「消極的なひと」がストレスなく暮らせる社会をデザインとテクノロジーで実現するために活動するチーム「消極性研究会」。今回は情報科学者の栗原一貴さんが、自身による大学でのオンライン講義の実践から、やりにくさの原因と、オンラインでのコミュニケーションを促進する方法を考えます。
突然変わった新しい生活様式に馴染みつつも、やりにくさを感じているみなさん、そのもどかしさはテクノロジーの力で解決できるかもしれません。
「消極性デザインが社会を変える。まずは、あなたの生活を変える」のこれまでの連載記事は、こちらにまとまっています。よかったら、読んでみてください。
端的に言うとね。
はじめに
新型コロナウイルスの感染拡大により外出自粛、リモートワーク、オンライン講義など、少し前までは想像もできなかった生活様式が始まりました。
「とりあえず会おうぜ! 語ろうぜ! 呑もうぜ!」というような陽気なマインドの人には、さぞや辛い時代になったことと思います。一方で、もともと内向的な性格、穏やかな性格の方からは、人と会わなくてよい生活、自分のペースで過ごせる生活に対して喜びの声も聞こえてきます。
私はと言えば……大学教員として、オンライン講義の運営で難儀しています。
小規模から大人数まで、講義を運営するうえでは何らかの「コミュニケーションの強制」を学生にさせねばなりません。私は消極性研究者を標榜しておりますので、どの程度の負荷を学生にかけるか常に苦心しておりましたが、講義がオンライン化して、「適度なコミュニケーションをとること」がさらに難しくなりました。目下、学生とともに手探りで最適解を模索しておりますが、まだ満足のいくものにはなっていません。
今後世界がどうなっていくのか、まだまだ不透明です。もしかしたら、じわじわと元の社会に戻るだけなのかもしれません。しかし少なくとも、with コロナ、after コロナの世界を知ってしまった我々は、以前よりも柔軟にコミュニケーションについて考えられるようになったはずです。2020年前半の激動を総括して、今後のコミュニケーション支援技術のありかたについて、考えてみましょう。
逃げ道のある道具、ない道具
私は情報技術を用いたコミュニケーションの研究を好んで行ってきました。博士論文は、プレゼンテーションツールをテーマに書きました。プレゼンテーションというコミュニケーション様式は、そのあり方が使う道具(コンピュータ)によってかなり制約されます。それが面白くて、情報技術がどのような制約を人に与え、それがどのようにコミュニケーションに影響を与えるか興味を持ったのです。
私が最初に研究したものは、小中高校生の先生が授業中に使える電子黒板ツールです。特に小中高校の先生にとって、授業とは生徒・児童とのやりとりを通じて作り上げていく、インタラクティブ性と即興性の高い営みです。彼らにとって、一方通行的な情報伝達になりやすいパワーポイントを授業で使うことはとても納得がいかないものでした。そこで私は、より黒板に近い使い勝手を保ちながら、コンピュータならではの魔法的機能を加えられるよう、教育現場の先生方と何年もかけてツールを練り上げていきました。
その際に意識したことの一つは、「使いたい、あるいは使うことが効果的であると思われる局面で使えばよく、それ以外の時には無理に使わなくてよい」という性質を付与することでした。この性質を「逃避可能性」と呼びましょうか。人間、慣れている方法を捨てて全く新しいことをやれ、と言われると困惑し、拒否反応が出るものです。特に現場の先生方は、自分たちの「黒板とチョーク」に絶対の信頼と自信を持っています。それをまるまる置き換えようものなら、全面戦争になりかねません。一方でICT機器を用いることで、教育が実現できる可能性、それに対する期待も、先生方は持っています。上からの指示で学校にICT機器が導入されてきて、どう使っていいかわからない。使うと良さそうな局面は想像できるが、ほどよいタイミングで局所的に利用し、それ以外の時間は慣れ親しんだ黒板とチョークでやりたい。そういう都合の良さを実現すべく、「逃避可能性」を考えながらツールの設計を行いました。おかげさまで、無料公開したそのツールは1万ダウンロードを超える程度には活用されました。それなりに教育のICT化の黎明期に貢献できたかなという思いがございます。
今、コロナウイルス災害でリモートワーク、オンライン作業が席巻している状態は、まさにこの「逃避可能性」が失われた状態です。これまでのリモートワーク支援技術は対面型作業を補完する位置づけで、「便利に思うなら」「気が向けば」という条件付きで、選択肢を広げる意味合いで活用が進んできたのですが、今般、社会の多くの領域が「強制完全オンライン化」されてしまいました。オンラインコミュニケーションにはオンラインコミュニケーションならではの特長や制約があり、人々のコミュニケーションをかなりの部分で変質させます。便利さも確実にある反面、コミュニケーションというのは人間の個性や尊厳に深く関わっているので、そのあり方を特定の方法に強制されるのは、時に耐え難い苦痛となり得ます。
初等教育現場の授業のオンライン化の取り組みの状況については、皆さんも日々のニュースでお聞きのことと思います。先端的な教育を行っている地域では、いち早く授業をオンライン化しました。一方、従来の対面型の授業に対するこだわりと、変化を拒絶する性質から、だましだましオンライン化を先延ばしし、復旧を伺っている地域も数多くあります。どちらがよいのか一概には言えません。エンジニアの観点からは、「逃避可能性」の乏しい新規技術の導入は、たとえこのような国家の緊急事態にあっても拒否反応が強く、大変な混乱を生むのだという壮大な社会実験の結果を見せつけられたように感じています。
Point:
・「いまよりすこし便利な面もある」くらいのコミュニケーション支援新規技術は、逃避可能性のデザインを検討したほうがよい。ヒトは国家の一大事でも、ヒトとの関わり方の変化を拒絶する生き物なのだ。
大学のオンライン講義にみる、コミュニケーションの変容
舞台を大学に移しましょう。初等教育現場と比較して、教員および学生全員に環境を整備し、かつ覚悟させることが容易であったからでしょうか、多くの大学は、早々に講義を完全オンライン化しました。私も大学教員として、この動乱の当事者となりました。純粋にほぼゼロからの教材準備となったので、忙しい日々となりました。一方でオンライン講義をめぐる教員と学生の間、あるいは学生と学生の間のコミュニケーションのあり方の変化は、消極性研究者である私にもかなりの衝撃を与えました。これからいくつかの立場の方々のオンライン講義に関する感想を列挙して考察してみます。
「必殺技」を奪われたカリスマ
夜回り先生こと水谷修氏は、オンライン講義について、学生の顔が見えず肉声が聞けない状況を憂い、「これが授業なのか」と完全否定します。彼のことを私はよく知りませんが、熱血教師として不良少年少女と向き合い、更生させてきた活動に敬意を表します。おそらく彼は、「面と向かって全身全霊で人とぶつかり合うこと」に重きを置く、例えるならコミュニケーションにおける、インファイター(ガンガン相手に近寄って殴り合う戦術を得とするボクサー)タイプのカリスマなのだと思います。
複数の人間の呼吸、顔色、姿勢、動きといった非言語情報を瞬時に把握し、判断する。自分の目つき、表情、声量、ボディーランゲージ、発話するタイミングをコントロールする。これらによってコミュニケーションのイニシアチブをとっていく能力に優れている人たちが、教員・学生を問わずインファイタータイプだと言えます。
オンライン講義では、Zoomなどのビデオチャットでリアルタイムにコミュニケーションを取っていきます。しかしどうでしょう。相手はカメラ映像をオフにし、マイクをミュートし、自分のカメラ映像は見ていないかもしれないし、それがバレない。そして相手の発話ボリュームはお好みの値に調整。
これではインファイタータイプの能力が、壊滅的に無効化されてしまいます。なんとも大変やりにくい状況に置かれていることと推察します。
しかし、実世界での対面講義が復旧するまで、これはどうすることもできません。自身がこの環境に適合し、新しいコミュニケーションの様式を確立するしかないのです。いうなれば現状は、全員がアウトボクシング(相手と距離を取りながら戦う戦術)することを強制される社会です。
Point:
・コロナで一番困っているのは、対面コミュニケーション至上主義のインファイタータイプ。
オンライン化を福音と感じるコミュニケーション弱者
では逆に、生粋のアウトボクサーの話をしましょう。世の中には、インファイタータイプが苦手な方がいらっしゃいます。コミュニケーションのタイミング、距離感、イニシアチブ。こういったものは、対面コミュニケーションにおいては弱肉強食で、インファイタータイプのような積極的な人がいると、その人にその場を支配されがちです。
そのような方々は、医学的に治療が必要な方から、そこまでではないものの外界からの刺激に敏感なHSP(highly sensitive person)の方、もう少しカジュアルに、ネットスラングで「陰キャ」とか「コミュ障」とか言われており、それを自称している人まで、その程度は人それぞれです。総合して、「コミュニケーション弱者」と呼ぶことにします。
「コミュニケーション弱者」にとって、社会活動のオンライン化はまさに福音です。
彼らは、決してコミュニケーションを否定しているわけではありません。自分にとって心地よいペースと強度でコミュニケーションを取りたいものの、人と交わればそのような自分の希望がいつも叶えられるとは限らないため、消極的選択として仕方なく人づきあいとは距離をおき、コミュニケーションの機会を控えめに調整することで社会に関わってきました。それでも、決していつでもうまくいくものではなかったはずです。
それがどうでしょう。オンライン化したコミュニケーションでは、コミュニケーションへの関わり方を、個々人が自由に選べるようになり、また関わり方にそのような個人ごとの多様性があることを、皆が認識し、許容し、配慮しているではありませんか!
先程列挙した、Zoomなどのビデオチャットの機能を再度見てみます。
・ビデオをオフできる。
・マイクをミュートできる。
・相手のカメラ映像は見ていなくてもかまわないし、バレない。
・相手の発話ボリュームはお好みの値に調整できる。
インファイタータイプを封殺したこれらの機能により、「コミュニケーション弱者」の負担はぐっと下がりました。
オンライン講義においては、単純に登校するという物理的移動の負荷がないという利点に加えて、学生からは以下のようなポジティブな感想が得られています。(私は女子大教員なので、コミュニケーションに比較的敏感と思われる女子大学生の意見に偏っているかもしれません。)
・化粧しなくてよいから楽。
・満員電車の(痴漢等の)恐怖から開放された。
・成績が悪く劣等感を感じていたが、オンライン講義だとそれほど他の学生を気にせず参加できてよい。
・肉声の小さい先生の講義も、適度な音量で聞くことができる。
・リラックスして受講でき、比較的疲れないですむ。
・発達障害があり、大学での講義になかなか馴染めなかったが、オンライン講義なら自分のペースで参加できるのでぜひ継続してほしい。
実際、明らかに以前より、講義への遅刻や欠席が減っています。
私は拙著『消極性デザイン宣言』でも述べましたが、これまで「コミュニケーション自衛兵器」と称して、自分のペースと強度でコミュニケーションがとれるように自らを護る情報機器をいくつも開発してきました。おしゃべりがすぎる人を邪魔する「SpeechJammer」、耳の蓋として機能し、聞きたくない外界の声や音を遮断する「Openess-adjustable Headset」、自分の視界の中にある他人の顔にモザイクをかけることで視線恐怖を和らげるAR眼鏡などです。現実世界で自衛するためには様々なハードウェアが必要だったのですが、全てがオンライン化してしまえば、それらはちょっとしたソフトウェア上の機能のスイッチオン・オフだけで実現できるようなものであることが示されました。外的要因によって突如もたらされた予想もできなかったユートピアに、私は呆然とするとともに、痛快にも感じており、複雑な思いです。
▲スピーチジャマー
Point:
・コミュニケーションへの関わり方を、個々人が自由に選べるようになり、また関わり方にそのような個人ごとの多様性があることを皆が前提としている。それがオンラインコミュニケーション。
・コミュニケーション弱者にとっては、参画しやすい社会。
アイデンティティが揺らぐ「こうもり」な私
ここで一転して、自称「アウトボクサーフレンドリー先生」の私の弱音を吐かせてください。
苦境のインファイターと、歓喜のアウトボクサー。世の中はそう単純ではありませんでした。私は消極性研究者として、コミュニケーション弱者を代弁する形で、世の中のコミュニケーションをより「弱者に優しく」するための活動をしてまいりました。その中には、世の中の不当なコミュニケーション強者に対し「もっと弱者に優しくしようよ!」と訴え続けることも含まれていました。しかし突如オンラインユートピアが訪れた今、私は自分の立場が揺らいでいるのを感じます。突然、運動のベクトルを180度変えて、「もっとみんな、自分をさらけ出してコミュニケーションしようよ!」と訴えたい気持ちを抑えられなくなったのです。
私が教鞭をとるオンライン講義では、基本的に私だけがカメラをonにして、学生は誰一人カメラをonにしません。プライバシーを配慮して、大学側から学生のカメラをonにすることを強制しないことになっています。そして学生は指名された時以外、全員マイクもミュートしており、ミュートしていることが画面を通じて私にわかります。この状態は学生にとって旧来の対面授業より「心地よい」状態だと思うので、それを実現できていることに私は誇りを感じます。しかし一方で、いち教員として、この状況でのコミュニケーションマネジメントは大変難しく、ある種の恐怖感があります。どういう人がどのような気持ちで私の話を聞いているか全くわからず、また静寂に満ちた雰囲気を感じてか、学生からの自発的な反応も全くありません。大規模な人数の講義については、スポットライトが当たっているステージで、暗い観客席に向かってプレゼンテーションする時と似たようなものですから、オンライン化以前に比べそれほどの違和感は感じません。しかし、少人数(10人くらい)でのセミナー型講義では、本当に苦労しています。
▲オンライン講義を受講する学生(イメージ)
人はそれぞれ、どういう人数の集団の中でコミュニケーションをとるのが苦手か、得意か特性が違っていることについても拙著『消極性デザイン宣言』で述べました。私自身は、少人数の集団でのコミュニケーションが最も苦手な人種でした。どうやら私は、なけなしの自分のスキルを最大限発揮して、複数の人間の呼吸、顔色、姿勢、動き、そういった非言語情報を瞬時に把握しようとし、また自分の目つき、表情、声量、ボディーランゲージ、発話するタイミングをコントロールしようとして、なんとかそのような状況をこれまで職業人として克服していたようなのです。そして、その私のスキルが、オンライン化により封印されてしまいました。
なんのことはない、私が体験し悩んでいたことは、インファイタータイプの方と全く同じだったのです。
もう少しみんな、自己開示してくれないかな。反応をくれないかな。そう願っている自分にふと気づき、(完全なアウトボクサーとは言わないまでも)アウトボクサーフレンドリーを気取っていた自分に流れていた、インファイタータイプの血に愕然としました。
オンライン化されたコミュニケーションとは、余計な(=必要性の合意がとれていない)コミュニケーションは意図しないとできないということの徹底でもあったわけです。
実は学生からも、こんな要望が多く寄せられました。
・(学生同士の議論の場で)相手の顔色が見えないからますます発言が恐る恐るになってしまう
・学生同士、お互いに全く顔も見られず交流の機会がない。孤独である。なにか先生(あるいは大学)の方で、懇親の場を作って欲しい
「そりゃそうだよね!」というのが率直な感想です。他人と交流するなら、それなりの自己開示と、他人や集団に歩調を合わせることが必ず求められます。しかし、オンラインコミュニケーションでは、自己開示の程度や歩調合わせに煩わされることなく、完全に自分の判断で、全く手間をかけずにコミュニケーションできてしまいます。その弊害が顕在化してきているようです。
振り返れば、2014年の消極性研究会の旗揚げ公演で、私はこのような状況を「未来像」として予見していたともとれる発言をしております……。
▲2014年の発表でのスライド
君たちは自由であり、選択肢が選べて、強制がない。だから誰にも会えない。
君たちの望む社会が来た。そこで君は幸せですか?
人付き合いに拒否権がなく、弱肉強食になりやすい従来社会。一方で、全てに許可が必要で、疎遠になりやすいオンライン社会。どうやら、単純な対立構造を乗り越える時が来たようです。
Point:
・オンライン化されたコミュニケーションは、余計な(=必要性の合意がとれていない)コミュニケーションは意図しないとできないということの徹底でもある。
オンライン時代のコミュニケーション支援情報技術
天の邪鬼と言ってしまえばそれまでなのですが、「何事も過度にやりすぎるのはよくない」というバランス感覚で、現状のオンラインコミュニケーションの負の側面も考え、あるべき姿と対策を考えていきましょう。
いま、「余計な(=必要性の合意がとれていない)コミュニケーションは意図しないとできない」という現状によって、
1.「雑談から広がるコミュニケーションと競創」が失われている
2.「ゆるやかに自己組織化するチームビルディング」が失われている
3.「新しい人との出会いと懇親」が失われている
と思います。まず1と2について述べます。
雑談とチームビルディング
これは仕事など、他者との共同作業に関するものです。Zoomのようなビデオチャットは目的意識をもたないと会合をセッティングできず、また目的を達成するとワンクリックで解散できてしまいます。会議前後の雑談も意識的におこなわなければできず、またすべての発話が全員に共有されるため、誰がしゃべるか、について神経をとがらせることになります。会議中にちょっと隣の人と会話、というようなこともうまくできません。あまりにかっちりとコミュニケーションの形が規定されすぎているように思います。これぞ「デジタル」のもつイメージ像そのものという感じですね。
クリエイティビティとチームビルディングにおいて、自発的な雑談はとても重要です。雑談は発想を育み、また人々を結びつけます。システマチックに雑談を行う仕組みを取り入れる必要を感じますが、「さあ、雑談して!」と言われてオンラインで雑談するには、まだ人類は未成熟なように思います。
ちなみに、Zoomには「ブレイクアウトルーム」という、少人数でグループワークをするために参加者を小部屋に隔離する機能があり、雑談やグループワークに有効なように思えます。しかし、これによって、顔すら見えないクラスメイトと二人部屋に入れられ、なにかディスカッションをしないといけない、というようなことをすると、学生は震え上がるようです。オンライン講義で学生に不評な機能運用です。
これについて、私が検討した対策をいくつか述べます。成功している自信はございませんが、考えるヒントになれば幸いです。
まず、「にじみ出る雑談」です。
にじみ出る雑談
「SpatialChat」というビデオチャットサービスがあります。これは参加者が点として画面上に配置され、その点を自由に移動することができます。他の参加者の点に近づくと、その人の声が大きく聞こえ、離れると小さく聞こえます。
これにより、明示的に主催者が小部屋を作らなくても、各人が勝手に集まって、みんなの邪魔をしないよう雑談することができます。また、なんとなく遠くで会話している声が漏れ聞こえてくるため、それをきっかけにしたコミュニケーションも始められます。
SpatialChatは、私の指導する少人数グループでのプロジェクト学習講義で試用してみました。私が空間的に巡回するだけで各グループの活動の様子が漏れ聞こえてくるのは進捗管理に大変重宝しましたが、所詮それぞれの参加者はカメラOFFした点にすぎないため、初回講義での誰もお互いをよく知らない状況でのチームビルディング作業にはあまり役立ちませんでした。
おそらく、大学教育のように強制された状況ではなく、団結意識の強い会社組織等などで、純粋にカジュアルな交流を求めている集団には向いているように思います。そういう集団は、slackなどのチャットツールによるカジュアルな情報交換が進んでいるように思うので、テキストでは表現できない存在感、表情や音声などの情動情報を扱えるビデオチャットの強みを活かし、ゆるい相互監視のあるコワーキングスペース的に用いたり、オンライン飲み会のようなイベントで活躍の機会があるかもしれません。
この対策は、言うなれば「実世界でのコミュニケーションにより近い情報支援を実現すればよい」というものです。極めてまっとうな、正攻法と言えましょう。
1 on 1への回帰
次の対策は、「1 on 1への回帰」です。これは、上述した「2.『ゆるやかに自己組織化するチームビルディング』が失われている」の諦めです。
もともと栗原研究室は消極性研究の促進のため、消極的な人や一風変わった人を歓迎するリクルーティングを行っていました。結果としてそのような人材が多く集まり、消極性研究推進に貢献できたので、この戦略は奏功したと思います。ただ、研究室主催者として悩ましかったのは、そのような消極的人材は、確率的にコミュニケーション弱者であることが多く、グループでの活発な議論やコラボレーションが極めて困難だった点です。結果的に私は研究室でのグループの活動を最小限にし、一人ひとりの学生と1対1の議論の場をもつことに多くの時間と労力を割きました。コミュニケーション弱者であっても、グループでのコミュニケーションに消極的なだけで、1対1の雑談や議論の場では非常に積極的に議論できる方が多かったからです。
さて、私は昨年1年間、アメリカで過ごしました。コミュニケーションに対しオープンなアメリカで生活したことで、私はそれなりにアメリカナイズしました。帰国後はもっとシンプルに明るく、活発なコミュニケーションを志向するような人材をリクルーティングし、またそのような研究室運営や教育方法を準備していました。そこにこの新型コロナウイルスが到来したのです。先述のような教育のオンライン化により、以前にもましてグループコミュニケーションが難しくなり、私の研究室リニューアルはまったくうまくいきませんでした。そこで、断腸の思いながら、「昔のやりかた」である1対1重視に戻したところ、意外にオンライン化の事情とマッチし、なんとか現在まで乗り切れたのです。
この対策は、特にチームでの課題解決が必須ではなく、最終的には個人の達成を促し、評価すれば良いという大学教育ならではの事情によるところが多分にあると思います。クライアントに対しチームで成果を出す要請のある会社組織では、そうも言ってられない面もあるでしょう。
この対策は、「所詮みんな仲良く力を合わせて、なんて幻想なんだよ」という、はすに構えた立場です。正攻法に対するアンチテーゼですね。
バックチャネリング/マルチチャネリング
最後の対策は、「バックチャネリング/マルチチャネリング」です。これは以前より消極性研究会が鋭意取り組んできたものであり、コミュニケーションに強い人と弱い人がなめらかに接続され共存できるように工夫された、コミュニケーションの技術支援方法です。具体的には、「これなら、自己開示してもいい。これくらいなら、できる」と、参加者が同意・安心できるようなコミュニケーション手段を、主たるコミュニケーション手段(今の文脈ならビデオ会議システム)とは別に複数用意しておくことで解決を図ります。
ビデオ会議ツールにテキストチャット機能があるなら、「肉声で発言するまでもないこと」の交流用にそれを使うことが第一歩です。それでもシングルスレッド(書き込める場所が一つしかないこと)なテキストチャットに書き込むことは、流れを読む力が求められるので、まだ敷居が高いかもしれません。その場合、Google docsやscrapboxなど、誰もが同時に自由に書き込めるテキスト共有ツールに、各自自分の段落を作って書いていくのが有効かもしれません。他者との対話はしづらくなりますが、多くの人の意見表明を期待することができ、一覧性が確保できます。例えば、感想表明などの、カジュアルな用途には向いているように思います。私はさらに、学生にプレゼンテーションさせて他の学生に評価させる際などには、Google spreadsheetを使い、全員が全員にコメントすることを促しています。こうするとGoogle docsに比べて、よりかっちりと全員の意見を収集できます。「自分の入力欄」が可視化されていることで、「空気を意識せず書いても良い自分だけの領域」を保証し、「書かないといけない義務」の度合いを少しだけ高めています。
以前であれば、対面会議なのに敢えてテキストチャット等を用意することに対し、「直接話せばいいじゃん」と言われてしまうところです。しかし今ならビデオ会議の難しさを、より多くの人が共感していることと思いますから、導入は受け入れやすいのではと思います。そしてこの対策には、先述の「逃避可能性」があります。従来どおり、ビデオ会議で発言したい人はすればよく、テキストの方がより意見表明しやすいならすればよい。それも嫌なら、黙っていればいいわけです。
この対策は、「叱咤しても仕方ない。殻に閉じこもりすぎて意固地になっても仕方ない。できるところから、歩み寄っていこうよ」というものですね。もともとは対面会議でのコミュニケーションの円滑化のために提案されてきたこの手法ですが、会議がオンライン化し、人々のメンタリティも変化している今、変わらずこの手法が有効であることは頼もしいです。その堅牢さとユニバーサルデザインの価値を示しているように思います。
さて、この手法の肝は、「これなら発言してみようかな」と思えるような、自己開示度と場への影響が様々に調整された手段を複数準備して、豊かなグラデーションを構成することです。音声発話とテキストチャット以外にも、いろいろまだできることはありそうです。
そのような活動の一環として、私が試作したものの一つに、Zoom Web Browserというものがあります。紹介文を引用します。
“Zoom Web BrowserはZoomのバーチャル背景をwebブラウザとして使用し、(中略) 要するに、バーチャル背景を時間的に変化するものにすることができ、しかもそのデザインには慣れ親しんだwebデザインの技術が使えるということです。
Zoomは会議のホストなら画面共有によってどんなものでも写すことができますが、それ以外の一般参加者には選択肢は乏しいです。たとえば「🙂」「⛔️」のようなエモティコンを表示したり、「賛成です」のような簡単なテキストを表示したり、自分に関する状態・情報をグラフや写真で示したりと、バーチャル背景をハックできれば、もっと遠隔コミュニケーションは豊かになることでしょう。そのような取り組みをいろいろ試すのはきっと意味のあることだと思い、本ツールを試作しました。”
2020/9/10追記:その後Zoomはバージョンアップされ、エモティコンの種類も少し増えましたね。
▲Zoom Web Browser 使用イメージ
これも、「テキストチャットで堂々と意思表示するほどでもないなぁ、でも彼の発言者に対し肯定的であるという気持ちは示しつつ発言を引き続き聞きたいなあ。彼が気にならないなら、そんな私に気づいてくれなくてもいいんだけど」というような、より細やかで穏やかなレベルの自己開示を可能にするピースとして、グラデーションの中のどこかを埋める方法の一つかと思います。
Point:
・にじみ出る雑談を可能にする正攻法、SpatialChat。
・多人数コミュニケーションを一切排除したアンチテーゼ、1 on 1回帰。
・歩み寄りの世界、バックチャネリング/マルチチャネリング。
・自己開示のレベルをグラデーション的に調整できるようにしよう。
出会いと懇親
次に「3.『新しい人との出会いと懇親』が失われている」点について述べます。先述のように、人と出会い、初対面の人と懇親していくことがとても難しくなっています。既に交友範囲の広いオトナ世代に比べ、これから人とのつながりを広げていく若者世代には辛い時期でしょう。自己開示はしたくないけれど、他者には自己開示してほしい。従来は実世界で対面するという行為によって強制的に自己開示しなければならなかった個人情報をたやすく、そして細かく設定できるようになったことにより、各人が保守的になりすぎてしまいました。
強制されている側にとってはハッピーで、強制する方にとっては難しい時代です。自分が強制される立場であることの多い教育や仕事と比べて、個人と個人のぶつかり合いである交友や恋愛は、守るだけではうまくいきません。自分の中の「他人に強制したいこと」という攻めの部分と丁寧に向き合う必要があります。オンラインの時代は、「私はこれだけ自分を見せます。あなたはこれだけあなたを見せてください」という情報を、無粋でも外に向かって明示的に発信していくことがベースラインなのです。
そのような世の中ですから、交流の場を用意する側が、「この場ではこういう自己開示が必要です」と予め条件を提示することがとても大事になってきます。予め条件が示されれば、個々人がコミュニケーションの中でお互いに自己開示のチキンレースに陥ることを防ぎ、相手への許可を求める負担を軽減できるからです。このような「コミュニケーションのインフォームドコンセント」は、場への参加者を守りつつ、攻めることを助けるものでもあるということですね。学生たちが教員である私に、学生間のカジュアルな懇親の場を用意してくれるよう頼むのも、守りが簡単すぎるあまり、攻めの力を見失っているために、それを外注で解消しようとする、学生たちからのいわば援護射撃要請ではないかと思います。
Point:
・守るは易く、攻めるは難し。
・出会いと懇親は、自分と他者の自己開示のレベルの調整が必要なため、インフォームドコンセントによりその調整が省略できる「場」づくりが重要。
「段階的」に出会わせるために
ところで今、意外なことに、オンライン婚活が人気なようです。いきなりオンラインで初対面の人と話すのは大変エネルギーの必要なことですが、婚活サービスは、そもそも初対面の人と話すことを希望し覚悟した人だけを(インフォームドコンセントして)募り、そのような人が登録しています。そんな状況でも、いきなり実世界で話すことより、間にオンラインビデオチャットでの対面がある方が、やはりなにかと自己開示度合いや相手との物理的・心理的距離感を調整しやすいようですね。以前は「実際に会えるのになんでオンライン?」という実世界至上主義により否定されていたビデオチャット(を含む)婚活が、にわかに脚光を浴びているのも頷けます。今求められているのは、自分と相手の自己開示のレベルを調整し、「段階的に出会う」ための技術なのでしょう。
なお、オンライン婚活は特に女性に支持されているとのことです。一方で男性は依然として、現実世界で対面したいという傾向にあるとのことです。
Point:
・実世界での対面に向けて、自己と他者の自己開示のレベルの調整を代行し「段階的に出会う」ための支援技術が求められる。
・オンライン婚活はそのよい例。書類やテキストでの交流から始まって、その後に直接会うことの間にワンクッション置いて、中間点としてビデオチャットで会うというグラデーションのピースを発見できたところがイノベーション。
「段階」を自動調整できないか
さて、婚活に限らず人との「出会い」が厄介なのは、いつか実世界でその人と会う日が来ることです。「オンラインの知り合いだけで結構」と本気で覚悟を決められる人以外は、このXデーに備える必要があります。厄介なのは、社会のオンライン化によって「これまでオンラインだったけどその後実際に会う」というケースが増えることではないでしょうか。そのXデーにおいて、きっと多くの奥ゆかしい人々が思い悩むのは、「実世界(リアル)とオンライン(バーチャル)の自分の印象が違ったらどうしよう」という自意識との向き合い方でしょう。
私自身、2020年の新1年生とは、オンラインでろくに顔も見せてもらえずに第1学期の教育がおわりました。夏休み明けに通学が解禁されたら多くの人と「実世界では初対面」になることと思います。本当に些細な話で恐縮ですが、ちょっと気恥ずかしいです。
これについて、コロナウイルス災害以前、デーティングサービス運営会社と共同研究した成果を紹介します。
デーティングサービス(恋人探しのためのサービスです)では、プロフィール情報として自分のセルフィー写真や経歴趣味等のテキストが用いられ、その情報がマッチングに絶大な影響を与えるため、皆さん多種多様に「盛り」ます。SNSアカウントならそれで問題ないのですが、デーティングは実際に対面し交際することが目的ですから、盛った自分と素の自分のギャップの問題は切実です。そして、「相手が実際にどう感じるか」よりもずっと、「自分にギャップがあるという自意識」に苛まれてしまいます。そこで、こんな実験をしてみました。
プロフィール写真について、「素の自分」と、それを写真編集ツールで美化した「盛った自分」の2種類用意します。そして最初は「盛った自分」をプロフィール写真とし、長い時間をかけてだんだん「素の自分」へとモーフィングさせます。すると、見せられた人はその変化速度が小さすぎて変化に気づけない傾向にあったのです。自分自身としても、実際に会う直前には相手は「素の自分」を自分だと認識してくれていますから、少しは安心できそうですよね。
これを応用して、今般のビデオ会議ツールにおいても、自分の自己開示具合を段階的に調整して、実世界での対面時に備える技法が有効かもしれません。長期的に少しずつカメラの画角やぼかし具合を調整して自分を映すようにしたり、だんだん美白エフェクトを弱めたりして素の自分に近づけていくことは、手動ならば今でもすぐできそうです。たとえばこの記事では、カメラにリップクリームを塗って映像をぼかすというワザが紹介されていますが、リップ量の調節により、ぼかし具合は段階的に調整できそうですね。
いつか、こういった作業を自動化する技術が現れる日も近いかもしれません。
Point:
・段階的自己開示を自動的に調整する技術が望まれる。
おわりに
新型コロナウイルスのパンデミックにより社会のオンライン化が進んだことで、コミュニケーションに関する自分の立ち位置が揺さぶられた人は多いのではないでしょうか。インファイターの人々は武器を削がれた上に、適応を余儀なくされ、多少奥ゆかしいくらいの人にとっては活動が楽になった反面、今までより意識的に「攻め」を考えないといけないようになりました。
しかし、もともと多様な人が社会参画できるようにと培われてきた知恵と技術は、今回のあなたの心境や立場の変化にも対応できる懐の深さがあります。今までとは違った角度からこれらの知恵と技術を再度精査し、可能性を感じたならぜひ活用してみてください。よりよい人との交流を自らデザインできるようになれるかもしれません。そして、心境の変化を経験したあなたは、以前よりも広い視野と深い慈悲の心で、人と社会に向き合えるように既に成長されているのだと、私は確信しています。
(と、私は誰よりも自分自身に言い聞かせたのでした。)
[了]
この記事は、PLANETSのメルマガで2020年7月16日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2020年9月14日に公開しました。
これから更新する記事のお知らせをLINEで受け取りたい方はこちら。