ご無沙汰しております。橘宏樹です。国家公務員をしています。ニューヨークに赴任して1年が経ちました。マンハッタンの、とあるオフィスで働いています。

 僕は以前、イギリスに留学していた2014~16年の2年間、PLANETSで「現役官僚の滞英日記」を連載させてもらいました。イギリスの老獪さの秘密を解き明かすことを目標に、毎月、半ば途方に暮れながらも掴んだものを書き綴り、書籍化もしてもらいました。その後もニューヨークに来る直前の2020年9月まで約3年間、「GQ(Governement Curation)」という、あまり報道されないけれど非常に重要な行政の動きを解説する連載をさせてもらっていました。

 そして今回のニューヨーク赴任にあたって、せっかくだから、また何か書かないかと宇野編集長からお声がけいただきました。一応、1年間働いて仕事のペースもつかめてきたところで、任期もまだあと2年はありそうですし、連載を始めることにしました。

▲着陸寸前の飛行機の窓から臨むニューヨーク。セントラル・パークが見えます。

 ニューヨークは、言うまでもなく世界最大の経済・文化の中心都市のひとつです。日本からの観光客も多く、たくさんの日本語の報道やコラムで取り上げられている街だと思います。なので、本連載では、「現役官僚の滞英日記」や「GQ」と同様、なるべくそうした記事とは、角度の異なる内容を書いていければと考えています。時事的なトピックを扱う際も、事実の紹介を踏み越えて、なるべく本質的で普遍的な何かに対する洞察に努めたいですし、なにより、この地で、日本人や日本社会にとって真に学ぶべき何かを掴みたいと考えています。なので、現地で暮らすがゆえに得られる肌感覚を重視した記述が主になると思いますから、自然、語尾は「感じる」「思う」といった主観的な表現が多くなるかもしれません(ちなみに、仕事のことは一切書きません)。

 さて、目下のニューヨークでは、本稿を執筆している1月中旬時点ではオミクロン株が猛威を振るっており、1日あたりの新規感染者数は史上最高値を更新中です。しかし、ワクチン接種者の重症化事例はかなり少ないので、行政は昨冬のようなロックダウンは考えていないようです。街も大勢の人出があります。

 冬のマンハッタンは、クリスマスのイルミネーションがとても美しかったです。ライトアップされた5番街、クライスラービル、エンパイア・ステートビル、ロックフェラーセンターなどをみんながインスタグラムにアップしています。ハイセンスできらびやかです。

 しかし、その足下では、マンホールから立ち上る蒸気のなかを、ボロボロな黒ずくめの服装で無灯火の電動自転車にまたがるUber EatsやAmazonの配達員が、猛スピードで逆走しています。銀行のATMにホームレスが泊まり込み、超巨大トレーラーが狭い路地を横切り、渋滞にいらだつドライバーたちのクラクションは鳴りやみません。地下鉄も落書きやゴミがそこら中に目につき、古くて汚くてあんまり乗る気になりません。都市インフラの老朽化はかなりひどいと思います。映画『ジョーカー』で描かれた「ゴッサムシティ」そのもの。世紀末的な格差社会が広がっています。

 どこから何を学び、どう切り出して、何をみなさんにお伝えしようか、にわかに戸惑うほど、ネタの宝庫です。

▲様々な様式の建築が立ち並ぶ。エンパイア・ステートビルはクリスマス仕様。
▲銀行のATMで寝泊まりする人々

ニューヨークの「力強さ」の秘密を解き明かしたい

 ニューヨークは、政治も行政も経済も文化も、本当に面白いです。ブロードウェイのミュージカルのように、すべてがエンタメなんじゃないかとすら思えるほどに、飽きさせない魅力があります。そして、ニューヨークは、その魅力によってあらゆる人々を惹きつけ、全米のみならず全世界の中心都市のひとつであり続けています。

 この度のパンデミックにおいて、ニューヨークは毎日大勢の死者を出す世界最悪の状況を経験しましたが、比較的短期間で不死鳥のごとく復活しました。この1年間、僕が当地で目の当たりにした経済や社会の回復には、胸をすくような、ダイナミックな「力強さ」がありました。なぜニューヨークにはこのような回復が可能だったのでしょうか。ワクチン接種の急速拡大政策などを展開したクオモ前知事の強力なリーダーシップが大きかった、などと、プロセスを評価・分析することは可能なのですが、僕の関心は、むしろ、ニューヨークは、なぜクオモ氏を知事に選出できるのか、なぜ彼を活かせるのか、といった、もっと根本的な、もっと茫漠とした何かにあります(もちろん、ご承知のとおり、クオモ前知事はセクハラスキャンダル等で訴追された、毀誉褒貶のある人物ではあります)。

 そこで、今回の連載では、ニューヨークのそんな「力強さ」の秘密を解明することをテーマにしていきたいと思っています。

 現時点でおぼろげに抱いている仮説としては、この「力強さ」は、なんというか、ニューヨークでは、問題を解決することに対する苛烈なほどの執着心が、個人や組織や社会に徹底的に沁みついているような印象があることと、関係がある気がしています。

 政治闘争にせよ、企業経営にせよ、個人のキャリアにせよ、なんというか、何か問題が生じた際には、誰がいつどうやってそれを解決するのだ、と一斉に詰問(自問自答を含む)が始まる、というような雰囲気をこの都市は持っているような気がします。仮に自分が優れた問題解決能力を持ち合わせていなくても、我こそが問題を解決できると、とりあえず主張し合う構え、互いに問題解決能力を要求し合う構え、をとらなければ、結果として誰も生き残ることはできない、という暗黙の合意があるように感じています。ある種の「厳しさ」が互いに向き合い、組み合わさることによって、全体合理性が確保される構造が、社会全体の生命力の根幹にあるような印象を抱いています。
 つまり、具体的にはどういうことなのかについては、おいおい連載でエピソードをご紹介しながら、僕自身もこの肌感覚の正体を煮詰めていきたいと思っています。少なくともいま言えることは、僕は、正直、こうした問題解決への情熱が当然視されている雰囲気を、東京で感じたことがほとんどないということ。そして、みなが「まあ、何とかなるだろう」とでも思っているのか、問題から目を背けては、なぜか楽観的に構えて、問題の存在をなんとなく忘れていく、というようなことはニューヨークでは絶対にありえない気がするということ、です。

▲にぎわいが絶えないタイムズスクエア

根拠なき楽観はなく、敗北による悲観もない。

 また、街の持つ「厳しさ」には、「強き者により厳しい」という面もあるように思います。例えばスキャンダルが指摘された政治家や企業や個人は、厳しく詰問を受けることになっても、そこまでのしあがってきている分、メンタルもタフで、カウンセラーも弁護士もいるというふうに、地力もあれば準備もあって、喧々諤々の批判にがっつり対抗していきます。そして、仮に敗北しても、そのプロセスをメディアをはじめ、みんながしっかり見ていますから、ちゃんと闘って言い分を示していれば、誰かが必ず拾ってくれて、次の舞台を用意してくれそうな感じがあります。良くも悪くも、糾弾もまた所詮、競争の一部なのです。しっかり言い分を述べ切ることは、醜い言い訳とばかりは必ずしも言えず、今後の活路を切り開くチャレンジそれ自体とも言えますし、勝者が固まれば、糾弾も弱まる部分もあったりします。

 一方で、「弱いものいじめ」に敏感な部分もあります。そしてそれは、ニューヨークには移民が多いことが理由だと思います。有色人種や進歩派の有力政治家が多く、彼らの長年の政治運動の成果もあって、人権や多様性の尊重が世の中に「厳しく」求められている結果だと思われます。また、よく言われる「分断」によって、むしろ「敵の敵は味方」という考え方が働きやすかったり、「反分断」的な人々の冷静さがしっかり作用したりする結果として、正義の名の下に全世間からの石投げが行われ続ける、というようなことが防がれているのかもしれません。

 もちろん、ニューヨークの職場や学校にいじめはないと言っているわけではありません。ただ、日本では、なんというか、宇野編集長が時折指摘するような「SNS上の石投げ行為」、つまり常に揚げ足取りを行って、たったひとつでも汚点があれば糾弾が延々と続き、その人物の社会復帰自体まで批判されたりするような窮屈さを言論空間に感じることがありますが、ニューヨークでは、こうした喧々諤々の糾弾合戦は、もっぱら強き者たちの間でなされるものであり、しかもそこをなんとか耐え抜きさえすれば、その向こうに、敗者も未来を見出せる希望があるというように感じられます。

「下町」の情

 それから、ニューヨークの持つ、本当に一生懸命やれば、失敗しても、きっとどこかに居場所を見つけられそうな感じを裏打ちする別の要素として、市井に暮らす人々の懐の深さが挙げられると思います。朝な夕なに、ビルの警備員や近所同士が、ちゃんと目を見合って、微笑みながら、「How are you?(よう、元気か?)」「Have a great night !(言い夢見て寝ろよ!)」と掛け合う声には、確かな温かさがあります。赴任当時の僕も、エレベーターでたまたま乗り合わせた人やレジで前後に並んだ人々との何気ない会話や挨拶に、どれだけ救われたことでしょう。人種も年齢も関係ありません。東京人が懐かしみがちな昔の下町の光景は、ニューヨークの高級住宅街のゴージャスなロビーですら日常的に見かけることができます。この街で生きていくことの厳しさを共有しているがゆえでしょうか、所得や人種を超えた優しさや寛容さ、思いやりを感じます。

 総じて、厳しさこそが、優しさを呼び込む。優しさは、厳しさの果実。というように、厳しさと優しさが入れ子状に相互補完関係にあること。根拠なき楽観はなく、敗北による悲観もない日常。それが、ニューヨークという都市自体の活力を下支えしている、ということなのかな、と、1年間過ごしたところで、ぼやっと感じているのが僕の現在地です。

 これからは、この肌感覚の裏付けを具体的に確認していったり、はたまた反証を探したり、またもっと別の「力強さ」の秘密を見つけたり、とあと2年くらいかけて、ニューヨークを解剖していきたいと思います。

▲ブライアント・パークの芝生で憩う人々
▲ブライアント・パークの芝生で憩う人々

ニューヨーク市政への外国人投票権

 ここまで、連載全体のマニフェストをお示ししたところですが、ついでに、もうひとつ是非ご紹介したいトピックがあります。それは、ニューヨーク市の地方政治において、外国人参政権の一部が認められたことです。そこには、パンデミックの影響とリベラル派の政治的な思惑が合わさった、ゲーム・チェンジへのダイナミックな動きがありました。

 2021年12月9日、ニューヨーク市議会は、3つの条件(米国の合法的な永住者または米国での就労を許可されている。連続して30日以上ニューヨーク市に居住している。米国市民権以外の有権者登録に係る資格(年齢等)をすべて満たしている。)をすべて満たす外国人は、ニューヨークの市長、会計検査官、市政監督官、区長、市議会議員に関する予備選挙、特別選挙、一般選挙、決選投票のすべてにおいて投票する権利が与えられる、という条例を可決しました。

 つまり、例えば、日本人の留学生、商社等の駐在員でも、ニューヨーク市長選挙で投票できるようになったわけなのです。

 しかも、こうした移民有権者も米国市民有権者と同じ投票所で投票するとのことで平等に扱われますし、有権者登録用紙は、スペイン語、ベンガル語、韓国語、中国語の翻訳版も作成され、英語の苦手な移民への配慮があります。また、ニューヨーク市の政治に関連する政党に登録することもできます。この移民有権者登録は2022年12月9日から開始し、登録者は2023年1月9日以降のニューヨーク市の自治体の選挙で投票できるとのことです。

 しかし、州や連邦の選挙での投票権は与えられません。また、立候補する権利までは認められていません。ですが、それでも、かなり画期的です(ちなみに日本では、外国人参政権については、ご承知のとおり、学説・判例ともに多くの議論が積み重ねられてきています。現在では、永住外国人に住民投票権を認めている自治体が結構あったりする状況です)。

 特に、僕が注目しているのは、ニューヨークにおいて、移民に市政投票権を与えた人々の「狙い」と「手段」です。

▲マンションに生鮮食品を配達する配達員たち。トラックのそばで順番を待つ。

Uber EatsとAmazonがニューヨークの政治を変えた?

 この条例の提案を主導した、イダニス・ロドリゲス市議は、スピーチで「世界で最も多様性に富んだ都市のひとつであるニューヨーク市の市民には、参政権が適切に与えられなければなりません。それにはまず、地方選挙で投票できる人の範囲を広げることから始める必要があります。 」「ニューヨーク市の移民は、地元企業の半数以上を所有し、市のGDPに1,900億ドル以上の貢献を果たしています。パンデミックの最中もニューヨークを動かしていたのは移民たちでした。第一線で活躍する労働者の半数以上が移民であり、5人に1人が選挙権を持っていないのが現状です。この条例によって、彼らは全員、市政選挙に参加する権利を得ました。グリーンカードなどを持つすべての移民の声がニューヨーク市政に反映されます。私たちはこの街の歴史に新しい章を刻みました。」と述べています。

 確かに、パンデミック下において、移民労働者たちが果たした役割は絶大です。誰も反論できません。ですが、ニューヨークは民主党がほとんど大勢を占める地域で、進歩派も強いです。なので、政治的には、この投票権拡大条例は、進歩派がますますその地盤を固めていくために、明らかに彼らの票田となる移民らを地盤に加えていくチャンスをがっちり捉えたと見るのが正しいと思います。もちろん、外国人資本家をより直接的に政治に動員できるようになるのもメリットでしょう。

 僕が、このニュースに接した時に、最初に思い出したのは、遥か昔、世界史で勉強した、ペルシャ戦争で無産市民の舟のこぎ手が大活躍したので、アテネの民主主義において、政治参加できるようになった、というエピソードです。

船の漕ぎ手として活躍した無産市民の発言力が強まり、アテネ民主政が全盛期を迎える。(世界史の窓)

 パンデミック下のデリバリーで大活躍した移民たちに投票権を与える……2500年経って、また同じことやってるんだ、と驚きました……(そして、2500年前のアテネでも、無産市民への投票権拡大を画策した政治家らの動機は、貴族政の打破など権力闘争だったのだろうな、と思いを馳せました)。

 そして、政治家が、自分の状況を好転させるために、投票者に訴えるのみならず、投票者を増やす、変える、という手を打つという手段を取るということ自体に、僕はとても興奮しました。そうこなくっちゃ、と、ニヤリとさせられるような、ワクワク感を得ました。

 アジェンダ・セッティングが大事、ルール・メイキングが大事、という議論は、経営戦略の文脈でよく語られます。ですが、日本政治ではどうでしょうか。政治家や有権者は、なんとなく、選挙区や地域のしがらみを所与のものとして捉えてしまっているように思います。もちろん、一票の格差是正のために、区割り変更はなされていますし、恣意的にならないよう、中立公正に区割りをしなくてはなりません。それは間違いないです。一方で、デジタル技術はかなり発達しています。エストニアは国土を失っても投票ができるようなシステムを組んでいます。そもそも選挙区という概念が地面に縛られている必要すらない時代に入ってきています。今回のニューヨーク市議会のように、機会を捉えて、選挙のルール自体に手を突っ込もうとする戦略を語る政党がもっとあったら日本政治はもっと面白くなるかもしれない……と思ってしまいました。

 いずれにせよ、パンデミック下におけるUber EatsやAmazonの配達員たちの大活躍と、それを奇貨とした政治家たちによって、ニューヨークの政治は間違いなく大きく変わりました。ゲームのルールを変えました。これからは、移民同士の間で、その人口分布に応じた利害対立・権力闘争がよりはっきり生じてくるかも知れません。世論調査もやり直しです。どうなることでしょう。その是非はさておいて、とりあえず、ちゃぶ台返しが日常的にあり得るこの面白さ、興奮が日本の皆さんに少しでも伝われば幸いです。

[了]

この記事は、PLANETSのメールマガジンで2022年1月19日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2022年3月31日に公開しました。

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