リモート環境が常態化したいま、いつの間にか失われていた「周辺体験」とは何なのでしょうか。「効率化」がそぎ落とした、冗長だけれどもたしかに豊かさを感じ取ってもいた時間を再発見するための消極性デザインについて、メンバーの栗原一貴さんが語ります。
端的に言うとね。
こんにちは。消極性研究会の栗原です。
第6回ではコロナ禍による社会の急激なオンライン化によってコミュニケーションが劇的に変質し、それに悪影響を受けている人と恩恵を受けている人がいて、また恩恵の影で失われてしまっているものがあるにもかかわらず気づきにくいことがある、ということにフォーカスを当て、対策を議論しました。
あれから1年以上がたち、感染拡大の第5波に対応した緊急事態宣言も解除された今、皆さんの生活はいかがでしょうか。再度執筆の機会をいただいた私は、これまでを振り返り、新しい話題提供のための構想を練り始めたのですが、ちょっとびっくりしてしまいました。第6回執筆時から後、自分の体験したことがらがいまいちぱっとしないというか、嬉々として皆さんにお伝えしたいと思えるようなことがなかなか思いつかないなぁと気づいたのです。
それなりに窮屈なstay home生活の中で試行錯誤し、守りの中での攻めとでも申しますか、私はオンライン開催されるいろいろな「場」に出向き、いろいろな人と話しました。オンラインはすばらしい。以前語ったようにコミュニケーションは変質し苦労もありますが、感染拡大で深刻な苦しみに見舞われている方々も大勢いらっしゃるなか、個人的には在宅で労働できる境遇に感謝しつつ、これまで諦めていたようなイベントへの参加などが可能になり、充実した日々を送っていたようにも思えたのですが。
ふと俯瞰的に自分の生活を振り返ると、オンライン化により積極的な精神活動が可能になった一方で、身体を持つ動物としての私の生活は、極めて単調な繰り返しになってしまっていることに思い当たりました。そこにある喪失は何なのだろう。それを考えるのが今回のテーマです。
これまで安易な懐古主義を嫌っていた自分が、コロナ禍の今、意外にもこんなに懐古的になってしまうのか、という驚きを語るシリーズの続編です。
周辺体験がない!!
我々が失ったもの、それはおそらく、「周辺体験」なのではないかと思い当たりました。普通我々はなにかやらなければならないことがあるとき、それにあてがった時間や労力の100%をその対象に費やすことはできません。たとえば会議をするには、会議の場所まで移動しないといけない。その際、本来しなくてもいいような体験をします。満員電車に辟易することかもしれませんし、街路樹から季節の移ろいを感じたり、まだ行ったことのないラーメン屋の匂いに心惹かれることかもしれません。偶然誰かに出会うこともあります。これらを「周辺体験」と呼ぶことにします。
第13回で、引っ越しによって満員電車通勤がなくなって自分のストレスが減って(良かったのだけれど)自分の創造性に対し負の影響があった、ということを書きましたが、そういった周辺体験が正であれ負であれ人に影響を与えることは日々実感しておりますし、皆様にも思い当たるところはあるのではないでしょうか。
オンラインチャットをベースとした仕事はコミュニケーションは、まさに(ありがたいことに)空間を超えて瞬時に人と人をつなぐことができ、それにまつわる移動や偶然の出会いといった余計なものを極端に排除してしまう副作用を生みました。基本的には自分から積極的に求めなければ新しい出会いも雑談も難しいのがオンラインコミュニケーションだと第6回でも述べましたが、それが人と人だけではなく、人と場所・モノといった有形・無形物との交流の排除にもつながっているのです。
Point:
オンライン化は周辺体験を排除する。
やりたいことだけいくらでもできる弊害
そういう生活の「機微」とでも言うのでしょうか、ちょっとした人や有形・無形物との交流というものは、文字通り「微か」であることが自分にとって重要であったと実感します。「フツウ」に生活していれば、どんなに移動や仕事を効率化しても何らかの周辺体験が微かには伴うので、割とそのくらいの分量で私は満足していたのでした。つまり、たとえば「飛行機ですぐ行けるのに、雰囲気を味わうために寝台列車に乗る」のようなある種極端な趣向は個人的には不要だったわけです。
ところが職業生活がオンライン化し、効率的に業務上のコミュニケーションが取れすぎるようになった結果、何が起こったでしょうか。「ついつい朝から晩までオンラインでの会合を詰め込みすぎて疲れてしまう」というビジネスマンの悲鳴はよく聞かれます。強制される会合も多いでしょうが、私の場合は「ついつい自分でやりたいことを詰め込みすぎてしまう」という性質のものも多いように思いました。以前であれば会合の合間の微かな周辺体験が、強制挿入される息抜きあるいは刺激になっていたようで、その割合が激減したことにより、さすがに私のQOLも下がってしまっていたのです。
それで思い知りました。私は、「主目的に伴う、主目的以外のちょっとした活動の充実、つまり遊び心の充足こそが豊かな人生の指標の一つだ」という価値観を持っていて、いまそれがコロナ禍でダメージを受けてるのだと。
人は基本的にはやるべきこと・やりたいことを詰め込んでしまいます。それに付随して不可避な周辺体験が発生し効率が下がるので、それに拮抗すべく効率的な時間管理を志向します。いま、その周辺体験の付随が起こりにくくなっているので、ブレーキを失ったエンジンのように、TODOリストの作成と消化の純度が異常に高い生活になってしまっています。自分の意図した通りにしかイベントが発生しなさすぎることが辛いとは、我ながら贅沢な病ですね。ネット上で自分の都合の良い意見だけに包まれて幸せな反面、多様性との接点を失ってしまう「フィルターバブル」のリアル世界への侵食とでも言えるでしょうか。私が最近の生活に感じた喪失感と味気なさは、ここに原因があったようです。
Point:
周辺体験が極端に足りなすぎるのは私にとってSAN値(正気度)削りであった。
周辺体験の消極性デザイン
やりたいことが捗るのは結構だが、明示的にやりたいと思う体験以外のものが、限りなくゼロに近くなってしまうのは困る。では、どのように周辺体験を再デザインすべきなのでしょうか。すぐに思いつくのは、周辺体験をシステマチックに主目的化してTODOリストに組み込むことです。
しかし第6回で『「さあ、雑談して!」と言われてオンラインで雑談するには、まだ人類は未成熟なように思います。』と申しましたのと同様、「さあ、周辺体験して!」と言われて周辺体験するには、まだ人類は未成熟なように思います。
いま求められているのは、ときに自分すらも騙せるレベルで、納得できる周辺体験を微かに活動の中に忍び込ませるという、周辺体験の消極性デザインではないでしょうか。これまで我々消極性研究会はどちらかと言うと、「英語学習したいだけなのにテンション高いロールプレイ演技の強要が付随するのは余分だ」のように、生活の各所で見られる「本質的ではない周辺体験からくるストレスや不安に悩まされる状況」を要素分解し、デザインで解決しようという活動を多く行ってきたと言えるかもしれません。ベクトルの方向は違うものの、周辺体験を認知し、量を調整可能にして最適化するという点では今回の課題と共通性があります。これまで培った知見は活用可能であると信じ、以下にいくつかアイディアを挙げてみます。
案1:「薄い」主目的を活用する。
『マインクラフト』などのオープンワールド系のゲームに関して、YouTuberがいろいろ変わった遊び方をしている動画は人気のコンテンツの一つです。このようなゲームがプレイヤーの様々なクリエイティビティを創発するのは、「クリアする」などの、ゲームとしての主目的が薄いからではないかと思います。これは、創造的な周辺体験を誘発しやすい活動のデザインとして参考になります。
日常生活に当てはめると、次の二段階になるでしょうか。まず、主目的の薄い活動として、たとえば休憩を多めに入れることや、散歩や軽めのジョギングなどの運動の時間を入れることなどが検討できそうです。「煮詰まっているなら休め、運動しろ」とは大変陳腐な案ですがこれで改善できることは多いでしょう。次に、実世界におけるこれらの主目的の薄い活動というのは、(ゲームと違って)効率化追求の申し子である「副業/内職/マルチタスキング」の格好の餌食ですから、これらの毒牙からせっかくの周辺体験の余地を保護する必要があります。たとえば私は最近はジョギングの際、その時間に詰め込むように実用的な内容のPodcastを聞いていた習慣をやめました。そのぶんの集中力を、周辺体験を感じるアンテナを高める方向に使おうと心がけています。
Point:
主目的が薄ければ、周辺体験が生まれやすいだろう。
案2:体験の切り取り方を工夫する。
最近、指導している学生の作品で心を打たれたものがあります。「VRシネマサバイバルゲーム」というものです。
この作品の本質は、映画鑑賞という受け身のコンテンツに対し、視聴者からの能動的な介入を導入するという試みです。このコンセプト自体も面白く、私は高く評価しているのですが、いま注目したいのは、この作品の提示する映画鑑賞体験の切り取り方です。
彼女(作者)はこう解説しています。
「映画館の巨大なスクリーンで観る映画は格別ですよね! それと、映画が始まるまでの映画館のロビーでポップコーンを買ってポスターを眺めて……というワクワクする時間が好きな方、かなり多いのではないでしょうか。コロナの影響もあってサブスクリプションサービスでお家で映画を楽しむ人が増加しているそうです。せっかくなら家庭でも大きな画面で楽しみたいですよね。そこで、VR映画館を構想しました」
この作品では、視聴者(プレイヤー)は映画を見るために、なんと3D表現された街角からスタートします。ストリートを歩き、映画館に入り、ロビーでポスターを眺め、鑑賞室に入り、席に座ります。それではじめて鑑賞がスタートするのです。これらは映画鑑賞という主目的からするとある意味余計な要素ですが、なるほどよく考えてみると、いま失われていて懐かしい気持ちになる体験です。もしかしたら彼女も、コロナ禍によって失われた周辺体験の意義を懐かしみ、このようなデザインにしたのかもしれません。
現代の映画鑑賞サービスであるネットフリックスなどのストリーミングサービスと比較すると、その体験の差は明らかです。映画を選び、鑑賞開始する。極めて効率的で、そこに一切の周辺体験の混入の余地はありません。極めてまっとうな映画鑑賞体験の進化だと思いますが、「ワンクリックで開始」というのは、なにかの犠牲の上に成り立っていたということですね。
すぐにできること、を正義として発展してきた情報サービスですが、もしかしたら今後の世の中の体験提供コンテンツ制作は、その体験の切り取り方が変わっていくかもしれません。冗長だと感じない程度で、ちょっとした周辺体験の余白をもつようなものが再評価されるのではないかと予感しました。
Point:
周辺体験をわざと包含するような、余白ある体験の切り取り。
案3:周辺体験のゲーミフィケーション
最後に検討するのは、これも安直ですが周辺体験を導入することにインセンティブが働くように活動をデザインすることです。放っておくと淘汰される周辺体験ですから、ゲーミフィケーションの力をつかって楽しく取り組めるようにします。今まではなにか活動すると勝手についてきて、減らすのに苦労する厄介者扱いであった周辺体験が、コストを払ってでも出没してほしい存在になってしまったと思うと感慨深いですね……。
安直には、『ポケモンGO』がまさにそれです。ランダムに生成されるレアポケモンをgetするために出歩き、あるいは自分がヌシとして存在感を示すためにポータル(ジム)に出向いて保守する。結果的に外出の機会が増え、運動になるので健康にもよいですが、同時に外界のさまざまな刺激が周辺体験として得られるでしょう。『ポケモンGO』は、運動だけでなく周辺体験も誘発させやすい自己へと行動変容を引き起こす力があると思います。
外出自粛ムードで、本家『ポケモンGO』でさえも自宅でも楽しめるようにstay home路線のアップデートがされている昨今です。外出するという強力な周辺体験誘発イベントを封じた状態でなにができるか、体験デザイナーの腕が試されるところですね。具体的にはまだアイディアはございませんが、移動を伴わず、オンライン会議のスケジューリングに対し、ランダムネスに基づく調整可能で「適度」な周辺体験(思いがけない人・モノ・コトとの出会い)を誘発する仕掛けにより、気がつけば充実した生活になっている。そういったものがあれば理想かなと思います。
Point:
もはや周辺体験は、コストをかけて呼び寄せるだけの価値のあるもの。コストのかかるものに楽しく取り組めるようにする知見は、ゲーミフィケーションの中にある。
文明とは周辺体験の喪失の歴史である。
考えてみると、文明というものは基本的に周辺体験の削減で成り立ってきました。便利になるとは、無駄が省かれるということで、無駄の最たるものが周辺体験の余地だったわけです。そして古い世代はその喪失を嘆き、新しい世代はそれを当然のものとして育ちます。
ペンからキーボードになることに老人は憂い、キーボードからフリック入力になることに老人は憂います。きっと毛筆から鉛筆になったときも同じような老人の憂いがあったのでしょう。
私は文明のもたらす利便性に基本的に前向きであり、特にテクノロジーにまつわるノスタルジーなんぞとは無縁の人間だと思いこんでおりましたが、いま、社会のオンライン化により失われた周辺体験にノスタルジーを抱えている自分に気づき、これが私の世代の喪失体験、憂いなのだなあと実感します。
学校すらもオンライン化した2020年は、オンラインネイティブ元年でした。オンラインが当然になった若い世代は、我々のようなノスタルジーは一切ありません。彼らは良くも悪くも与えられた環境で人生を輝かせ、そして後年になにかにノスタルジーを感じるのでしょう。歴史は繰り返すなり。
(了)
この記事は、PLANETSのメルマガで2021年1月14日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年10月14日に公開しました。
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