1、ヴァイマルの文芸ネットワーク

 序章で述べたように《世界文学》という概念の発明はもっぱら、一七四九年に生まれて一八三二年に亡くなったヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに帰せられる。つまり、一八世紀ヨーロッパの文化的財産の継承者であり、かつ一九世紀前半にますます世界化してゆくヨーロッパの資本主義社会を生き抜いたドイツの哲人文学者が、《世界文学》に新たな生命を吹き込んだのである。
 二つの世紀にまたがるゲーテの長い人生は、ヨーロッパの大変貌の時代と重なりあっている。近年のグローバル・ヒストリーを牽引する経済史家ケネス・ポメランツは主著『大分岐』のなかで、《一七五〇年》を世界史的な分水嶺と見なした。一八世紀半ばまではヨーロッパも東アジアも、経済成長に関しては並行的な進化を遂げてきた。ポメランツによれば、中国、日本、インドでも「スミス的成長」(商業的農業とプロト工業をベースとする経済成長)が顕著に見られたのであり、ヨーロッパだけが経済的に突出していたとは言えない。しかし、一七五〇年以降、ヨーロッパは豊富な石炭資源とアメリカ新大陸の市場を背景として急速な経済発展を遂げ、アジアをはじめ他地域を圧倒するようになった[1]。このポメランツの興味深い仮説に従うならば、まさに「大分岐」の生じるタイミングで生まれたゲーテは、ヨーロッパの奇跡的な躍進とともに成長した作家であったと言えるだろう。
 ゲーテの世界文学論も、ヨーロッパそのものが世界的存在に成長してゆく状況と連動している。ただ、ゲーテは《世界文学》のアイディアを体系的な論文のなかで熟成させたわけではなかった。それは一七九二年生まれの弟子ヨハン・ペーター・エッカーマンが記録した、一八二〇年代のゲーテの談話に登場する考え方である。

国民文学というのは、今日では、あまり大して意味がない。世界文学の時代が始まっているのだ。だから、みんながこの時代を促進させるよう努力しなければだめさ。(一八二七年一月三一日。以下、年月日を記した引用はすべてエッカーマン『ゲーテとの対話』[山下肇訳、岩波文庫]に拠る)

 偏狭なうぬぼれに陥らないために「好んで他国民の書を渉猟しているし、誰にでもそうするように」推奨していたゲーテにとって、世界文学とは何よりもまず実践的な目標であった。ゲーテは《世界文学》を新時代のミッションとして位置づけ、今後の文学は否応なく国境を越えて流通するだろうし、作家たちはその流れをいっそう加速させるべきだと主張した。このような文学の「自由貿易」のモデルは、作品の販路を拡大させる市場の成立と不可分である。
 ゲーテにとって、文学作品の流通の拡大は、文学の内容にも質的な変化をもたらすものであった。イギリス人、ドイツ人、フランス人がお互いの作品を批評し「補正」しあうことが「世界文学にとっては大きな利点となり、この利点はますます現れてくるだろうね」とゲーテは楽しげに述べている(一八二七年七月一五日)。ゲーテ自身、ヨーロッパ文学はもちろんのこと、中国やアメリカの文芸まで目配りしていた。先に引用した世界文学についての意見も、ゲーテが翻訳で読んだ中国小説(清の『花箋記』と推測されている)への好印象――その自然描写や説話の用い方をゲーテは称賛している――をきっかけとして語られたものである。
 もとより、このような批評や補正をやるには、知識の迅速かつ正確なやり取りが欠かせない。《世界文学》のアイディアが、エッカーマンとのくつろいだ座談の場で語られたことは、このアイディアそれ自体がコミュニケーション環境と一体であったことを示唆している。知識を交換し伝達するのに、ゲーテは談話や書簡というメディアを存分に活用し、それによってゲーテという存在そのものが、世界性を帯びた知の集積回路のように機能することになった。後述するように《世界文学》は一九世紀の新たなコミュニケーション革命を背景としていたのである。
 そもそも、政治の中心都市ベルリンから離れたヴァイマルのゲーテ邸には、王侯貴族だけではなく文芸に関わる翻訳家や業者も、しきりに出入りしていた(ゲーテは都市の喧騒を嫌っていた)。ゲーテはときに、その翻訳業者の浅薄さに強い苛立ちを覚えることもあった。「文学という点では、全くのディレッタントのようだな。というのも、彼はドイツ語などさっぱり出来ぬくせに、早速やるつもりの翻訳やら、その扉に印刷する肖像やらの話をしたりする始末だからね」(一八二七年一月二一日)。しかし、このような一知半解の業者も含めた出版や翻訳のビジネスの隆盛がなければ、世界市場=世界文学も成り立ちようがなかったのは明らかだろう。辺境のヴァイマルは文芸ネットワークの結節点となり、精神の自由貿易をいっそう加速させたのである。

2、通貨としてのドイツ語

 世界文学論の唱えられた一八二〇年代は、出版史上の画期点である。ロマン主義研究の大家であるモース・ペッカムは、紙の原材料不足が綿花によって解消されたことをきっかけとして、一八二〇年代に印刷物の爆発的増加が起こり、それが新たな読者層誕生の引金になったと指摘した。

一八三〇年までに、出版に革命的変化が起こっていた。印刷物はいまや安価で、人類史上初めて、読み書き能力があらゆる階級に著しく浸透していた。イギリスでは人口は四倍に増加していたが、読み書きができる人口は三二倍になったのである。たんに出版業が影響を受けたというだけではない。あらゆる種類のコミュニケーションと紙を媒介とする記録保存のすべて――雑誌、新聞、手紙、そして事業、政府、軍の通信と命令――が、その影響を受けたのである。[2]

 語呂合わせ的に言えば、神ならぬ紙が大衆に知を配信し、出版も含めた通信技術全般の状況を変えたのである。この出版革命とリテラシーの飛躍に後押しされて、一八三〇年代以降、ヨーロッパには中産階級のリーディング・パブリック(読者公衆)が登場するようになった。 
 この新たな公衆の勃興に対して、旧来の知識人は自らが押しのけられつつあると感じ、しばしば強い嫌悪感を示した。イギリスではすでに一八二〇年代に、ある評論家が「文学がヨーロッパのいたるところで全く商売となっていることは恥ずべき悪弊である。これほど堕落した趣味を育て、無知なものに識者にまさる力を与えたものは、これまでなかった」と嘆き悲しんだ。彼らは新興の出版市場のもたらす文学の「堕落」や「無知」に対抗するために、cultureという言葉を導入した[3]。今の日本ではもはや想像しにくいが、文化や教養という言葉には、もともと市場へのアンチテーゼという意味があった。
 とはいえ、反市場的な「文化」を旗印にしたところで、この大規模なコミュニケーション革命を後戻りさせることは不可能であった。ゲーテ自身、知的な仕事が次第に一部のエリートの専有物ではなくなりつつあることを、はっきり自覚していた。彼の自伝『詩と真実』には「誰もが今や哲学的に考えるのみならず、徐々に自らを哲学者と考える資格を与えられた」と明言されている。ゲーテにとって、哲学をやるにはもはや特別な才能ではなく、いわば試験管を扱うような技術があればよかった[4]。つまり、誰でも哲学者になれる時代が訪れたのである。
 このような知の民主化を背景として、文学や思想が世界市場の商品として流通するようになったとき、翻訳の重要性が増したのは当然である。この点で、ドイツには固有の強みがあった。というのも、当時のドイツ語は他言語を媒介する通貨のような役割を果たしていたからである。ゲーテはエッカーマンに対して、ドイツ語がいかに柔軟に、ヨーロッパ諸言語の富を吸収してきたかを雄弁に語っていた。

今、ドイツ語がよくわかれば、他の言葉をたくさん知らなくても済むということも否定できませんからね。フランス語だけは別ですよ。フランス語は、社交用の言葉で、とりわけ旅行のさいには欠かせませんものね。だれでもわかるし、どこへいっても、優秀な通訳のかわりに、フランス語で用が足りますから。しかし、ギリシャ語やラテン語、イタリア語、スペイン語、となると、それらの国の最高の作品は立派なドイツ語訳でちゃんと読むことができる。(一八二五年一月一〇日)

 このような見解はゲーテの次世代のロマン派の文学者たちにも受け継がれた。例えば、ロマン派の旗手ノヴァーリスの考えでは、ドイツ人とは翻訳によって文化を創り出してきた唯一の民族であった。ゲーテ以降の作家たちは、ドイツ人ないしドイツ語の卓越性を、異質なものの貪欲な吸収に認めたのである。ドイツ語の「多面的な受容力」を誇ったアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルをはじめとする優れた翻訳者たちの仕事[5]のおかげで、ドイツ語の市場にはヨーロッパ文学が大量に入り込むことになった。
 もともと、ゲーテは一八世紀フランスのヴォルテールやディドロを高く評価しており、彼らからいかに大きな恩恵を受けたかをしきりに語っていた。そのゲーテがますますその名声を高めるにつれて、今度はフランスやイギリスの作家がゲーテさらにはドイツ語の文芸に対して強い関心を抱くようになる。特に、ゲーテの翻訳者として最も名高く、かつゲーテ本人からも厚い信頼を寄せられていたのが、一七九五年生まれのイギリスの作家トマス・カーライルである。
 カーライルはドイツ文学に精通しており、シラーの『ヴァレンシュタイン』の翻訳やドイツ文芸のイギリスへの紹介は、ゲーテにも高く評価された。『衣裳哲学』で示された彼の屈折の多い文体も、とりわけドイツの作家ジャン・パウルからそのアイロニカルな性格を受け継いでいた。ゲーテはこの四〇歳以上も年下のイギリスの若者と、書簡で頻繁にやりとりするようになった。両者は一度も対面では会ったことがなかったものの、その遠隔コミュニケーションの記録からは、原作者と翻訳者のあいだの親密な精神的同化のプロセスを読み取ることができる。
 後にヴィクトリア朝を代表する批評家となったカーライルは、もともと文学の自律的価値を訴えていたにもかかわらず、ゲーテの死後には神学的・道徳的な立場から苛烈な文学批判に回るようになり、ドイツのエンゲルス――文学の時代はすでに終わったと見なし、政治的行動を賛美した――にも影響を及ぼした[6]。それは、一八二〇年代から三〇年代にかけて続いた老ゲーテとの書簡のやりとりからは予想しにくい「転向」だが、この興味深い問題については後の章で述べよう。ここで注目したいのは、ゲーテがカーライル宛ての書簡のなかで、翻訳の仕事を経済的な観点から説明したことである。

ドイツ語を理解し、また学ぶ人は、あらゆる国民がその商品を持ち寄る市場のなかに身を置いているのです。そして、自分自身を富ましながら、通訳の役割を演じているのです。したがって、あらゆる翻訳者は、この一般的な精神的商業の仲介者として努力し、相互の交換を促進することを仕事とする人と見なされるべきです。[7]

 ここでゲーテはコミュニケーションの通貨としてのドイツ語の利点を語りながら、国民どうしの「相互の交換」を促す翻訳者を「精神的商業」の主要なプレイヤーと見なしている。ゲーテの《世界文学》という理念が、いかに深く経済的なイメージと結びついていたかが、ここからも了解されるだろう。

3、思想としての翻訳

 そもそも、ゲーテ自身、名うての翻訳者であった。一八世紀フランスの思想家ドゥニ・ディドロの傑作小説『ラモーの甥』――哲学者の「私」と音楽家ラモーの甥の対話体小説で、ディドロの生前には刊行されず長く知られていなかった――を見出し翻訳したのは、ドイツ人のゲーテである。哲学者ヘーゲルも『ラモーの甥』をゲーテの翻訳で読み、それをさっそく主著『精神現象学』(一八〇七年)で活用した。シャーマン的な変性意識のモチーフを含んだ『ラモーの甥』が、その受容においてもフランス語からドイツ語へと折り返されたのは興味深い[8]。『ラモーの甥』は単一の言語においてではなく、二つの言語の織り成す襞において奇跡的に生き延びてきた稀有な小説なのである。 
 ゲーテの作品もまた、翻訳の効果を強く受けていた。ゲーテはドイツ語ではもう自作の『ファウスト』を読む気にならないものの「仏訳で読んでみると、全篇があらためてじつに清新で生気に満ちた印象をうけるね」とエッカーマンに楽しげに語っている(一八三〇年一月三日)。そもそも、『ファウスト』は二〇代半ばのゲーテの草稿に始まり、一八〇八年刊行の第一部から、ゲーテ死後の一八三三年刊行の第二部に到るまで、実に半世紀以上にわたって、文字通り何度も転生し続けた異例の作品であった。そこにフランス語版が加わったとき、『ファウスト』は再び「生気に満ちた」若々しさを取り戻すことができた。
 そう考えると、ファウストがまず聖書の翻訳者として現れることは意義深い。一人きりで書斎に閉じこもったファウストは、まるでルターのように聖書のドイツ語訳を試みるが、第一行目の「はじめに言ありき」に対して早くも強い不満を覚える。「もっと別の訳し方」をせねばならないと決意するファウストが「はじめに意ありき」「はじめに力ありき」という訳語を思いつきながらいずれにも満足できず、ついに霊の助けを得て「はじめに行ありき」というしっくりくる訳語にたどり着くシーン(一二二三行以下/『ファウスト』[山下肇訳、潮出版社]の引用は以下行数のみ示す)は、まさに聖書のハッキングの犯行現場と呼ぶにふさわしい。
 こうして、本来は不可侵のテクスト(聖書)ですら、ファウストの翻訳にさらされるうちにそのデータが改竄され、行為を促す新たな命令に置き換えられる。ハッカー的翻訳者としてのファウストはこの「はじめに行ありき」という偽のプログラムに耳打ちされて、新しい人生を探査する冒険へと導かれる。ファウストひいては『ファウスト』という作品そのものにブレイクスルーをもたらしたのは、別の生を開く翻訳の実践なのである。
 だとすれば、とりわけドイツ語の環境においては、翻訳そのものが根源的な思想であり批評運動であったと言わねばならない。そのことは、ゲーテの後輩である詩人フリードリヒ・ヘルダーリンの仕事からも分かる。ヘルダーリンは古代ギリシアの劇作家ソフォクレスの翻訳に取り組んだが、それはギリシア語を逐語的にドイツ語に置き換えようとする荒業を伴っていた。そうすると当然ドイツ語としては破格のものになるが、それによってかえってドイツ語の表現には新しい局面が開かれた。
 後にヴァルター・ベンヤミンは翻訳を「死後の生(Fortleben)」を指し示す行為と見なしながら、ヘルダーリン的な逐語性を「アーケード」と評し、それが原文の意味ではなく「純粋言語」を伝達しようとする特異な試みであると指摘した[9]。つまり、ベンヤミンにとって、ヘルダーリン的翻訳とは、言語を言語たらしめる根源的な何かを抽出し、それをテクストからテクストへと送り届けるアーケード=通路にほかならない。これはいささか神秘的な見解であるとはいえ、たんなる意味の表現には回収されない特別なコミュニケーションを翻訳に見出したのは、ヘルダーリン=ベンヤミンの大きな功績である。
 かたやゲーテにとっても、翻訳は作品に「死後の生」を贈与することに等しい――まさに『ファウスト』がフランス語訳によって新たな生を得たように。ただし、ヘルダーリンとは違って、ゲーテは無謀な逐語訳にはこだわらなかった。メディア理論家のフリードリヒ・キットラーが注目したように、ゲーテはむしろ、詩を散文に訳してもなお残り続けるものにこそ価値を見出した[10]。ゲーテ的翻訳においては原文の正確さはある程度犠牲になるが、それが失われた後でも残るものがゲーテにとっては本質的なのである。
 そう考えると、ヘルダーリンではなくゲーテが《世界文学》の提唱者になったことには十分な理由があるだろう。ゲーテは通貨としてのドイツ語を用いて、まさに「言説の配信」(キットラー)としての翻訳のプロジェクトに積極的に関わった[11]。国外に翻訳=配信される作品が増えれば増えるほど、精神の交易もいっそう盛んになる。ヘルダーリン的翻訳が純粋言語を通過させるアーケードを築くことだとしたら、ゲーテ的翻訳はいわば、意味や価値のやりとりされるグローバルな配信プラットフォームを組織することに近かった。

4、《ゲーテ》の制作――郵便局と事務局

 このように、ゲーテの言説を読み解いていくと、各国の作品が相互に翻訳=批評される世界文学の時代が、一種のコミュニケーション革命の時代でもあったことが浮かび上がってくる。なかでも、ゲーテとカーライルの往復書簡は、コミュニケーション史やメディア論の文脈においても特別な位置を占めている。なぜなら、彼らはともに当時の郵便システムに依拠していたからである。 
 精神=商品の交易を成り立たせるのに、郵便というインフラは欠かせなかった。例えば、カーライルに対して「現在のように本や雑誌がいわば速達便で諸国民を連絡する時には、聡明な旅行者などはこの点ではほとんど役に立ちません」と書き記したゲーテは、思想が対面的コミュニケーションなしに、郵便物として高速で流通する状況を鋭く言い当てている[12]。さらに、カーライルも精密化された郵便システムの恩恵にあずかっていることを自覚していた。

こわれ易い物が見知らぬ国々や喧騒を極める都市や荒海を越えて、大陸の奥地からこんな荒野までも達しうるのは、まったくこの完全な輸送手段のおかげです。もっと不思議なことは、私たちが現代で最も尊敬する精神から、愛情の声が、いかなる意味においても遥かにへだたっている者へ伝えられうることです。六年前には、ゲーテから私へ手紙や贈物をいただくなどという可能性は、シェイクスピアやホメロスから送られるのと同じくらい、奇蹟であり夢であると私は思っていました。[13]

 カーライルは後に産業社会を批判し、英雄崇拝論を掲げるようになるが、その主張こそが、ゲーテのような異国の英雄の「声」を輸送する郵便産業のもたらしたものである。カーライルにとって、ゲーテとの文通はシェイクスピアやホメロスとの文通に等しい奇蹟であった。郵便システムを利用した遠隔コミュニケーションは、対面では決して聴くことのなかったゲーテの「声」をいっそう神秘化したのである。
 そもそも、ゲーテはその出生のときから郵便システムに取り憑かれていた。というのも、彼のフランクフルトの生家は、数世紀にわたってヨーロッパの郵便事業を導いてきた大企業トゥルン・ウント・タクシス――そのパイオニアである貴族フランツ・フォン・タクシスはしばしば同時代のコロンブスと並び称される――の大邸宅に隣接していたからである。タクシス郵便は巨万の富を築き、ヨーロッパの郵便システムそのものの模範となった。後に『詩と真実』でも、ゲーテは「タクシス郵便はきわめて迅速に配達し、開封されることもなく、郵送料はあまり高くなかった」とその効率性や信頼性を賞賛している。「手紙の時代」と呼ばれるほどに書簡熱が高まった一八世紀に生まれたゲーテは、まさに郵便システムの申し子であった。
 しかも、郵便システムの発達は、たんに遠隔地との文書的なコミュニケーションを可能にしただけではなく、世界市民たちの「精神」のハーモニーを物質的に実現するという壮大な野心をも生み出した。興味深いことに、タクシス家はゲーテや皇帝ヨーゼフ二世と同じく、「兄弟のようにひとつになった世界市民的な夢」を抱くフリーメイソンに傾倒しており、トゥルン・ウント・タクシスの手掛けた多くの文化事業(郵便部門に限らない)はこのフリーメイソンの理想と内的に連関していたことが知られている[14]。ゲーテの世界文学論にフリーメイソンの痕跡を見出すことも、あながち不可能ではないだろう。
 ゲーテが生きていたのは、精神が翻訳されるだけではなく、物質的な郵便として送受信されるようになった時代である。この時代には、世界市民的な夢は郵便のインフラに寄生して増殖する。ドイツのメディア理論家ベルンハルト・ジーゲルトによれば、「ゲーテの郵便帝国」においては、手紙と精神がほとんど同一のものとなり、手紙を受け取った読者は作者の内なる精神のピースを分有することになった。流通する手紙は「作者からのフィードバックを経由した精神の鏡」となったのである[15]。翻訳者カーライルが感激したのも、まさに遠方の英雄のフィードバックが実際に行われたという事実によってである。
 もとより、この郵便的なフィードバック・システムは、決してゲーテが独力で構築したものではなかった。ゲーテの書簡の相手を時系列で見ると、当初はヴァイマルの有名な女性文人シャルロッテ・フォン・シュタインや、ヴァイマル古典主義を牽引した盟友であるフリードリヒ・シラーとのやりとりが目立つが、次第に、気の置けない友人の音楽家カール・フリードリヒ・ツェルター(フェリックス・メンデルスゾーンの師)や異国のカーライルとのやりとりが多くなってゆく。ゲーテが卓越した作家としてブランド化されたのは、この人的ネットワークのなせる業であった。ベンヤミンはまさにそのことを鋭く指摘している。

地元ヴァイマルでは、詩人[ゲーテ]は徐々に協力者や秘書の一大グループを作りあげた。彼らの協力がなかったならば、彼が晩年の三十年間に整理編集した、あの厖大な遺産となる言葉の数々は、決して確保されえなかったことだろう。最終的に詩人は、まさに中国式に、自分の全人生を〈書かれたもの[シュリフト]〉というカテゴリーのもとに置いたのだ。エッカーマン、リーマー、ソレ、ミュラーといった補佐役をつとめた人びとから、クロイターやヨーン等の書記官に至るまでを擁した、一大文献・雑誌整理用事務局は、この意味において捉えられねばならない。[16]

 ゲーテはヴァイマルの協力者たちを一種の記録装置として組織し、放っておけば虚空に消えてゆくだけの自らの言葉を、逐次書き取らせた。対話や書簡の類をゲーテほど多く残した作家はほとんどいないが、この巨大な文学資本は、秘書エッカーマンを中心とする「一大文献・雑誌整理用事務局」の仕事の所産である。この優秀な事務局の取りまとめた文献的遺産が、偉大な世界市民ゲーテという賢人的なイメージの形成に寄与したことは、想像に難くない。その意味で、われわれが知る《ゲーテ》とは集団制作された作品なのである。 
 ベンヤミンが言うように、ゲーテは文人としての自己を「書かれたもの」に集中させ、翻訳を通じてそのテクスト群の価値を高めたが、それは資本の蓄積や増殖とよく似ている。ヴァイマルにはゲーテやその友人たちのテクストが集まり、それが財となって国境を超えて交換された。この文学資本の膨張は、フローを司る郵便局(=テクストを送受信するシステム)とストックを司る事務局(=テクストを整理・編集するシステム)抜きにはあり得なかった。この点で、ゲーテには二一世紀の情報産業の先駆者としての一面がある。

5、エッカーマンのコラージュ

 このヴァイマルの「一大文献・雑誌整理用事務局」の中枢で、ゲーテとの会話を事細かに記録した秘書のエッカーマンも興味深い人物である。『ゲーテとの対話』の序文によれば、エッカーマンは幼少から絵が得意であり「感覚的模写の衝動」を備えていた。彼の巧みな模写の技術によって、一八二〇年代の老ゲーテの精妙なコピーが制作されたのである。エッカーマンは敬愛するゲーテの語りの様子を模写し、配列し、そのかけらを組み合わせ、いわばモンタージュ写真のように一個の偉大な人物を描き出した。 
 メディア史の見地から言えば、出版革命が推し進められた一八二〇年代は、ちょうどカメラ・オブスクラの画像を定着させる実験がなされていた重要な時期でもある。フランスの化学者ニセフォール・ニエプスがこの時期に写真制作に成功した後、同じくフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールがいわゆる「ダゲレオタイプ」(銀板写真)を一八三九年に発明したのを機に、写真の普及が進んだ。ゲーテは一八三二年に亡くなったからダゲレオタイプを目にする機会はなかったものの、彼が本格的な複製技術時代の訪れる前夜にいたことは重要である。
 絵画的な模写の能力に富んだエッカーマンは、ダゲレオタイプの現れる直前に、いわば一点もののゲーテの肖像を制作した。その記録は研究者にもさほど疑われることなく、ゲーテ本人の考え方を正確に再現したものとして受け取られている。これが意味するのは、ゲーテの複製が本物のゲーテとして――あるいは本物以上に本物らしいゲーテとして――堂々と流通したということである。しかも、この唯一無二の文学的肖像画において、エッカーマンはゲーテの遺体と対面した折のことまで詳細に記録している。

私は、その四肢の神々しいまでの美しさに目をみはった。胸は実にたくましく、幅広く、そして盛りあがり、腕と腿はともに肉づきがよく、やわらかだった。足は上品で、なんともいえぬよい形をしており、身体中どこにも、脂肪ぶとりや、やせすぎや、衰弱した跡はみられなかった。ひとりの完全な人間が大いなる美しさをひめて私の前に横たわっていた。(一八三二年)

 エッカーマンは心ここにあらずという状態に陥ることも多く、ゲーテには「劇場にいるときのほかは、いつも心がどこかへ行っているのだからな」(一八二八年一〇月一一日)とからかわれていた。死せるゲーテを前にしたときも、このうっとりしやすい弟子は神々しい遺体にすっかり心奪われ、それを英雄の彫像のように崇め奉り、まるでゲーテを冷凍保存するかのように詳細に描写している。このいささか不気味な光景からは、ゲーテに関係するあらゆる機会を逃すまいとするエッカーマンの執念を読み取ることができるだろう。 
 興味深いことに、エッカーマンの記録の仕方は、ゲーテ本人の文学観ともよく符合する。「詩はすべて機会の詩でなければならない」と断言するゲーテによれば、詩人の価値は「平凡な対象からも興味ふかい側面をつかみだすくらいに豊富な精神の活動力を発揮」するところにある(一八二三年九月一八日)。そのつどの対象との出会いという「機会」を利用して、より普遍的なものを制作する――そのような俊敏な精神の能力にこそゲーテの考える詩の本領があった。エッカーマンもまさに「機会の詩」を作るようにして、語るゲーテの複製を丹念に制作し続けた。
 むろん、偶然の機会を利用する以上、それは前もって計画されたものではあり得ない。ゆえに、エッカーマンの描くゲーテは、断片的なイメージを組み合わせたモンタージュに近くなる。ここで重要なのは、ゲーテ自身が文学の制作において、そのような断片の組み合わせを許容していたことである。

6、ゲーテのレディメイド

 ゲーテの考えでは、詩の素材は借り物であっても構わない。それどころか、素材があらかじめ与えられているときには「時間とエネルギーのロス」は少なくて済むのだから、彼はむしろ「既成の作品を対象とすること」を推奨する(一八二三年九月一八日)。彼にとって、このような省力化は文学全般に適用できるテクニックであった。ゲーテは文学の素材についてはオリジナリティよりも「使い方が正しいかどうかということだけが問題なのだ」と大胆に割り切り、次のように述べている。

バイロン卿の変形した悪魔は、メフィストーフェレスの延長だが、それはそれでけっこうさ! もし彼が、一風変った気まぐれから横みちにそれようとでもしようものなら、もっと出来の悪いものになってしまったにちがいない。その私のメフィストーフェレスも、シェイクスピアの歌をうたうわけだが、どうしてそれがいけないのか? シェイクスピアの歌がちょうどぴったり当てはまり、言おうとすることをずばり言ってのけているのに、どうして私が苦労して自分のものをつくり出さなければならないのだろうか? だから、私の『ファウスト』の発端が、『ヨブ記』のそれと多少似ているとしても、これもまた、当然きわまることだ。私は、そのために非難されるには当たらないし、むしろほめられてしかるべきだよ。(一八二五年一月一八日。表記を一部変更)

 この興味深い談話は、二〇世紀のマルセル・デュシャンの「レディメイド」のアイディアを彷彿とさせる。ゲーテはここでオリジナリティの神話を拒絶し、できあいの記号のコラージュでも十分に立派な作品を作れるし、そうするのは当然だと断言している。ゲーテ自身が言うように、このレディメイドの技術は彼が心血を注いだ『ファウスト』で存分に発揮された。 
 主人公のファウストからしてドイツの伝説的な錬金術師であるのは当然として、それ以外にもこの作品は多くの借用物で成り立っている。例えば、ブロッケン山を舞台とした、第一部の有名なヴァルプルギスの夜の夢の場面では、シェイクスピアの『真夏の夜の夢』のオーベロン、チターニア、妖精パック、同じく『テンペスト』のアーリエルが現れて、おしゃべりを始める。このヴァルプルギスの主題は、第二部になると舞台をファルサロスの古戦場に移し、怪物スフィンクスやグリフィン、古代ギリシアの哲学者アナクサゴラスやターレス、プロテウスらがそこに次々と登場する。ゲーテは古代からルネッサンスの怪物や人物をコラージュしながら、時空を故意に錯綜させ、過去の霊的なものたちとのコミュニケーションを企てた。
 この奇怪な存在たちのなかの極めつけは、フラスコ内に入ったホムンクルス――ファウストに密かに「教養俗物」と酷評されている助手ヴァーグナーの生み出した人工生命――である。ゲーテは過去の神話を呼び覚ます一方、すでにルネッサンス期のパラケルススの著作で描かれていたこの怪物的存在も作中に招き入れた。天上で「主」となれなれしく会話するメフィストが人間以前の霊だとしたら、ホムンクルスは明白に人間以後の存在であり、身体をもたないにもかかわらず、ターレスやプロテウスらを相手に饒舌に口をきく。この人間的な規範を外れたものの登場が、『ファウスト』に未来的な相貌を与えたのは間違いない。
 古ぼけた書斎という牢獄から逃れ、美と愛を求めながら、世界の奥底で働く「力」を見定めようと遮二無二前進し続ける第一部のファウストは、近代人の典型である。それに対して、第二部のファウストは時空の迷宮に入り込み、ホムンクルスのようなポストヒューマンな不気味なものたちに横切られる。その意味で、『ファウスト』は近代文学の一つの頂点でありながら、同時にポストモダンの到来を予告した作品だと言わねばならない。そして、この先見性はレディメイド的手法によって支えられていた。

7、加速主義者ファウスト

 世界文学=世界市場の時代においては、時間こそが有用な資源となる。文学のみならず政治や自然科学研究にも参与し、日々多忙をきわめていたゲーテにとって、時間やエネルギーのロスを減らすことは切実な問題であったのだろう。エッカーマンらを要員とする「一大文献・雑誌整理用事務局」のシステムや、文学上の速記法とでも言うべきレディメイド的手法は、この時間不足に対応する工夫であったと考えられる。 
 商品としての文学は、たんに読まれるのではなく、迅速に読まれてシェアされる。まさにゲーテこそが、文学の急速な感染拡大を促した張本人であった。彼の初期の代表作『若きウェルテルの悩み』(一七七四年)――自殺したウェルテルの残した書簡を、ゲーテが編集したという体裁で書かれた――は、またたく間にヨーロッパの文芸世界に広がり「精神的なインフルエンザ」と呼ばれる人気を博し、多くの自殺者も生み出した。ウェルテルは愛するロッテにラブレターを送り続けるが、それに伴って心の病状が悪化する。ウェルテルの手紙そのものにいわば精神的なウイルスが付着しており、それが文芸読者のあいだにも「死に到る病」の集団罹患を引き起こした。
 そもそも、ゲーテの世界認識そのものに病理的なモデルが根を張っていた。「理性の高みから見おろせば、人生全体が悪性の病のように見え、世界は精神病院のようだ」とシニカルに述べたゲーテが、たびたび知の限界というモチーフをドラマに組み込んだのも不思議ではない[17]。それは『ファウスト』に書き込まれた、おぞましいペストの記憶からもうかがえる。若きファウストは錬金術師であった父とともに、ペストの治療にあたったが、父の化合した薬は「ペストよりもっと恐ろしい害毒」となり、何千という患者の命を奪った。このトラウマ的な失敗こそが「人は役にも立たないことばかり知っていて/肝心の必要なことは、何も知らない」(一〇六六‐七行)という絶望へとファウストを導くことになる。
 だからこそ、ファウストにとっては、既存の知のかなたにいる霊的なものたちこそが真の「力」の源泉となる。この無尽蔵の霊たちの力に導かれた彼は、いわば留保なき加速主義者として描き出される。メフィストに「時間よ止まれ、お前は美しい」という人生の終わりの合図を告げるまで、霊に憑依されて休みなく前進し続けるファウストについて、現代ドイツの作家マンフレート・オステンは次のように評している。

ついに《不安》によって没落への黙示録的シナリオが動き出す。《不安》はファウストを落ち着きのない立案者に変貌させ、失明したファウストは大規模な干拓事業の幻想へと駆り立てられていく。「考えたことを急いで完成させなければ」。この時点でファウストはすでに永遠に加速する仕事および生活環境という自分で作った檻に閉じ込められている。彼は現代のもはや制御不可能なプロジェクト、そしてマックス・ヴェーバーが不信の念を抱いていた労働社会の起点に立っている。[18]

 聖書をハッキングして「はじめに言あり」を「はじめに行あり」に改訂したファウストは、第二部では不安に駆られる拙速なアントレプレナー(起業家)となり、失明した後にも耕地を広げるための干拓事業の夢に憑かれる。この文字通り盲目的なプロジェクトに対して、ゲーテはひどく皮肉な結末を与えている。死期の近づいたファウストは、亡霊たちが自身の墓穴を掘る音を、ダムや防波堤を築く鍬の音と勘違いしてしまうのだ。 
 興味深いことに、『ファウスト』の書かれた一九世紀前半は、ヨーロッパの時間意識そのものが大きく変わりつつあった時代であった。思想史家のラインハルト・コゼレックは、一七五〇年から一八五〇年までをヨーロッパ精神史における重大な「端境期」と呼んでいる(これがポメランツの言う「大分岐」の時期と重なることは注目に値する)。この時期のフランス革命やナポレオン戦争の激震を経て、フリードリヒ・シュレーゲルら思想家たちは過去との隔たりをいっそう強く感じるようになった。過去との不連続性が際立ったせいで、あらゆる出来事が「新しいものの容赦なき繰り返し」として了解される傾向がはっきりしたのである[19]。
 ゲーテ自身は近代の悪魔的加速に対して、アンビヴァレントな態度を保っていた。彼が隣国のフランス革命の急進的な成り行きを批判したことにも、その態度が示されている。エッカーマンの記録を信じるならば、ゲーテは「私がフランス革命の友になりえなかったことは、ほんとうだ。なぜなら、あの惨害があまりにも身近でおこり、日々刻々と私を憤慨させたからだ」と語り「故意に企てられた革命」は成功しないと断言していた(一八二四年一月四日)。その一方、翻訳家と思想を速達でやりとりしていたゲーテ自身が、技術的な進歩の恩恵にあずかっていたことは明らかである。
 そう考えると、加速主義者ファウストがいつしか時間の迷宮のなかに入り込み、深刻なダメージを負うのは象徴的である。彼は新世界を「眼」によって把握しようとする視覚的存在であったが、悪魔的加速に巻き込まれた挙句、ついにその眼は光を失う。それに対して、生を得る直前のホムンクルスは、何一つ経験せず、何も知覚できないのに、哲学者のターレスらにあれこれと指図して行動を促す思考プログラムである。ゲーテ自身、エッカーマンに対して、この瓶のなかで光る物体であるホムンクルスが「千里眼的な精神力」と「活動への傾向」を兼ね備えていることを強調した(一八二九年一二月一六日)。視覚的存在としてのファウストではなく、生の手前にいながらにして生を模倣するホムンクルスこそが、加速する時代の適応者なのである。

8、人間外の空白地

 過去を切り離す近代のカオス的時間意識は、人間のあり方にもショックを与えずにはいない。実際、ゲーテにおける「人間的なもの」は矛盾とアイロニーによって引き裂かれていた。 
 本来ゲーテにとって、普遍的人間性の確立は最重要の課題であった。例えば、ギリシア神話の王女を主役とした彼の戯曲『タウリスのイフィゲーニエ』(一七九〇年)についても、ゲーテは「まったくべらぼうに人道的」な作品に仕上げようとしたと述べている。ここには、人間を神々の力から解放し、その尊厳を確立しようとする近代的知識人の姿があるが、にもかかわらず、この『イフィゲーニエ』には「人間的なもの」の不毛さが呪詛のように書き込まれていた[20]。
 ゲーテの描く人間像には明らかに亀裂が走っているが、それは実は当のゲーテ自身にも当てはまる。トーマス・マンはゲーテについてこう鋭く評した。

[ゲーテの]友人たちは繰り返し、口をそろえて、人を不安な気持にさせる印象について語っているのです。これは、心情細やかというよりはむしろ皮肉で奇怪な、肯定的というよりはむしろ否定的な、明朗というよりはむしろ諧謔的な、彼のプロテウス的性格によって惹き起こされるものです。この彼のプロテウス的性格は、あらゆる形態に変化し、あらゆる形態をとってたわむれることができます。そしてまた最も矛盾した見解をもとりあげ、承認することができたのでした。[21]

 先述したように、ゲーテの亡骸を臨検したエッカーマンも、その堂々とした体躯に「完全な人間」を認めていた。しかし、その人間のなかの人間であるはずのゲーテは、ギリシア神話に登場する海の老人プロテウスのように無節操な変身を重ねてゆく、まさに人間離れした人間でもあった。 
 興味深いことに、ゲーテ自身も、人間の領分の外へと崩落しかねないという不気味な予感を抱いていた。一七世紀後半の画家フィリップ・ペーター・ロースによる羊の絵を見たゲーテは「このかたくなな、愚鈍な、夢でも見ているような、あくびでもしているような羊のありさまをみると、自分までその動物に対する共感にひきこまれてしまい、自分も同じ動物になってしまうのではないかと恐ろしく」なると告白している(一八二四年二月二六日)。ゲーテは動物の記号に魅惑され、うっかり動物に変身してしまうことを極度に恐れた。だが、この異常に鋭い共感の力がなければ、ゲーテは到底『ファウスト』の作者にはなれなかっただろう。
 そもそも、『ファウスト』の根本的なテーマは、自己と他者の交換にある。既存の学問にすっかり幻滅したファウストは、自分自身をしきりに何か別のものと交換しようとするが、地霊には「自分とは似ても似つかぬ」と拒絶され、ひどく打ちのめされた挙句、メフィスト――最初は黒いムクイヌとして、次には旅の学生として出現する――の誘惑に乗って、自分の命と引き換えに未知の冒険へと乗り出す。「私はたえず否定を事とする霊です!」と宣言し「何も生まれないほうがまし」(一三三八~四一行)とシニカルに言ってのける反出生主義者メフィストは、自らをファウストとカップリングして新たな合成的存在へと生まれ変わる。このメフィスト‐ファウスト同盟は、自己を自己ならざるものへとたえず引き渡しながら、失敗を恐れずに前進し続けるのだ。
 この果てしない「変身」の物語に並々ならぬ関心を抱いていたのが、若きマルクスである。マルクスはシェイクスピアの『アテネのタイモン』と並んで、『ファウスト』を経済的な寓話として読み解いた。マルクスの考えでは、メフィストのセリフ――「わたしが馬六頭分の代金を払えば、/その馬力はわたしのものになる。/駆け出したとなると、二十四本もの脚をもつ/立派な男というわけだ」――は、倒錯した神としての貨幣の本質を説明している。

わたしがある料理を食べたいと思ったり、道を歩いていくだけの元気がなくて駅馬車を使いたいと思うとき、お金があればその料理や駅馬車を調達できる。つまり、お金はイメージとしてあるわたしの望みを変化させるわけだ。思考され、イメージされ、意志された存在を、感覚的で現実的な存在に移しかえ、イメージを生活に、イメージされた存在を現実の存在に移しかえる。[22]

 ここでマルクスが言うように、貨幣は無限の変身能力をもつ――例えば、この一万円札は食事にもライブのチケットにも家具にも変身できる(守銭奴とはこの貨幣の変身能力そのものに取り憑かれて、それを行使しようとしない倒錯者である)。メフィストとカップリングされたファウストは、まさに貨幣のように、内なる望みを次々と外化して、マルクスの言う「感覚的で現実的な存在」へと移し替える。 
 では、この「望み」の拡大は何をもたらすのか。マルクスとエンゲルスの『共産党宣言』(一八四八年)は後に、この欲望の世界的拡大こそを《世界文学》の名で呼んだ。彼らによれば「個々の国々の精神的な生産物は共有財産となる。民族的一面性や偏狭は、ますます不可能となり、多数の民族的および地方的文学から、一つの世界文学が形成される」[23]。
 この人類の共有物としての世界文学という共産主義的なアイディアが、ゲーテに由来しているのは明らかだろう――というより、多言語に翻訳され、そのつどそこにマルクスとエンゲルス名義の序文が重ね書きされた『共産党宣言』というパンフレットそのものが、一九世紀に最も多くシェアされた《世界文学》の一つなのである。ゲーテの世界文学論は、マルクスとエンゲルスにおいて精神の「コモンズ」(共有地)の思想として読み替えられたと言ってもよい。
 望みが次々と商品として外化され、トランスナショナルに流通し、人類共有の財産になってゆく――ゲーテとマルクスはともに、それがいかに劇的な出来事であるかを理解していた。そして、この欲望の拡大は、やがて加速主義者ファウストその人をも置き去りにして、ホムンクルスのような意図せざる存在を生み出す(この点で、ホムンクルスの制作者がファウストではなくヴァーグナーであるのは重要である)。この新種の存在はもはや人間の領分に収まるものではない。海豚に乗ったホムンクルスに対して、プロテウスは次のように助言する。

ただし、あまり高級な種族になろうと焦っちゃいけない、お前が人間になってしまったら最後、それでお前は完全にストップだからな。(八三二九行)

 『ファウスト』の錯綜する時空において、人間の完成はすでに世界の終極的な目的ではなくなっている。ただ、人間を超えた存在が強く予感されるにしても、それが具体的に何なのかを言い当てることは困難である。ホムンクルスとはこの不気味な空白地帯に与えられた別名にほかならない。

 以上のように、ゲーテのテクストには、近代社会の孕む諸問題が書き込まれていた。繰り返せば、優秀な事務局と郵便局に支えられ、世界文学を留保なく推し進めよというフリーメイソン的命令を発したゲーテは、一九世紀のコミュニケーション革命を背景としながら、グローバルな精神的交易の未来に賭けた作家であった。しかし、近代の悪魔的加速は、ゲーテの文学の中核にあった「人間的なもの」に深い亀裂を走らせることになる。 
 とりわけ、プレモダン=プレヒューマンな霊メフィスト、モダン=ヒューマンな企業家ファウスト、ポストモダン=ポストヒューマンな人工生命ホムンクルスの三者の織り成す『ファウスト』のドラマは、そのまとまりのない構成も含めて、人間的なものの亀裂を覆い隠すどころか、むしろ露呈させるものとなっている。メフィストという「否定」の霊に導かれる『ファウスト』において、自己は自己ならざるものに、人間は人間ならざるものにたえず横切られ続ける。その果てしのない「交換」が、ホムンクルスに代表される異物たちを創造したのである。
 してみると、ゲーテはまさに世界文学の建築家と呼ぶにふさわしい作家、つまり近代文学を動かすプログラムを大量に内包した作家であったと言えるだろう。この建築物を観察してきたわれわれは、世界文学のアーキテクチャを考える暫定的な足場を得ることができた。次章以降は、このアーキテクチャの構成をより詳細に捉えるために、さらに時代をさかのぼって考察することにしよう。

[1]K・ポメランツ『大分岐』(川北稔監訳、名古屋大学出版会、二〇一五年)。
[2]モース・ペッカム『悲劇のヴィジョンを超えて』(高柳俊一他訳、上智大学出版、二〇一四年)一八頁。
[3]レイモンド・ウィリアムズ『文化と社会 一七八〇‐一九五〇』(若松繁信他訳、ミネルヴァ書房、一九六八年)三九-四〇頁。
[4]カール・ベッカー『一八世紀哲学者の楽園』(小林章夫訳、上智大学出版、二〇〇六年)五二頁以下。面白いことに、ゲーテの親世代にあたるカントは一七九六年の論説で、哲学という言葉がイージーに使用され「哲学という名称の装飾的な使用がモード」になっている状況に嫌味を言っている(「哲学における最近の高慢な口調」『カント全集』第一三巻、岩波書店、二〇〇二年所収)。カントからゲーテに到るまでに、哲学者の資格の捉え方が大きく変わったことは注目されてよい。
なお、この時期の「哲学の装飾的な使用」という観点から言えば、一七九五年に出たサド侯爵の『閨房哲学』以上に興味深い作品は少ない。この小説は、道徳的な若い女性に性教育を施し、悪徳に回心させるという趣旨のもと、三六歳のドルマンセをはじめとする若い男女四名の対話劇として展開される。哲学対話の場としての閨房――それは性と政治、快楽と暴力を混ぜあわせながら、哲学的言説に悪ふざけの要素を浸透させる。例えば、サドはそこに「フランス人よ、共和主義者になりたければあと一息だ!」という有名なアジテーションの文書を挿入しているが、これは当時の政治的なパンフレットのパロディとして読み解ける。この生気(性器?)溌溂とした「傍若無人の悲喜劇」のもつサタイア(諷刺)的性格については以下が詳しい。John Phillips, Sade: The Libertine Novels, Pluto Press, 2001, chap.3.
[5]アントワーヌ・ベルマン『他者という試練』(藤田省一訳、みすず書房、二〇〇八年)二六頁以下。
[6]ペーター・デーメツ『マルクス、エンゲルスと詩人たち』(船戸満之訳、紀伊國屋書店、一九七二年)五七頁以下。
[7]『ゲーテ゠カーライル往復書簡』(山崎八郎訳、岩波文庫、一九四九年)一五‐六頁。訳文は一部変更した。
[8]グローリア・フラハティ『シャーマニズムと想像力――ディドロ、モーツァルト、ゲーテへの衝撃』(野村美紀子訳、工作舎、二〇〇五年)の推測によれば、ディドロはロシアの女帝エカチェリーナと交流する一方、ロシアのシャーマニズム関連の文献も読み込んでおり、その情報を『ラモーの甥』の主人公の造形にも利用した。フラハティはこの近代のシャーマン的想像力の頂点に『ファウスト』を置いている。
[9]「翻訳者の使命」『ベンヤミン・コレクション2』(浅井健二郎編訳、ちくま学芸文庫、一九九六年)三九一、四〇五頁。
[10]フリードリヒ・キットラー『書き取りシステム1800‐1900』(大宮勘一郎他訳、インスクリプト、二〇二一年)一四二頁。
[11]同上、一四〇頁。
[12]『ゲーテ゠カーライル往復書簡』三八頁。
[13]同右、九〇頁。訳文を一部変更した。
[14]ヴォルフガング・ベーリンガー『トゥルン・ウント・タクシス その郵便と企業の歴史』(高木葉子訳、三元社、二〇一四年)一四三、四三九頁。
[15]Bernhard Siegert, Relays: Literature as an Epoch of the Postal System, tr. by Kevin Repp, Stanford University Press, 1999, p.69.
[16]「ゲーテ」『ベンヤミン・コレクション2』二一七頁。もともと法学を学び、枢密院の顧問官であったゲーテ本人も、多種多様な書類を整然と仕分けすることを自らの習慣としていた。あらゆるデータを書類として分類・保存・管理しようとする几帳面な情報処理装置としてのゲーテについては、E・R・クルツィウス「ゲーテの書類作り」『ヨーロッパ文学評論集』(川村二郎他訳、みすず書房、一九九一年)所収が精彩に富む。
[17]トーマス・マン『ゲーテを語る』八一頁。なお、ゲーテの晩年にはコレラの流行があり、大勢の命が奪われた(ヘーゲルの死因になったとも言われる)。さらに、マルクスとエンゲルスは一八四八年の『共産党宣言』で、経済恐慌を社会的な疫病(epidemic)にたとえたが、それもアジアからヨーロッパまでを恐怖に陥れたコレラを思わせる。人生と世界がともに病んでいるというゲーテの認識は、アジア発の感染症の流行とも恐らく無縁ではないだろう。
[18]マンフレート・オステン『ファウストとホムンクルス』(石原あえか訳、慶應義塾大学出版会、二〇〇九年)四一頁。
[19]クリストファー・クラーク『時間と権力』(小原淳他訳、みすず書房、二〇二一年)一八頁。
[20]ゲーテ『若きヴェルターの悩み タウリスのイフィゲーニエ』(大宮勘一郎訳、作品社、二〇二三年)の大宮による解題参照。
[21]マン前掲書、四三頁。
[22]マルクス『経済学・哲学草稿』(長谷川宏訳、光文社古典新訳文庫、二〇一〇年)二四八頁。
[23]マルクス+エンゲルス『共産党宣言』(大内兵衛+向坂逸郎訳、岩波文庫、一九五一年)四四頁。

(続く)

この記事は、PLANETSのメルマガで2023年4月25日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2023年5月18日に公開しました。
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