり、モノが人のようになったりするさま、言い換えれば受容体のような状態を指すのではないか、という話が出ました。以前の研究会で僕が紹介した、河井寛次郎の『​​仕事が仕事をしている仕事』という言葉もそれに近いかもしれません。

ディスカッションでの中で一つ興味深かったのが、ある(研究会の参加者の)方は、休日にスマホの電源を切り、時計も見ずに、半日かけて掃除をするそうなんです。そして、それは『ある』状態に近いのではないかと。何かしら達成があるのは間違いないが、数値的な達成があるわけではなく、完全にコミュニティから孤独なわけでもない。その意味では、料理をはじめとした家事や、修行にも近いかもしれません。そういう仕事に没頭することは、ケアとしての労働にも近いかもしれませんが、社会的に何かを成し遂げることとは、違った達成感がある気がします。

また、『ある』にもいくつかの段階があると思います。(プレゼンテーションで紹介されていた)フェリックス・ガタリが言及した『壺づくり』に没頭するといった経験は『ある』と言えるでしょうが、モノとの関係に閉じてしまいかねない。一方で、ムジナの庭で目指しているのは、感情を発露する先としての外部がある状態、とも言えるかもしれません。

単に自分一人でいるとひたすら思考が続いてしまうので、『ある』でいるためには没入する対象が必要だとすると、それはどのように見つけるべきなのか。ジャン・ウリのエピソードのように、他人に気兼ねなく意見を言えないような集団であればそれは解散すべきだというのであれば、福祉において単なる没入としての『ある』だけでもだめなのではないか。そんなことを考えました」(鞍田崇さん)

哲学者の鞍田崇さん(「庭プロジェクト」・ボードメンバー)

「以前熱海に行った際、水平線が見える場所で、人もモノもほとんど存在しない時間を過ごしたんです。寝室にたくさんモノを置くと、自然と視覚情報が入ってきたり、モノの気配を感じてしまうため、リラックスや熟睡のために良くないと言われますが、モノの存在を感じるだけでも疲れるのだなということをそのとき自覚して、自分の身体が感覚器官だけになれる時間から『ある』というワードが思い浮かびました。『いる』と『する』はある種の緊張状態であって、そこから解放される状態としての『ある』が、人間の心の回復に大切ではないかと。時間帯や場所を選べば、東京でもそんな体験は十分にできると思います」(鞍田愛希子さん)

 その他にも、都市開発に長年携わってきたメンバーから、ムジナの庭の場の性質をまちづくりにおける「余白」の意義、パブリックスペースやコモンズのあり方と関連付けたコメントが出たり、ムジナの庭における「ストレス」との付き合い方についての議論が起こったりと、福祉や建築に限らずさまざまな観点から議論が重ねられました。人間に創造性をもたらす「場所」づくりを進めていく庭プロジェクトにとって、ムジナの庭という、福祉や建築といったジャンルにとらわれない示唆を与えてくれる場所での営みが、大きな可能性をひらいてくれる研究会となりました。

この記事は小池真幸が構成・編集をつとめ、2023年12月28日に公開しました。Photos by 今井駿介 。