1920年代のウィーン〜アイコンと科学哲学のルーツ

▲アイコンの元祖とも言われる「アイソタイプ」(引用

 現代のIT機器に欠かせないもののひとつに、アイコンがある。デフォルメされた画像によって特定の内容を明確かつわかりやすく伝達できるアイコンなしには、これほどまでにIT機器が広まることはなかったことは間違いない。とはいえ、コンピューターが生まれる前から、アイコンと同様のデフォルメされた画像によって内容をわかりやすく伝えようという試みは存在した。わかりやすい例では、教科書の図説がそうだ。おそらく人類は、その歴史の黎明期からデフォルメされた画像を使ってコミュニケーションを図ってきたのだろう。だが、アイコンのように、内容伝達の効率化を目的として、特定のパターンに従ってデフォルメされた画像のみを用いるという試みは、そこまで古いものではない。ある説によれば、そうした試みは1920年代に遡るとされる。そしてその場所は、オーストリア帝国の首都ウィーンである。

 1926年のウィーンで、オットー・ノイラートとマリー・ライデマイスター(晩年にオットーと結婚してマリー・ノイラートとなる)という男女2人が指揮するデザインチームが「アイソタイプ(isotype)」というある種の絵文字を開発する。ノイラートが設立したウィーン社会経済博物館では、一般市民向けに社会学的、経済学的知識を得られる機会が設けられていたのだが、まだ教育が行き届いていなかった当時の市民でも容易に理解できる方法が必要だった。そのためにアイソタイプが開発されたのだ。

 ところで、オットー・ノイラートの名前は、アイソタイプの開発という一点でのみ歴史に残っているのではない。むしろ彼は、ひと昔前に分析哲学を学んだ人の中では知らない人がいないと言ってよいほど広く知られている。ノイラートは、彼に由来する「ノイラートの舟」という比喩によって知られる科学哲学者であり、そもそも科学哲学という分野の確立に大きく貢献した「ウィーン学団」の設立者の一人なのである。

▲オットー・ノイラート(出典

ウィーン大学で世界初の科学哲学の教授となったマッハ

 今回はウィーン学団に焦点を当てるが、まずその前に、ウィーン学団誕生に背景にある、オーストリアの科学と哲学の状況について話をしなければならない。

 じつは19世紀の著名な科学者にはオーストリア人が少なくない。例えば、ドップラー効果で知られるクリスチャン・ドップラー(1803-1853)。その教え子のメンデルの法則で知られる遺伝学者のグレゴール・ヨハン・メンデル(1822-1884)。さらには、速度の単位マッハに名前を残すエルンスト・マッハ(1838-1916)、そしてエントロピー増大則の証明で知られ、統計力学の創設者の一人であるルードヴィヒ・ボルツマン(1844-1906)。彼らはみな、オーストリアに生まれ、オーストリアの大学で活躍し、オーストリアで没した、生粋のオーストリア人である。彼らの他にも当時のオーストリアには著名な科学者が少なくなかったのだが、その理由は一説には、多民族国家であるオーストリア帝国には母語が異なる民族が多数暮らしていたがために、母語が異なっていても差が生まれにくい数学や科学が広まっていったとも言われている。

 こうしたオーストリアを代表する科学者の中でも、哲学との結びつきではマッハは特別だ。彼はウィーン大学に科学哲学の教授として着任するのである。ウィーン大学でのマッハの職は、正式名称を直訳すると「帰納科学の歴史および理論を特に専門とする哲学教授」という長ったらしいものであり、しかもこれはマッハ本人の希望によってこの名前になったという。つまり、マッハはウィーン大学での自らの職を、科学について研究する哲学者だと認識していたのである。実際マッハは、直接には観察できないという理由で原子の実在を否定するという極端な実証主義者(あるいは、哲学の用語で言うと経験論者)であり、引力が観察できないという理由でニュートン力学すら認めず、観察できるもの、実証できるものだけで科学は行なわれるべきだと考えていた。

 1901年、マッハはオーストリア貴族院議員に選出されたためにウィーン大学を辞任するのだが、後任となったのがボルツマンである。興味深いことに、ボルツマンはマッハとは逆に、当時はまだ顕微鏡などで直接観察することができなかったにもかかわらず、原子論を熱心に支持した。マッハとボルツマンは、立場は正反対であるにせよ、原子の実在という哲学的問題に熱心に取り組んだ科学者だったのだ。

 このようにマッハとボルツマンは、歴史に名が残る科学者というだけでなく、哲学にも傾倒していたわけだが、彼らのように科学者がそれに関連する哲学的問題にも取り組むことは、当時はそれほど珍しいことではなかった。もちろん、19世紀にはすでに各種学問の専門化が進んでいた。物理学や天文学は「自然哲学(natural philosophy)」の一分野であり、それ以外の哲学分野──こちらは「道徳哲学(moral philosophy)」などとも呼ばれていた──とは異なるという認識は一般的なものとなっていたが、自然「哲学」である以上、原子が実在するかどうかといった「哲学的」問題も研究対象に含まれていたのだ。

 ボルツマンの死後はマッハの教え子のアドルフ・シュテールという哲学者が後任を務めるが、シュテールも1921年に死去し、翌1922年にモーリッツ・シュリックというベルリン生まれのドイツ人哲学者が後任としてやってくる。シュリックは、量子力学の創設者の一人としてノーベル賞を受賞したドイツの科学者マックス・プランクの教え子であり、物理学で博士号を取得するが、哲学に専門を変え、ドイツ国内のいくつかの大学を転々としていた。ウィーンに到着したシュリックが1924年に始めたのが、科学哲学をテーマにした木曜の午後の会合である。数年後、この会合の参加者によって「エルンスト・マッハ協会(Verein Ernst Mach/Ernst Mach Society)」が設立される。マッハ協会の活動はウィーンやオーストリアを越え、ドイツを皮切りに、欧米諸国に活動を広めていく。その際に用いられた略称は、ノイラートが考案した「ウィーン学団(Wiener Kreis/Vienna Circle)」というものだった。

▲モーリッツ・シュリック(出典

 シュリックはマッハ協会の会長であり、名実ともにウィーン学団のリーダーであった。彼の非業の死により(講演中に学生に射殺される)、ウィーン学団の勢いが多く削がれたことは間違いない。だが、本連載では、別の人物に焦点を当てたい。その人物もまたウィーン学団の中心メンバーであり、マッハ協会では副会長としてシュリックを支えたことで知られているが、それだけでなく、むしろウィーン学団の影のリーダーでもあったとされる。その人物とは、本連載の初回ですでに登場した、ゲーデルの博士論文の指導者であるウィーン大学の数学者、ハンス・ハーンである。

ウィーン学団誕生の背景にあった3人の若き科学者の友情

 1879年生まれのハンス・ハーンもまた、ウィーンで生まれ、ウィーン大学で学び、ウィーン大学を含むオーストリア帝国内の複数の大学で教え、ウィーンで亡くなったオーストリア人科学者である。ウィーン大学の学生時代、ハーンは同じウィーン出身の2人の学生と生涯の知己を得る。一人は、5歳年下のフィリップ・フランクというボルツマンの教え子の物理学専攻の学生。もう一人は冒頭で登場したアイソタイプの開発者であるオットー・ノイラート。ハーンより3歳年下のノイラートもまたウィーン大学の数学専攻の学生であり、ハーンとは大学入学前からの知り合いだった。彼らは機会があるごとに集まり、科学と哲学について語り合ったという。

▲ハンス・ハーン(出典
▲フィリップ・フランク(出典

 3名の若き研究者による科学と哲学についての非公式な会合は、各自が学位を取得してウィーンで働き始めた後も続く。ハーンとフランクの2人はウィーン大学でささやかなポジションを得て、それぞれの専門を教え始める。ノイラートはウィーン大学の授業にはほとんど出ず、結局ドイツに移ってベルリン大学で学位を取得し、その後ウィーンに戻って細々と経済学を教えていた。だが、1909年にハーンが、チェルニウツィーという当時はオーストリア帝国領内にあったが現在はウクライナに属する都市の大学に赴任することによって、彼らの会合は終わりを告げる。フランクはハーンがウィーンを去ってからもしばらくはウィーン大学で教えていたが、1912年にプラハ大学に赴任する。プラハ大学の前任者はあのアインシュタインであり、アインシュタインがベルリン大学に移る際に後任としてフランクを推薦したのだ。広大なオーストリア帝国内で遠く離れてしまったとはいえ、彼らの交流が完全に途絶えたわけではなかった。ハーンがウィーンを去った後の1911年、ノイラートはハーンの妹で、女性として3番目にウィーン大学で学位を取得した盲目の数学者オルガ・ハーンと結婚しているぐらいだ。だが、ハーンやフランクがノイラートに会うために帝国を横断してウィーンにまでやってくるのは決して容易ではなかった。ハーンがウィーンを去るとき、彼ら3人はいつの日か自分たちの会合を、大きな規模で、公式な形で再開させようと誓い合ったと後にフランクは回想している。

 しかし、彼らの誓いが叶う機会はなかなか訪れなかった。1914年に勃発した第一次世界大戦は彼らの状況を大きく変えた。まず、ハーンはオーストリア帝国の兵士として従軍する。イタリア戦線で負傷したために戦線から離脱することになり、終戦前に戦火を逃れてオーストリアからドイツに移住し、戦後はボン大学で教えるようになる。ノイラートは戦争勃発に伴い、オーストリア陸軍省の経済局で働くようになる。さらには後方司令部にも大きく関わり、勲章を授けられるほどだったが、ハーン同様、機会を得てオーストリアを離れてドイツに移住し、ハイデルベルクやライプチヒなどドイツ国内を転々とすることになる。フランクだけはプラハに残り続けるが、彼らが出会うことはかなり難しくなっていた。

 だが、その機会がついに訪れる。ノイラートはドイツで社会主義運動に傾倒し、第一次世界大戦後に短期間だけ存在したミュンヘン・ソビエト共和国に関わるが、その崩壊後に投獄される。オーストリア陸軍省時代の部下だった社会主義者のオットー・バウアーの尽力により、ノイラートは1920年にオーストリアに帰国することになるのだが、その直後に、ボン大学で成果を積み上げて数学者として名を成したハーンが、ウィーン大学に数学の教授として帰ってくるのである。

 ハーンがウィーン大学に帰ってきてまもなく、かつてマッハとボルツマンが務めたあの科学哲学の教授職に就いていたシュテールが死去する。ハーンらにとってこれは千載一遇のチャンスだったに違いない。このポストに彼らと志を同じくする人物を迎えることができれば、ハーンの専門の数学、フランクの専門の物理学、ノイラートの専門の数理経済学という三つの科学を哲学的観点から検討してまとめ上げるという、若き日の夢の実現に大きく近づくことは間違いない。おそらくそのように考えたであろうハーンは、彼らが望む人物が後任になるよう運動し、最終的にシュリックの招聘に成功するのである。シュリックは相対性理論とカント哲学に関する論文を書いており、それを読んで感銘を受けたアインシュタインと交流があった。ハーンはフランク、そしてアインシュタインを通じてシュリックのことを知ったのであろう。したがって当然のことながら、シュリックが始めた木曜の午後の会合には、ハーンとノイラートの顔は常にそこにあり、時にはフランクもプラハから帰省して出席していた。

 ウィーン学団の初期の参加者には、後にアメリカに渡り、ミネソタ科学哲学センターという世界で最初の科学哲学センターを立ち上げることになる科学哲学者のハーバート・ファイグルなど、シュリックの教え子たちもいたが、ハーンの教え子も少なからず参加していた。例えば、ゲーデルがそうだ。また、本連載の第1回に登場した、ゲーデルとタルスキが出会うきっかけをつくったカール・メンガーもハーンの教え子であり、ウィーン学団に参加していた。そして、ハーンの同僚だったクルト・ライデマイスターという幾何学を専門とする数学者も参加していた。彼の妹が、ノイラートと共にアイソタイプを開発したマリー・ノイラートである。シュリックは名実ともにウィーン学団のリーダーだったが、ウィーン学団の創設者は、こうした事情からハーン、フランク、ノイラートも含めた4名だとされる。

 事実、フランクはハーンの追悼文で、彼こそがウィーン学団の影のリーダーだったと回顧している。

ラッセルを拒否したドイツ哲学、ラッセルを受け入れたオーストリア哲学

 ウィーン学団は一般に科学哲学という分野の始まりとされているが、彼らの哲学の大きな特徴として、フレーゲやラッセル、ヒルベルトが発展させた数理論理学を用いる点がある。だが、リーダーのシュリックはノーベル賞物理学者プランクの弟子であり、相対性理論についてアインシュタインと議論していたように、彼の関心はまず物理学にあった。創設者の残りの3人のうち、フランクはシュリックと同じ物理学者だが、ハーンは数学者であり、ノイラートも数学出身である。じつはハーンとノイラートは、1907年ごろからラッセルを研究していたことがわかっている。彼らがウィーン学団に数理論理学を持ち込んだのだ。だが、どうして彼らはラッセルに注目したのだろうか。これを理解する鍵となるのは、オーストリア哲学である。

 本連載の第2回で述べたように、オーストリア哲学とは、ドイツ哲学、特に19世紀終わりから第一次世界大戦終戦までに国際的にも大きな影響力を持っていた新カント派が崇めるカントの哲学を否定し、アリストテレスに範を求める哲学だった。「ブレンターノ学派」の祖であるブレンターノもまた、カントを拒否し、イギリス経験論の哲学者であるヒュームやミルの方を高く評価していた。

 ハーンとノイラートがラッセルを研究し始める少し前、まだ彼の名を世界的に有名にした『プリンキピア・マテマティカ』は出版されていなかったが、ドイツの哲学界でラッセルのことが少しずつ広まり始めていた。マールブルク大学の新カント派が、ラッセルとフレーゲの立場をとりあげ、彼らが目指す記号論理学による数学の基礎づけは不十分だと批判したのだ。ラッセルもこれに応戦するが、両者の相違は大きかった。そのひとつが、カントとライプニッツの関係である。新カント派は、彼らのヒーローであるカントはライプニッツの哲学を受け継ぎ、発展させたとみなしていた。それに対しラッセルは、カントの哲学は間違っていると考えていた。前回の連載で、カントがライプニッツの普遍記号学を否定したことを述べたが、ラッセルからすれば、これがまさにカントの誤りを示している。フレーゲの概念記法はまさにライプニッツの普遍記号学であり、これによってカントの誤りが証明されたのだ。このように考える点で、ラッセルと新カント派に代表されるドイツ哲学は、真っ向から対立していた。

 ハーンとノイラートがラッセルに興味を持ち始めたのはまさにこの点である。オーストリア人であるハーンとノイラートにとって、「直観」に訴えるカントの数学観は受け入れがたいものだった。実際、数学を「直観」と切り離し、論理学に結びつけるというラッセルのアプローチは、オーストリアではドイツよりも遥かに容易に受け入れられていた。ラッセルの哲学が早い段階で受け入れられていた大学のひとつが、グラーツ大学である。グラーツはウィーンに次ぐオーストリア第2の都市であり、当時グラーツ大学にはブレンターノの教え子であるマイノンクがいた。マイノンクはグラーツで「マイノンク学派」とも呼ばれる哲学と実験心理学の両方にまたがる研究グループを形成していたのだが、ラッセルがマイノンク学派の本を書評で取り上げたことをきっかけに、両者の間での交流が始まる。マイノンクの名前は現在でも哲学者の間では知られているが、その理由は、ラッセルが彼の代表的な論文「表示について(On Denoting)」でマイノンクの立場を取り上げて批判しているためだ。ラッセルは、マイノンクとの交流を通じて彼の立場を深く理解していたのである。

▲グラーツ大学(出典

 ラッセルとマイノンクの間の交流は、ハーンとノイラートにも影響した。当時のウィーン大学には、アロイス・へフラーという哲学者がいた。へフラーは、もともとボルツマンのもとで物理学を学んでいたが、ブレンターノの影響で哲学に転じ、マイノンクの指導のもとグラーツ大学で学位を取得する。こうしてマイノンクの忠実な弟子となったヘフラーは、マイノンクを通じてラッセルの記号論理学を知り、彼の論理学に深い興味を抱くようになるのである。その後ウィーン大学に移ったヘフラーは、若きハーンと共に数学の基礎づけに関する勉強会を定期的に開催する。もちろんノイラートもこれに参加していたことは言うまでもないだろう。ハーンは、当時はまだ専門家の間でしか知られていなかったラッセルを、彼の時代では最も重要な哲学者だと評するほど、ラッセルに酔心するようになる。

 前述のようにハーンはその後ウィーンを離れるが、1921年に戻ってくる。この頃には『プリンキピア・マテマティカ』はもう出版されていた。1924年、ハーンは満を持して『プリンキピア・マテマティカ』のセミナーを開始する。それ以降このセミナーは毎年開催され、彼の教え子の中から数理論理学と数学の基礎づけの専門家が羽ばたいていくようになる。その代表例が、ゲーデルなのである。

ウィーン学団の興隆と没落

▲ウィーン学団のパンフレット「科学的世界把握:ウィーン学団」(ウィーン大学・ウィーン学団研究所所有)(引用

 1928年、前述のようにシュリックが主宰する木曜午後の会合の参加者を中心に、マッハ協会が結成される。代表はシュリック、副代表はもちろんハーンである。1929年、ノイラートのアイデアにより、マッハ協会はパンフレットを作成する。このパンフレットは、「科学的世界把握:ウィーン学団(The Scientific World Conception: The Vienna Circle/Wissenschaftliche Weltauffassung: Der Wiener Kreis)」と名付けられ、ウィーン学団の名前を国際的に知らしめる。作成したのは、ハーンとノイラート、そして前年にウィーン大学にやってきて意気投合した新進気鋭の科学哲学者のルドルフ・カルナップの3名だ。プラハにいるフランクはやはり参加できず、シュリックは当時アメリカのスタンフォード大学に1年間の客員教授として招かれていて不在だった。

▲ルドルフ・カルナップ(出典

 彼らがこのパンフレットを作ったのは、その年の9月、マッハ協会が初めて主催する科学哲学の会議を宣伝するためである。その年、ドイツ物理学協会とドイツ数学協会の合同会議がフランクのいるプラハで開催されることになっており、これに合わせて科学哲学の会議を開催することで、新たな動きを生み出そうとしたのである。

 この会議の名称は、「厳密科学の認識論(Epistemology of Exact Sciences/ Erkenntnislehre der exakten Wissenschaften)」という。翌1930年には第2回の会議がケーニヒスベルクで開催されるが、この会議こそ、本連載の第1回で登場した、ゲーデルが不完全性定理を公表した「ケーニヒスベルクの会議」である。この年のドイツ物理学協会とドイツ数学協会の合同会議がケーニヒスベルクで開催されるのだが、木曜午後の会合に参加していたハーンの同僚で、後のノイラートの妻マリーの兄でもあるクルト・ライデマイスターがケーニヒスベルク大学の教授になっていたため、彼の尽力により特に支障なく前年と同様に開催することができたのだ。

 2回の会議を成功に終わらせることによってドイツ語圏での科学哲学の普及に成功したウィーン学団は、活動の国際化に乗り出す。1934年にプラハで第8回国際哲学会議が開催されたのだが、今度はこれに合わせて科学哲学の国際会議を開催したのである。ただし、この会議は、彼らが翌年に単独で開催する初の国際会議のプレ大会と位置付けられていた。このプレ大会にはオーストリアとドイツに加え、ポーランドのブレンターノ学派の一派、そして少数ではあるがアメリカとフランスからも参加者があり、一応の成功を収めた。

 そして1935年のパリで、世界初の科学哲学の国際会議「統一科学国際会議(International Congress of the Unity of Science/Internationaler Kongress für Einheit der Wissenschaft)」が開催されるのである。以後、統一科学国際会議は毎年開かれるようになる。第2回は1936年、場所はデンマークのコペンハーゲン。テーマは当時大きな注目を集めていた量子力学であり、量子力学の創立者のひとりニールス・ボーアも招かれて議論に参加した。1937年にはパリで第3回会議が、1938年はイギリス・ケンブリッジで第4回、そして1939年には大西洋を渡り、アメリカ・ハーバード大学で第5回会議が開催される。

▲ニールス・ボーア(出典

 このように、1930年代にウィーン学団の活動は国際的に大きく広がっていったのだが、それとは対照的に、オーストリアには暗雲が立ち込めていた。第一次世界大戦は、革命によってオーストリア帝国が崩壊することによって終戦を迎えるのだが、各民族の独立に伴い、ドイツ人が住む地域はオーストリア共和国として再出発していた。だが、1930年代に入って右傾化が進み、ユダヤ人への差別が激しくなっていたのである。ウィーン学団のメンバーでも、特に若手の有望株だったファイグルはユダヤ人であり、オーストリアでの将来を悲観して1930年にアメリカに移住してしまう。そして1934年2月、2月内乱が発生する。ファシスト勢力と社会民主主義勢力が武力衝突し、責任を問われたオーストリア社会民主党は解散させられる。ノイラートを救ったバウアーは社会民主党の主導的立場にあったが、彼も亡命を余儀なくされる。その結果、ファシズムの独裁政権が誕生するのである。

 社会主義者だったノイラートは2月内乱の当時、ソビエト政府に招かれてモスクワに滞在していた。ウィーンに戻る前、ノイラートは秘密のメッセージを受け取る。それは「カルナップがあなたを待っている」というものだった。カルナップは1931年にフランクのいるプラハ大学に移っており、ウィーンでノイラートの帰りを待っていることはありえない。ウィーンに戻ることの危険を感じたノイラートは、ウィーンには戻らず、オランダのハーグに亡命する。その判断は正しかった。オーストリアのファシズム政権はマッハ協会を解散させ、ノイラートがアイソタイプを開発したウィーン社会経済博物館も閉鎖される。ノイラートはハーグでウィーン学団の活動を続けるが、生涯ウィーンに戻ることはできなかった。

 ウィーン学団にさらなる大きなダメージを与えたのが、ハーンの急死である。1934年のことだ。そして1936年にはシュリックも元学生の凶弾に倒れる。ハーンとシュリックという2人のリーダーを失ったウィーン学団を救ったのはノイラートだった。ノイラートは亡命先のオランダ・ハーグで「国際統一科学研究所(International Institute for the Unity of Science)」を設立する。また、それまでの大会で得た人脈を生かし、ノイラート、フランク、カルナップらウィーン学団のメンバー3名に、ドイツ人、デンマーク人、フランス人、イギリス人、アメリカ人の委員各1名を加えた8名の委員からなる統一科学国際会議の運営委員会を結成する。彼らの助けにより、ノイラートらはウィーン学団の活動を継続するのである。

 一方、ドイツではアドルフ・ヒトラー率いるナチスが勢力を拡大していた。1932年にはついに第一党となり、1934年にヒトラーは総統に就任する。そして1938年、ついにナチス・ドイツはオーストリアを併合するのである。この年、ケンブリッジで第4回統一科学国際会議が開かれるが、40名以上に及ぶ実行委員リストの中に、ドイツとオーストリア在住の委員は一人もいない。半数以上がフランスかアメリカ在住である。カルナップも1935年にアメリカに移住しており、フランクだけがプラハに残っていたが、そのフランクもこの年にアメリカに渡る。この頃には統一科学国際会議は、ナチスに反対する科学者の会となっていたのだ。

 第6回統一会議国際会議は、1940年にポーランドのワルシャワで開催される予定だったが、カルナップがいたシカゴで開催されることになった。その理由は、ナチスがポーランドに侵攻したからだ。第二次世界大戦の始まりである。そして、このシカゴ大会が最後の統一科学国際会議となった。ノイラートらの尽力も虚しく、彼らの夢は戦争という現実の前に消え失せてしまったのである。

 ノイラートにはさらに厳しい現実が待ち構えていた。1940年、ナチス・ドイツが今度はノイラートの住むオランダに侵攻したのだ。ノイラートとマリー・ライデマイスターは、戦争難民としてイギリスに亡命する羽目になる。イギリスで困窮していた彼ら2人を助けたのは、統一科学国際会議運営委委員会の一人、イギリス人委員だったスーザン・ステビングという女性哲学者である。ステビングはイギリス初の哲学教授となった女性哲学者であり、当時のイギリス哲学界の重鎮だった。1942年、ステビングの助力で彼らはオックスフォード大学にアイソタイプ研究所を設立し、ウィーン時代のように、一般市民向けの教育用に様々なアイソタイプを開発する。しかし、イギリスでの生活がようやく軌道に乗ってきた終戦直後の1945年、ノイラートは急死してしまう。イギリスでノイラートと結婚していたマリーは、ノイラートの死後もアイソタイプの普及に努め、特に児童向けの教科書を多数製作する。1986年、マリー・ノイラートはロンドンで死去するが、晩年はノイラートの記録の整理やドイツ語で書かれた彼の論文の英訳を手がける日々だったと言われている。

 ウィーン学団は、ハーン、ノイラート、フランクというウィーン出身の3名の科学者が学生時代に語り合った夢の実現だった。ハーンとノイラートの死後、一人残されたフランクは、両者の遺志を継ぎ、戦後のアメリカで新たに「統一科学研究所(The Unity of Science Institute)」を設立する。いわばウィーン学団の第2章をアメリカで始めるのだ。これについては本連載でもいずれ扱うのだが、次回はフォン・ノイマンに焦点を当てよう。フォン・ノイマンはゲーデルと同様オーストリア生まれであり、ウィーン学団が主催した科学哲学の会議に数学者として参加したところもゲーデルと同じである。だが、彼を科学哲学に結び付けたのは、ウィーン学団ではなくドイツの科学哲学者である。彼らもまた、ウィーン学団と同じようにナチス・ドイツに追われてアメリカに移住することになり、コンピューターの発展に関わることになる。

[了]

この記事は、PLANETSのメルマガで2019年11月14日に配信した同名連載をリニューアルしたものです。あらためて、2021年2月18日に公開しました。