オーストラリアでの原体験

──智子さんは、「風の谷を創る」の教育チャンクで今までの都市型の教育とは異なる教育をゼロからつくるという、ちょっとびっくりするくらいの難題に挑戦されているのですが、今日はそんな智子さんの背景からいろいろ伺っていきたいと思っています。

白井 よろしくお願いします。

──智子さんはこれまで、フリースクールの運営などを中心に民間から既存の教育制度のオルタナティブを模索してこられたわけですが、そもそもどうしてこのような活動をはじめられたんですか?

白井 きっかけは幼少期の原体験ですね。小さい頃に父の仕事の関係でオーストラリアに住んでいたので、日本の教育との比較をする機会があったことが大きいです。その時代、駐在員のお子さんは日本人学校に行くのが当たり前だったのですが、わたしは体験入学の初日に自分の仲良しの子が、ちょっとびっくりするくらいひどいいじめを受けている場面を目撃してしまったんです。ショックが大きくて具体的なことは言えなかったんですが、その日に家に帰ってとにかく「日本人学校には行きたくない」と母に伝えたら、黙って現地校に行ける手続きをしてくれたんです。母なりに察してくれたのだと思います。
 当時は子供なので全然知らなかったんですが、後からわたしだけ現地の学校に通っていることを「なんでお宅のお子さんだけ、日本人学校に通わないのか」といった嫌味も、現地の日本人社会でけっこう言われたらしいです。

──最初から日本のコミュニティのなかでもかなり深刻なものに出くわした感じですね……。

白井 そうですね。そうして結局オーストラリアの学校に行ったんですが、当時のオーストラリアは白豪主義が間違っていたことをすごく反省していた時代だったので、逆差別じゃないかというぐらい、先生方がかわいがってくれました。
 社会の時間で「世界のことを調べよう」という課題があったら、先生から「日本のこと、トモコが全部教えてくれ」みたいな感じだし。仮装大会で日本の着物を着ていくと必ず優勝! みたいな(笑)。クリスマス会でも、いわゆる白人のみなさんのなかで、あえてわたしがマリアの役をやらされたりとか。そういう、すごくダイバーシティを大事にした教育を受けたんですよね。この子は日本に帰る子だから、日本に帰っても困らないようにっていうところまで先生方は意識してくれてたのかなと思います。日本はすごくいい国なんだろうな、と子供ながらに愛国心を持っていました。

 ところが、父の駐在が終わって日本に帰国したらとんでもないいじめが待っていました。「英語しゃべれよ」って言われて英語をしゃべったらいじめられる。引き算の筆算のやり方から違うから、答えが合っていてもダメ、という評価になる。オーストラリアでは違いを大事する教育だったのに、日本だと違うといじめられるし、勉強ができないと否定される。当時は小学校2年生だったんですが、子供ながらに大人がどういう価値観を大事にしているのかがよくわからなくなってしまいました。

 でもわたしは結局、レールに乗ってしまったんですよね。おかしいなと思いつつ、頑張ればそこにハマることができてしまった。この国から出ていこうと思っていた時代もありましたが、どんどん英語は忘れていくし、今ある日本のシステムのなかで変えられるところは変えようと思って生きてきました。

 でも、今年48歳になりますが、今までのシステムにハマってるように見せかけつつ、もう機能しないとわかってしまった旧いシステムに気を遣いながら変えていくってことも、もうそろそろいいんじゃないかと。「風の谷」で新しい教育の議論が始まったり、新しいプロジェクトに参画するタイミングも重なったりして、本来は全然ハマらない自分として生きていきたいと思い始めたところです。

「白井智子、10歳です」松下政経塾で学んだこと

──東京大学を卒業するときに、集英社の内定を蹴って松下政経塾に進まれたというお話を聞いたことがあるのですが……。

智子 そうです。就職活動をはじめる直前ぐらいに、山一證券とか大手銀行とかがつぶれだして、「あ、今までがバブルだったんだ」と気づき始めるギリギリの世代ですね。東大の学生は就職活動のときにすごく分厚い冊子を見ながら就職先を選んでいたんですが、当時のわたしはそれを見ても、会社に入って何をするのかがまったくイメージできなかったんですよ。法学部だったので、親も弁護士になれとか言うけど、それもイメージできなくて。
 
 なぜ集英社を受けたかというと、わたしはもともと雑誌が好きで、特にマガジンハウスが刊行していた「Olive」が大好きな、いわゆる「オリーブ少女」だったんです。でも、その年はマガジンハウスは新卒採用をしていなくて。ちょうどその頃創刊したばかりの「SPUR」の誌面の美しさに衝撃を受け、そういう雑誌を作りたいと思って集英社を受けたら、初の東大女子と言われ、すごく歓迎されました。ただ、同時に松下政経塾も受かったことがわかってしまって。悩んで、とりあえず現場の人の話を聞こうと思って、政経塾の人と集英社の人、どちらにも話を聞きにいきました。

 そうして集英社の方に電話で1時間ぐらい相談に乗っていただいたんですが、驚いたことに、その方は何度か松下政経塾を受けて、落ちた経験のある方だったんです。だから途中から怒られてしまって。「政経塾に入る権利を得たのなら、絶対に入るべきだ」「社会を良くしたいという意識があるんだったら、絶対に政経塾に入って実現すべき」と言われて。もしもその時に違う人に相談していたら違う選択になっていたと思います。

──政経塾というと政治家志望の若手が行くイメージがあるんですが、そういうわけでもないんですね。

白井 知り合いが受けていたので、そういうものではないことはあらかじめ知っていました。それよりもわたしは、お金もいただけて、好きなところに行けて、好きな勉強ができる場所というイメージのほうが強かったんです。だから最初はおいしいと思って入ったんですが、入ってみたらまったくおいしくなくて(笑)。要は「その経験を世のために使いなはれや」と言われて松下幸之助翁が稼いだお金を渡されるんですよ。根が真面目なので、それがすごく重くて苦しかった。しかも、当時は5年間在籍できたんですが、5年後の保証は何もない。

 政経塾は、1年目はいわゆる見習い期間で、同期5人でいろんなところを回ります。2年目から、今で言うプロジェクト学習のような感じで、自分のテーマを決めて動く。どこにどう行っても自由で、それぞれの評価に応じて割り当てられた研修費を使って構わない、という感じだったんです。

 2年目に何のテーマにするかを考えたとき、思い浮かんだのは教育と福祉でした。なぜ福祉かと言うと、母が詩吟のお師匠さんをやっているせいか、お年寄りに囲まれて育った経験もあったんですね。それで老後の悩みや周りのお年寄りの愚痴とかもよく聞いていたので、何か役に立てることがないかと考えていました。とはいえ、やはり最初にお話ししたような原体験から、日本の教育への疑問は拭いきれませんでした。天秤にかけて、最終的に、やっぱり子供が好きだからというのと、子供の未来は長いので、どうにかしたいという思いが勝って、教育を選択しました。その選択の結果、政経塾2年目は自分にとってはすごく重要な時期になりました。

 ……たとえばこれは政経塾の現地現場主義の究極だと思うんですが、小学校5年生のクラスに、小学校5年生として潜り込ませてもらったりしました(笑)。

──僕もそのお話を聞いてびっくりしました(笑)。当時は20代ぐらいですよね?

白井 23歳ですね(笑)。まず、政経塾で「教育をやりたい」という人が珍しかったのと、当時の塾長だった宮田義二さんが臨時教育審議会の委員も務めていたので、「1校目は自分がお世話になってる校長のところに連れてってやる」と紹介してくださったんです。ただ、校長先生も快く引き受けてくれたものの、2ヶ月の研修期間をどうやって過ごすのかと。「何をしたいの?」と聞かれて「とにかく何でもいいから現場に溶け込みたいです」とお願いしたら、「あなただったら小学校5年生でいけるんじゃないか」って言われて(笑)。

──いや、いけないでしょ(笑)。

白井 (笑)。それであいさつに行ったその日の朝に、小学校の5年生のクラスの一員として、朝の会で紹介してもらいました。「白井智子ちゃん10歳です。オーストラリアから引っ越してきました」という設定で。もう「デカいデカい」って大騒ぎですよね(笑)。その夜は「デカい小学生」の話でお茶の間はもち切りだったらしいんですよ。あいつは何者だ、と。これがかわいいんですが、みんなが持ち帰ってきた結論が、「きっとあの子は中学生だ」と。たぶんそれ以上のものはあんまりわからなかったのでしょう(笑)。きっと中学生が病気か何かをして、やむを得ず小学校に戻ってきたんだろうから、そこには触れずに優しくしてやろう、みたいな話になったらしいんです。わたしはその背景は知らなかったんですが、やたらとなまあたたかく接してくると思ったらそういうことになっていた(笑)。

▲「小学校5年生」として在籍した当時の写真。

 そうしてクラスの一員となると、それを徹底してやらないと、子供に怒られちゃうのが面白かったです。先生もやりづらいから、たとえばドリルをやらなくていいよって目くばせしてくれるんですが、やらないと、隣の子がすかさず言いつけるわけです。ところが逆に今度は本気でやるとザワついてしまう(笑)。

 職員のみなさんはわかってらしたので、職員会議にも出させてもらっていたわけですが、それも職員室にプリントをとりに来たクラスメイトに見つかってえらい怒られましたよね。「オーストラリアの事情はどうかわからないけど日本ではあそこに子供はいちゃだめなんだよ」って(笑)。「よくわかってなくてごめんなさい」って謝ったりだとか。

 そうして2ヶ月過ごして最後の日に「実は23歳でした」と告白したら、最初の日以上に驚かれました。その2年後に沖縄に学校を作ることが決まったんですが、そのときにも同級生から手紙きましたよ。「ともちゃん新聞に校長になるって書いてあったんだけどどういうこと? あたしたちまだ中学生だけど」みたいな(笑)。

▲こちらも小学校での写真。クラスメイトと一緒に。

すべての子供の味方になれる学校を作るために

──松下政経塾で4年間学んだあとに沖縄にフリースクールを作られたそうですが、なにかきっかけがあったんでしょうか。

白井 政経塾の4年間で、国内外のおよそ100校ほどの小中学校を巡ったんですが、いろいろな学校を見てきたなかで一番気になったのは、暗い顔をして、重い足を引きずって通ってくる子たちの存在でした。そういう子たちに、毎日意識して笑顔で声をかけたりあいさつしたりすると、顔が明るくなっていくし、態度も柔らかくなっていくんです。わたしが「今日までなんだ」と言うと、泣いて「最初の日に名前を呼んでもらってすごくうれしかった」みたいなことを言われたりする。そういった経験から、教員免許すら持っていないわたしも、一人ひとりを絶対的に肯定し続ける存在にだったらなれると感じました。そのために、小さくてもいいから学校をつくりたいと思うようになりました。

 松下幸之助の残した言葉で「夢があったら人に語りなさい、相談して回りなさい。そうすると、応援者が集まってきて、必要な情報も集まってきて、夢は自然にかなっているものだ」という言葉があって。その言葉に倣って、いろんな人に相談して回っていました。そうしていると、不思議と相談する前に情報がくるようになるんですよね。そうして、沖縄アクターズスクールのオーナーの方に出会い、一緒に学校をつくることになりました。

 最初の構想は不登校の子を対象とした学校ではなく、インターナショナルスクールでした。ところが、よく考えたらビザが取れないということに、準備し始めてから気付いたんですよね。すごく行き当たりばったりですが(笑)。でも、当時は安室奈美恵ちゃんやSPEEDの人気がすごい時期で、経営母体だったアクターズスクールの広告効果で生徒が130人も全国から集まる形になりました。

 そこからとにかく1年後の開校に間に合わせなければと、いろんなことを頑張りました。土地もすでにあるからと言われて行ったんですが、どこも反対運動にあって、なかなか決まらなくて。住民投票まで行われた町もありました。特に学校の先生から「不登校=不良の子」というレッテルを貼られて。「不良が本土から押し寄せてくる!」というイメージを持たれていたみたいで(笑)。3ヵ所ほど転々として、結局、最後にムーンビーチホテルという会社の社長さんが「俺も一緒に子供たちを守る」と言ってくださって、ようやく開校できることになりました。

 開校してからも大変で、最初はとにかく受け入れることに必死でした。みんな自由を勘違いしてきてるから、初日からすぐ、たばこスパスパ、寮の部屋ではお酒を飲んで、みたいな無法地帯になっていて(笑)。「このままだと潰れるな」と思って、開校の翌日に「全員集まって」って生徒を集めて。

 とにかくそこにいたのは学校教育で傷ついたりして、大人を信用できなくなってる子たちですよね。当時は学校の不祥事がたくさんあって、それを隠そうとした校長が謝る、といったニュースが連日流れていたので、じゃあその逆をやろう、と。こちらから先に全部さらけ出すしかないと思って「このままだとこの学校は潰れる。わたしも頑張るけど、みんなに協力してもらえないとどうしようもない」と伝えました。

 それから毎日全体ミーティングをして、その時々に起こっている問題について話し合うようになりました。「それなら自分たちでルールを作ろう」ということになって、「タバコは吸わない」とか「お酒は飲まない」という規則ができたんです。そんなの、そもそも当たり前なんですけど(笑)。

 あとは、これは20年以上ずっとですが、わたしはとにかく前歴を全然聞かないんです。今まで何があったのかとか。少年院に行ってたとか、不登校してたっていうところとかを掘り返されて、嬉しい子はいないので。その子が触れられて嫌な話には、こちらからは立ち入らない。信頼関係を少しずつつくっていく中で、素直に自分からいろんな話をしてくれるようになります。これもそもそも人間関係において当たり前のことだと思うのですが。

 たとえばリーダーシップがあるな、と思う子を「ちょっとみんなをまとめる役割でお願い」ってやると、見事にまとめてくれて。後から聞くと、暴走族のリーダー的存在だったみたいな話もありました。そういう、今までの経歴ではなく、本当に一人ひとりの特性を見て、そこを活かせるような環境を作ると、子供たち同士がコミュニティを守って維持してくれる。上の子たちが小さい子たちの面倒を見て、小さい子たちは上の子たちにあこがれて育つみたいな。そういう形ができていったんですよね。

──なるほど。そこでは、智子さんが小学校時代に日本の学校で感じた同調圧力とかいじめみたいなものっていうのは起こらなかったんですか?

白井 いじめはもう絶対だめというのは、一貫していますね。そればかりを押し出していました。そういうことが起こったときは、とにかくなんでもいいからわたしが話を聞くよ、必ず守るよって言ったら、占いの館みたいにわたしの前に行列ができて、みんなが泣きにくるみたいな感じになって(笑)。

──それを聞くと、算数のやり方が違うだけで攻撃されるような、みんな一緒じゃないと攻撃するといったいじめも、システムに作られたものなんでしょうね。

白井 そうなんですよね。よく「不登校の子や課題のある子ばかり集めて、大変でしょう」と言われるんですが、そういう同調圧力がない、そしていじめられない、自分が頑張ってもできないことで責められるということがない場所に置かれるだけで、子供はめちゃくちゃ落ち着くんです。むしろ悲しくなるくらいに変わります。

フリースクールの現場から、市の教育の変革へ

──沖縄のあとは、大阪の池田でトイボックスを設立されて、フリースクール「スマイルファクトリー」を立ち上げられていますよね。

白井 沖縄から大阪に移ったあと、地域コミュニティ誌に「東大卒、不登校の子専門の家庭教師です」という三行広告を出して、家庭教師をやっていました。その時に、池田市長だった倉田薫さんという方に呼ばれて、「池田市は不登校の方が100人以上いるんだけども、公の支援だけでは救えていない。そこで、市長の補佐官をやってどうにかしてくれないか」と言われました。でもやっぱりわたしには現場がないとダメですと言ったら、「それなら、今廃止が検討されている施設を活用してフリースクールをつくったらいい」と言われました。当時はいわゆる国賊根性が染みついてるので、公との連携なんて、いいんですか⁉ と驚きましたね(笑)。2003年のことでしたが、その数年前の「附属池田小事件」で、池田市のイメージが大きく変わってしまったということもあった。そこでもう一度「教育の街・池田」を再興しようという機運もあったかと思います。

▲スマイルファクトリーでの授業の様子。

 とはいえ、今でこそ笑い話として先生方とも話すんですが、当時は本当に黒船扱いで、沖縄でフリースクールをやっていた白井なにがしが殴り込みをかけてくる、ぐらいの反応でした(笑)。だから、まずは市内の校長先生を訪ねてまわって「先生方が頑張られてきたことを否定するつもりは毛頭ありません。不登校の子の対応で、学校の先生方のご負担も大きくなっていると思うので、そのご負担を少しこちらにください」といった話をさせてもらったのを覚えています。

 開校したばかりの頃は1日2、3人しか来ませんでした。でも、安心できる場所があると、子供って本当に元気になるんですよね。学校に行けなくなってしまった子も、ここに来ることで学校に戻れるようになったり、進学先を見つけたりして、社会に羽ばたいていく。こういう事例が増えて、学校側も、今はこの子にとってフリースクールが必要な時期なんだなと理解して、子供たちがもう一度学校に復帰したいときにも、ちゃんと復帰しやすい環境を整えてくれるようになっていきました。

──18年前のお話はちょっと今聞くとびっくりするようなことばかりなのですが、智子さんはこの18年で何がいちばん変わったとお考えですか?

白井 やはりあの時代に市内にフリースクールが一つできたことの影響はかなり大きかったと思います。うちを目指して引っ越してくる子たちもいますし、池田市の学校も、そういう子をちゃんと学校で受け入れて、こちらとも連携をとってくれるようになりました。この18年で、最初は黒船扱いだったのが、だんだん理解が広がっていって、結果的にみんなで支え合う体制ができてきているのは、とても大きな変化だと思います。

──最初は警戒していた市の教育委員会が、今は良きパートナーになってくれているというわけですね。その潮目が変わるきっかけのようなことはったんでしょうか。

白井 池田市ではいじめ・不登校に関する会議が学期ごとに行われているんですが、全学校の代表に加えて、NPOの代表が公式メンバーとして入るというのも、とても画期的なことでした。ところがその会議に参加し始めたばかりの頃は、学校の先生が「うちの学校は何人不登校がいます。その中の何人が、『残念ながら』スマイルファクトリーに通っています」と言われるような扱いで。

──失礼な話ですよね。「残念ながら」ってなんだよと。

白井 別にさらってきてないよ、って話なんですが(笑)。うちは会いたくないという子に無理に会って話をしたりはしません。何ヶ月もかけて家に通って、少しずつ信頼関係を作ってスクールに来ることができるようになる。それだけでも大変な仕事なんですが、それが「残念ながら」の一言で片付けられてしまうという世界がそこにあったんですね。

 ところが2〜3年経ってから、そういう人たちに対して、学校の先生たちが「その言い方は間違っている」と言ってくれるようになったんです。「スマイルファクトリーに通い出したというのは、その子にとっては人生で初めて大人を信用しようと思った瞬間かもしれない。なぜ学校はそこに関わろうとしないのか」と言ってくれたんですね。その先生は学校に通えなくなった子供がいたら、スマイルファクトリーを紹介してくれて、その子がうちに来るときにも必ず一緒についてきてくれるような先生でした。「こういう場所があるんだから徹底的に子供たちのために活用するべきだ」というふうに、学校の中の人が言ってくれたというのが大きかったですね。そこから変わり始めた。

 もう一つ、2016年の年末に、教育機会確保法という法律が制定されたことが大きいと思います。その2年前あたりから安倍総理が東京のフリースクールを見学したり、当時の下村文部科学大臣がフリースクールについて言及したりしはじめて、初めてそのテーマで審議会ができたり調査ができたりするようになりました。政経塾出身者として、もちろんそこは活用しないと、ということで、国会議員の間を回ってロビイングしました。

──現場でしっかりと教育を試行錯誤するということと、東京でロビイング活動して法改正に関わるということ、両方やっている人は珍しいんじゃないでしょうか。

白井 そういう面では、政経塾に行ってすごく良かったと思っています。政治家の側も現場の情報は本当に求めているので、真剣に聞いてくれますし、考え方がちょっと違っていても、ここの枝葉の部分を落とせば法律として制定できる、といった具体的なアドバイスをしてくれるので。

──智子さんの活動は日本におけるフリースクールの普及で実績を上げてきた人という一方で、社会起業家の雛形としての存在感があると思っています。そういったことは意識されたりしていますか?

白井 本当に最近ですね。今まではどちらかというと現場が中心でしたが、今年初めから新公益連盟の代表になり、根本的に社会をどうしていくか、という問いに取り組む割合が高くなってきました。今まで各団体が現場で実践して結果を出してきたことを、どうすればより広く必要な人たちに届けられるか。コロナ禍を経て、今まで通りの対応では立ち行かなくなってきたことも多くあります。今の学校教育では全ての子供を救いきれていないので、学校教育そのものを考える必要もあります。今はそういった、より根本的な問題に取り組み始めていますね。

大人が学び直し、ゼロベースから教育を考える場としての「風の谷」

──徐々に「風の谷」の話も聞いていきたいと思うんですが、智子さんは安宅さんとはどこで知り合ったんですか?

白井 建長寺で行われた「コクリ!プロジェクト」の合宿です。合宿の最後くらいで、それぞれがこれからやっていきたいことを考えて、20くらいのテーマが出てきたんです。それで、特に自分はこれをやりたいという案を出してない人は、どれにジョインしたいか決めてください、と言われてジョインしたのが安宅さん発案の「風の谷」だったんですね。

 初めて「風の谷」の構想を聞いたときは、わたしは南相馬に通っているので、最初は「そういう場が整備してあると、災害のときにお互い融通しあったりとかできていいよね」という視点でした。

──実際に加わってみるとそういう話でもなく、本気で都市生活とは違うロジックで暮らす場所を作ろうという話だったと。

白井 一番実現しそうなテーマだったので入ったんですけど、こんな形になるとは本当に思っていませんでした(笑)。わたしは今まで、いくらゼロベースといっても、今までの教育の課題を受け止めたり、そこと折り合いをつける感じで活動してきたので、そこを取っ払って考えるのは初めてなんです。本当に最初のうちは、どう考えていいかがわかりませんでした。

 ところが途中から、ゼロベースで考えるということがだんだん癒しになってきて(笑)。「なんでもう通用しないとわかり切っているものに対して一生懸命気をつかってきたんだろう」と。偉そうに聞こえるかもしれませんが、子供たちも、中で頑張っている先生方すら、ここに未来がないんじゃないかと思っているものに、そこまで遠慮する必要もないな、と思うようになった。都市の教育の課題とたたかって絶望感と向き合う日々の中で、人間にとって本質的に必要な教育をゼロから考えることが希望と感じるようになりました。

──やはり智子さんが本格的に研究に参加されて教育チャンクが動き出してから、「谷」というプロジェクトがすごく立体的になった気がします。キックオフからの2年間のうち、最初の1年はコンセプトメイクだったし、次の1年間はインフラ系の基礎研究が中心だったと思うんですよね。プロジェクトのコアメンバーは全員、僕も含めて人生の後半に入っている人たちなんですが、ここから自分の人生は過去よりも未来のほうが長くて、しかも自分がいなくなったあとも世代を重ねていく場所をつくっていくのだという課題が、教育チャンクが入ることで、初めて視界に入ったんだと思うんです。

白井 安宅さんはいまだに「難しいの始めちゃった」とか言ってボヤいてますけど(笑)。

──智子さんは、8月に行われたプロジェクトミーティングを経て、あらためて風の谷の理想の教育について、どうお考えですか?

白井 教育憲章をつくっていく議論のなかで、わたしが前提として「すべての子供は愛され守られ慈しまれるべき存在である」と言ったのですが、そこにみなさんが共鳴してくださったのは、すごく嬉しかったですね。「寂しい子供をなくしていきたい」という思いがわたしの一番の根底にある想いなので、すべての子供に絶対的肯定者がいるということはすごく大事なことだと思っています。

──智子さんたちがまとめたスライドを見ていて、一番衝撃的で面白いと思ったのは、学校の話をしてないことなんですよね。僕らは教育の話を考え直すときに、どんな学校を作るかという話を考えてしまう。もちろん学校的なもののあり方は、ここでもすごく考えられていますが、あくまで一部なんですよね。どういうマインドが必要で、そのマインドに基づいた議論をどう子供たちに伝えるのか、ということに主眼が置かれていて、学校はその一部に過ぎない。そこで出会うべき大人や築かれるべき関係性はどうであるか、ということが、このチャンクで考えられていることの9割ですよね。

白井 究極を言えば、学校はただの装置なんですよね。フリースクールをずっとやってきて、本当に肌身で感じたのは、学年やクラスで区切るというシステムは、安価に低コストで大人数を教育するための、便宜的な装置にすぎないということ。にもかかわらず、それが絶対的な存在として、そこに合わせていくということが目的化してしまったから、いろんな歪みが生まれてしまった。

 だからこそ、学校という枠組みを取り払って考えてみようというのは、おっしゃる通り革命的な展開でした。そうすると人間対人間の話になりますよね。結局、学校というのは人間と人間が出会うための場所じゃないかと。そのうえで、どうそれぞれに合った学びや生育環境をつくっていけるかを考える必要がある。絶対にどの子も取りこぼさない、落ちこぼさない、という覚悟も必要になります。

──教育チャンクでは、まず最初に「我々が育てるのは、谷以外の人が全滅したときに生き残る人たち」と定義するじゃないですか。まず、あれにガツーン、とやられたんですよね。

白井 まず、今までの教育では、子供たちがこれからの時代を生き抜けない、という強い危機感が根っこにあります。

 大災害が明らかに増えている中で、その時代を生き抜くための知恵が、学校ではほとんど教えられていない、そういう議論すらされていない。AI化が進み、コロナで社会の前提が変わりつつある中で生き残る仕事も変わるのに、学校では相変わらずペーパーテストで良い点とることを追いかけさせていて。満点とったって仕事ないのに。こんな呑気なことしてたら本当に人類が滅ぶんじゃないかという危機感の中で、それでも子供たちにたくましく生き抜いてほしい、サバイヴしてほしい、という強い思いを込めました。

 わたし、今までフリースクールとか凸凹がある子供の場所をつくってきたのも、ノアの方舟をつくる感じだったんだなあと最近気づいて。そのイメージも少し重ねているかもしれません。

──しかも、「偏った人」を育てると明言していますよね。これ、わかっていてもなかなかここまではっきりと明言できないと思うんです。

白井 だって、安宅さんも宇野さんも、「風の谷」のコアメンバーも、みんな偏った人、カタヨリストですよね。今まで出会ってきた経営者、政治家、著名人なども、目立った功績を上げている人、世の中に影響を及ぼしている人は、みんなカタヨリスト、とわたしは思っています。カタヨリストが社会をつくってきた。

 でも、おなじ凸凹を持って生まれてきても、欠けているところは周りに補完してもらいつつ突出したところを伸ばして活躍できる人と、凸凹を否定され自信を失って引きこもってしまう人と、何が違うのかなと考えると、それは、偏りを肯定してくれる人や場所と出会えたかどうか、という一点だなと思っているんですね。

 偏っててもいいんだよ、じゃないんです。「偏り万歳!」と言い切るのが大事だなと。それで生まれたワードがカタヨリスト。

──その具体像もすごく好きで……。「人との違いを大切にできる人」とか「考えていることをわかりやすく表現できる」というのは普通に共感するのですが「チャームがある人、モテたい人にモテる」というのが、すごくいいと思います。

白井 少子化とか若者の草食化が社会課題とか言うけど、そもそも学校の持ちものの条件に「ファッション性があるものは禁止」とか書いてあって、なんで? って思うんですよね。

 自分を魅力的に見せることとか、好きな人にしっかり思いを伝えられることとか、人としてすごく大事だと思うんですけど、学校ではそういうことが謎にタブー視されてることを、ずっと疑問に思ってきました。性教育とかもタブー視されるけど、人としてとても大切なことですよね。むしろ勉強よりも大事じゃないかとわたしなんかは思うんですが、そういうことを軽視したり否定したりするからかえって歪むんじゃないかと思ってて。

 教育で一番大事だと考えている「とにかくたくましく生き抜く、サバイヴする力をつける」という意味でも、「モテたい人にモテる」というのは、実はチャラい話でもなんでもなく、根幹に関わる話と思っています。

──ひとつ難しいなと思ったのは、「風の谷」の教育チャンクの現時点でのコンセプトというのは、都市とは異なるタイプの人間観に基づいて、必要なマインドと必要な知識を子供たちに与える、学んでもらうということを考えているわけですよね。それは自然との触れ合いや、都市とは違う世代間コミュニケーションだったりするんだと思うんですが、それを教える側の大人たちは、都市から逃げてきた存在にならざるを得ない。
 つまり、僕ら自身は都市の教育を受けて、都市という装置の限界を感じて「風の谷」を作っていこうという世代で、「谷」的な教育を受けてないわけです。これはすごく野心的なプランなんだけれど、そこに壁がありそうな気がします。

白井 本当にそうだと思います。大人の側がいかに今までのマインドを変えられるか、ということなんですよね。実はそっちの方がはるかに難しいです。これは、今までの教育チャンクでの議論からも学べることですね。

 わたしも「自分がそういう教育を受けたかったな」と思います。「風の谷」にジョインしてから大学の同期だったとわかった柴沼俊一さんとも、一番学び直さないといけないの、アラフィフの自分らだよね、人生で大事なことを学んできてないよね、と話していて。
 地球環境と向き合って、土に触れながら自分たちの食べていくものを育て、自分たちが住むところも自分たちで選び、つくって、お互いの多様性を尊重しあって楽しく毎日を生きるということが実現できるといいなと。わたしも生徒になる感覚です。それこそ「谷」の住人として、それを子供たちと一緒にやって、何があっても生きていけるという自信を、わたしもつけたいと思っています。
 「風の谷」での活動は、そういう自分自身が積み重ねてきたものと向き合うきっかけになっているな、と。とはいえ自信のないところもえぐり出されて、もう一度人生のゼロ地点に立たされてる気がしています。

──本当にそうですね。僕にとっても、「風の谷」は人生のゼロ地点だと感じています。今日はありがとうございました。

[了]

この記事は、宇野常寛が聞き手を、石堂実花が構成をつとめ、2020年9月21日に公開しました。
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